恭帝・柴宗訓
後周(五代十国)|在位 959–960年
- 諱(本名)
- 柴宗訓
- 在位
- 959–960年
- 在位期間
- 190日365名中324位
- 即位経路
- 世襲
- 死因
- 不詳
- 即位時年齢
- 7歳(数え年)172名中・若い順13位タイ
- 没年齢
- 21歳(数え年)269名中・長寿順230位タイ
- 改元
- 0回
- 大赦
- 1回267名中194位タイ
- 立后
- 0回
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 0回
- 被反乱
- 1回289名中203位タイ
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
世宗の実子として、崩御時の遺制により柩前で即位。
出典: 旧五代史 巻一百二十(周書・恭帝紀)
死因の経緯
陳橋兵変により趙匡胤に禅譲後、鄭王に封じられ房州に移された。宋史・旧五代史とも死因の記述はなく、開宝6年3月、房州にて20歳で死去した事実のみが記される。
出典: 宋史 太祖本紀三/旧五代史 巻一百二十(周書・恭帝紀)
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
恭帝は顕徳六年(959年)六月、父・世宗崩御に伴い柩前で即位したが、先代の元号「顕徳」をそのまま継続使用しており、恭帝自身による建元・改元の記載は旧五代史 恭帝紀に一切ない(顕徳七年正月に陳橋の変・禅譲となり、改元前に在位終了)。恭帝は即位前に別の身分(王等)として独自に改元した事実もない(顕徳六年六月癸未に梁王に封じられてから同月癸巳の世宗崩御・甲午の即位までわずか10日程度であり、独立した『皇帝でない身分での在位期間』とは言えない)。したがって2段階即位パターンには該当しない。
大赦回数
旧五代史 恭帝紀を通読し確認。顕徳六年六月の即位から顕徳七年正月の陳橋の変・禅譲までの全記事中、『大赦天下』の明記はこの1件のみ。
立后回数
旧五代史 恭帝紀を通読したが、恭帝在位中(顕徳六年六月〜顕徳七年正月)に皇后冊立の記載はない。恭帝は即位時満7歳前後の幼帝であり、在位半年強で禅譲・降封(鄭王)となったため、立后の史実自体が存在しないと判断される(皇后不在のため0回)。
皇太子廃立回数
旧五代史 恭帝紀を通読したが、恭帝在位中(顕徳六年六月〜顕徳七年正月)に皇太子・皇太弟等の法定推定継承者が立てられた記載自体がなく、従って廃立の記載もない。恭帝自身が満7歳前後で即位し在位半年強で禅譲したため、そもそも皇太子を立てる期間・状況になかった。
親征回数
旧五代史 巻一百二十(周書・恭帝紀)を通読。在位中(顕徳6年6月〜顕徳7年正月)に確認できる軍事関連記事は2件のみ:(1)顕徳6年6月丁酉「北面兵马都部署韩令坤奏,败契丹五百骑于霸州北」は将軍単独の戦果報告であり恭帝自身の出征ではない。(2)顕徳7年正月「诏今上率兵北征」の『今上』は趙匡胤(後の宋太祖)を指す(本紀は宋代編纂のため趙匡胤を『今上』と呼称)もので、これも恭帝自身の親征ではない。恭帝は満7歳前後で即位し陳橋の変まで一度も自ら軍を率いた記録がないため0回と判定。
反乱鎮圧回数
旧五代史 恭帝紀を通読したが、恭帝在位中に恭帝側(政権側)が主体となって鎮圧した反乱の記載はない。顕徳7年正月の陳橋の変は恭帝側による鎮圧が試みられないまま禅譲・在位終了となったため、鎮圧回数には計上しない(未鎮圧のまま在位終了のパターン)。
被反乱回数
旧五代史 恭帝紀を通読。在位中に恭帝に対して起こされた反乱・クーデターは陳橋の変の1件のみ確認。指示文パターン4(軍中実力者による兵力を伴う弑逆・クーデター)およびパターン2(未鎮圧のまま在位終了)に該当するため、rebellionSuppressionCount=0・rebellionSufferedCount=1という非対称な計上とした。
遷都回数
旧五代史帝紀を通読。後漢の都・開封をそのまま継承、在位中を通じて遷都の記録なし。
即位時年齢・没年齢
生年月日(広順3年8月4日=953年)は旧五代史 巻一百二十 恭帝紀冒頭に直接記載。崩御年月(開宝6年3月=973年、乙卯日に房州より上言)は同紀末尾引用の『続資治通鑑長編』に直接記載。ただしいずれも『時年◯◯』等の享年直接記載はない。両日付とも原文に明記された一次史料上の年号年であるため、数え年(虚歳)の定義(年号年ラベル差分+1)に基づき、即位時年齢=959-953+1=7歳(顕徳6年6月即位、原文にも柩前即位時の幼帝としての記述と整合)、没年齢=973-953+1=21歳と算出した。西暦の実年齢(誕生日基準)では20歳となる点に留意。
在位中の出来事(2件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
大赦日付不詳恭帝即位(顕徳六年六月甲午)の翌月、恭帝自身による人事異動(趙匡胤の宋州節度使・殿前都点検任命等)の記事に続いて「丙寅、制大赦天下」と明記。
恭帝即位(顕徳六年六月甲午)の翌月、恭帝自身による人事異動(趙匡胤の宋州節度使・殿前都点検任命等)の記事に続いて「丙寅、制大赦天下」と明記。恭帝在位中に確認できる大赦はこの1回のみ(それ以降、顕徳七年正月の陳橋の変による禅譲までの記事中に大赦の記載なし)。
出典: 旧五代史 巻一百二十(周書・恭帝紀)
被反乱日付不詳陳橋の変(陳橋兵変)
首謀者: 趙匡胤(殿前都点検。陳橋駅にて配下将士に擁立される)
結果: 恭帝は廃位され鄭王に降封、後周滅亡・北宋建国(恭帝側による鎮圧は試みられず在位終了)
顕徳七年正月三日(癸卯)、鎮・定二州から契丹入寇・河東(北漢)軍との合流の急報を受け、殿前都点検趙匡胤が北征のため出京し陳橋駅に宿営。未明に将士が兵変を起こし黄袍を着せて趙匡胤を皇帝に擁立、そのまま開封へ引き返して恭帝に禅譲を迫った。恭帝紀原文に『今上(趙匡胤)に诏して兵を率い北征せしむ』『未曙、軍変、将士大噪呼萬歳…推戴今上升大位』『今上於是詣崇元殿受命』『制して周帝を郑王に封じ、以て周祀を奉ぜしむ』と明記。朝廷内部の軍事実力者(殿前都点检)による兵力を伴うクーデターであり、鎮圧の主体は恭帝側ではなく成功裏に恭帝を廃位したため、rebellionSufferedCountにのみ計上しrebellionSuppressionCountには含めない。趙匡胤自身の即位前行為(挙兵〜受禅)はaccessionRoute領域として本カウントの対象外とし、恭帝側から見た『被った反乱』としてのみここに計上した。