中国皇帝統計

睿帝・楊溥

呉・五代十国|在位 927–937年

諱(本名)
楊溥
在位
927–937年
在位期間
10年10日365名中135位
即位経路
擁立
死因
諸説あり
即位時年齢
不詳
没年齢
不詳
改元
4332名中29位タイ
大赦
5267名中82位タイ
立后
1204名中52位タイ
皇太子廃立
0
親征
0
反乱鎮圧
0
被反乱
0
遷都
0

順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。

即位の経緯

本来の序列では兄・臨川王楊蒙が継承すべきところ、実権者の徐温が「長君」(成人した自立的な君主)を望まず、かつ蒙を忌避したため順序を無視して楊溥を擁立した。

出典: 新五代史 巻61(呉世家第一)/十国春秋 巻2(睿帝本紀・臨川王蒙伝)

死因の経緯

史料間で見解が分かれる。九国志=簒弑の禍に遭わず天寿を全うした(病死説)。旧五代史・唐余録=禅位後1年余りで「幽卒」(幽閉先で死去、暴力性は明言せず)。新五代史=単に「卒」とのみ記し中立。十国紀年・五国故事=南唐側の使者により弑殺された(暗殺寄り)。十国春秋本文は弑殺説を採用するが他の複数の権威ある史書は暴力性を明言しておらず確定困難のため諸説ありとする。

出典: 十国春秋 巻2(睿帝本紀、諸書引用を含む)

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

睿帝(楊溥)は武義二年(920年)に呉王として即位(この時点では前代の元号『武義』を継続使用したため改元には数えない)、順義元年(921年)に王として初めて改元、乾貞元年(927年)に皇帝に即位すると同時に改元、その後皇帝在位中に太和(929年)・天祚(935年)と2回改元しており、合計4回とした。呉世家(新五代史巻六十一)も『改元順義』『改元曰乾貞』『改元大和』『改元天祚』とすべて一致し、裏取りが取れている。天祚三年(937年)に南唐へ禅譲するまで在位し、天祚が最後の元号となった。国号変更(呉→斉→唐)は禅譲に伴う南唐側の措置であり、睿帝自身による改元ではないため混同していない。

大赦回数

『大赦』の語が明記された事績のみ5件を計上した。なお順義元年二月の改元時にも『改元赦境内』(十国春秋・新五代史とも同文言)とあるが、『大赦』ではなく単に『赦』(かつ『大』字を欠く)と表記されており、武義元年の建国時の『大赦境内』(この字には『大』字あり)とは書き分けられているため、本カウントには含めなかった。

立后回数

睿帝譲皇后王氏の伝(十国春秋巻三所収の后妃伝)にも『太和五年九月冊立爲后』の記載があり、本紀の記事と整合する。

皇太子廃立回数

太和二年三月癸酉、王子(江都王)琏を皇太子に立てたとの記事はあるが(『三月癸酉立王子江都王琏爲皇太子』十国春秋巻三/新五代史も『二年,冊其子江都王琏爲太子』)、これは立太子であり廃立には該当しない。睿帝の在位中(呉王時代・皇帝時代を通じ)、琏あるいは他の皇太子が廃されたとする記事は本紀・世家に見当たらない。天祚三年の禅譲(南唐建国)後に琏が『農郡公』に降封された事実はあるが、これは南唐(徐知誥=李昪)による王朝交代に伴う処遇変更であり、睿帝自身が皇太子を廃した事績ではないため計上しない。

親征回数

在位期間(乾貞元年11月=927年即位~天祚三年10月=937年禅譲)中、睿帝自身が軍を率いて出征した記事は新五代史・呉世家(本紀部分)に見当たらない。乾貞二年(928年)に荆南の高季興が来附し楚軍を白田で破った記事があるが、これは高季興軍の行動であり睿帝の親征ではない。呉王時代(920~927年)の徐温配下の対外戦(呉越戦・後唐の前蜀討伐時の劉信召還等)は即位前の事績のため対象外。

反乱鎮圧回数

在位期間中、睿帝側が主体となって鎮圧した反乱の記事は見当たらない。大和三年(929年)11月、金陵尹・徐知詢が来朝した際、実権者の徐知誥が『反状あり』と誣告して抑留した記事があるが、原文に『誣』(無実の罪を着せる)と明記されており実際の武装蜂起ではなく、また睿帝自身が鎮圧の主体でもない徐氏一族内部の権力闘争であるため計上しない。呉王時代の刘信による虔州包囲・李遇の反抗等は徐温が処理した即位前の事績のため対象外。

被反乱回数

在位期間中、睿帝に対して起こされた武装反乱・クーデターの記事は本紀部分に見当たらない。徐知詢が誣告により抑留された一件(929年)も実際の挙兵を伴わない誣告に過ぎず、対象は徐知詢個人でありかつ皇帝自身への反乱でもないため計上しない。禅譲(937年)自体は平和裏の王朝交代であり反乱・弑逆の記事は伴わない(崩御自体は禅譲後の938年、南唐建国後の出来事)。

遷都回数

十国春秋を通読。一貫して江都(広陵)が都、金陵遷都計画は徐知誥が構想したが撤回され実現せず。

即位時年齢・没年齢

生年・即位時年齢は原文に記載なし。崩御時年齢について史料間に食い違いあり:十国春秋巻三(睿帝本紀)は『冬十月辛丑帝殂年二十八歳』(升元二年〔938年〕十月辛丑、28歳)とするが、新五代史巻六十一(呉世家)は『十二月,溥卒于丹陽,年三十八,謚曰睿』(38歳)とする。通説の生没年(901年~938年)に照らすと新五代史の『三十八』が実態に近いとみられるが、確定的な直接記載のクロスチェックが取れないため、無理に一方を採用せず年齢は保留(null)とした。没日についても十国春秋は『冬十月辛丑』、新五代史は『十二月』と一致しないが、薛史・唐余録等『溥禅位逾年而幽卒』の説とも整合するため没年月は升元二年(938年)10月頃を採用(既存データを踏襲、月精度)。confidenceはlow。

在位中の出来事(10件)

改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。

改元921年2月武義二年(920年)六月に呉王位に即いてからは前代の元号『武義』をそのまま継続使用していたが、翌順義元年(921年)二月、初めて自ら改元し『順義』を建てた。

武義二年(920年)六月に呉王位に即いてからは前代の元号『武義』をそのまま継続使用していたが、翌順義元年(921年)二月、初めて自ら改元し『順義』を建てた。原文『二年宣帝既薨六月戊申溥即吳王位…順義元年春正月王遣使勸晉王稱帝二月改元赦境内』(十国春秋巻三)。この時点では溥はまだ皇帝ではなく呉王(王)の身分であったため【皇帝即位前】の事績。

出典: 十国春秋 巻三(呉三・睿帝本紀)

大赦921年10月順義元年冬十月、南郊で天を祀った後、乙丑の日に天興楼に御して大赦。

順義元年冬十月、南郊で天を祀った後、乙丑の日に天興楼に御して大赦。原文『甲子王祀天於南郊配以太祖乙丑御天興樓大赦』(十国春秋巻三)。この時点で溥はまだ皇帝ではなく呉王(王)の身分であったため【皇帝即位前】の事績。

出典: 十国春秋 巻三(呉三・睿帝本紀)

改元927年11月乾貞元年十一月庚戌、文明殿にて皇帝位に即き、同月甲子に大赦とともに改元し『乾貞』とした。

乾貞元年十一月庚戌、文明殿にて皇帝位に即き、同月甲子に大赦とともに改元し『乾貞』とした。原文『十一月庚戌王御文明殿即皇帝位追尊孝武王曰武皇帝景王曰景皇帝宣王曰宣皇帝廟號高祖甲子大赦改元』(十国春秋巻三)。皇帝即位に伴う改元のため【皇帝即位(改元同時)】。

出典: 十国春秋 巻三(呉三・睿帝本紀)

大赦927年11月乾貞元年十一月庚戌、文明殿にて皇帝に即位。

乾貞元年十一月庚戌、文明殿にて皇帝に即位。同月甲子、大赦を行うと同時に改元(乾貞)。原文『十一月庚戌王御文明殿即皇帝位…庚戌…甲子大赦改元』(十国春秋巻三)。皇帝即位と同時の大赦のため【皇帝即位(改元同時)】。

出典: 十国春秋 巻三(呉三・睿帝本紀)

大赦928年8月乾貞二年秋八月乙未、大赦。

乾貞二年秋八月乙未、大赦。原文『秋八月乙未大赦』(十国春秋巻三)。【皇帝在位中】の事績。

出典: 十国春秋 巻三(呉三・睿帝本紀)

改元929年11月太和元年、尊号加上とともに大赦・改元し『太和』とした。

太和元年、尊号加上とともに大赦・改元し『太和』とした。原文『壬辰帝加尊號曰睿聖文明光孝皇帝大赦改元』(十国春秋巻三)。すでに皇帝として在位中の事績のため【皇帝在位中】。

出典: 十国春秋 巻三(呉三・睿帝本紀)

大赦929年11月太和元年(十一月頃、壬辰)、尊号『睿聖文明光孝皇帝』を加え、大赦と同時に改元(太和)。

太和元年(十一月頃、壬辰)、尊号『睿聖文明光孝皇帝』を加え、大赦と同時に改元(太和)。原文『壬辰帝加尊號曰睿聖文明光孝皇帝大赦改元』(十国春秋巻三)。【皇帝在位中】の事績。

出典: 十国春秋 巻三(呉三・睿帝本紀)

立后931年9月太和五年九月甲戌朔、德妃王氏を皇后に立てる。

太和五年九月甲戌朔、德妃王氏を皇后に立てる。原文『秋七月…九月甲戌朔立德妃王氏爲皇后』(十国春秋巻三)。廃后や再冊立の記事は見当たらず、在位を通じて立后は1回のみ。

出典: 十国春秋 巻三(呉三・睿帝本紀)

改元935年9月天祚元年九月丙申、尊号加上とともに大赦し、太和七年を天祚元年に改元。

天祚元年九月丙申、尊号加上とともに大赦し、太和七年を天祚元年に改元。原文『九月帝加尊號曰睿聖文明光孝應天道廣德皇帝丙申大赦改太和七年為天祚元年』(十国春秋巻三)。皇帝在位中の事績のため【皇帝在位中】。

出典: 十国春秋 巻三(呉三・睿帝本紀)

大赦935年9月天祚元年九月丙申、尊号『睿聖文明光孝應天道廣德皇帝』を加え、大赦と同時に太和七年を天祚元年に改元。

天祚元年九月丙申、尊号『睿聖文明光孝應天道廣德皇帝』を加え、大赦と同時に太和七年を天祚元年に改元。原文『九月帝加尊號曰睿聖文明光孝應天道廣德皇帝丙申大赦改太和七年為天祚元年』(十国春秋巻三)。【皇帝在位中】の事績。

出典: 十国春秋 巻三(呉三・睿帝本紀)

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