懐帝
蜀漢(三国)|在位 223–263年

- 諱(本名)
- 劉禅
- 在位
- 223–263年
- 在位期間
- 40年206日365名中13位
- 即位経路
- 世襲
- 死因
- 不詳
- 即位時年齢
- 17歳(数え年)172名中・若い順62位タイ
- 没年齢
- 65歳(数え年)269名中・長寿順24位タイ
- 改元
- 4回332名中29位タイ
- 大赦
- 13回267名中22位タイ
- 立后
- 2回204名中14位タイ
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 5回225名中88位タイ
- 被反乱
- 5回289名中97位タイ
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。諡号:懐帝
即位の経緯
「建安二十四年、先主為漢中王、立為王太子。及即尊号…以禅為皇太子」で正規の皇太子に立てられ、先主没後「五月、後主襲位於成都、時年十七」と父の死去に伴い平常の手続きで即位した典型的な世襲。
出典: 三国志・蜀書・後主伝
死因の経緯
蜀漢滅亡後、魏(後に晋)に降伏し安楽公に封じられ洛陽に移住。『三国志』蜀書後主伝に「公泰始七年薨於洛陽」(安楽公は泰始七年〈271年〉に洛陽で薨じた)とのみ記され、具体的な死因の記述はない(享年65前後)。
出典: 三國志 蜀書三 後主傳
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
在位中の建元・改元は4回:即位に伴う建元(建興・223年)、延熙への改元(238年)、景耀への改元(258年)、炎興への改元(263年)。評語部分に「經載十二而年名不易」とあるがこれは建興期間の記述に関する史書側の誤記(実際は15年)で、改元回数自体には影響しない。
大赦回数
本紀本文に「大赦」と明記された記事を通読で13件確認。評語に「軍旅屢興而赦不妄下」とあり、頻繁な軍事行動の割には大赦を濫発しなかったとの史家評があるが、実数としては在位40年間で13回。
立后回数
在位中に皇后として冊立されたのは張飛の二人の娘(姉妹)のみ。姉(後の敬哀皇后)が建興元年に、妹(後の張皇后)が延熙元年に立后。廃后の記録はない(姉は建興十五年に病没、妹は蜀漢滅亡後も存命のまま洛陽へ移った)。
皇太子廃立回数
後主の在位中、皇太子劉璿は延熙元年正月に立てられて以降、蜀漢滅亡(景耀六年=263年)まで廃されたとの記録はない。『二主妃子傳』「後主太子璿,字文衡。母王貴人…延熙元年正月策曰:『…今以璿為皇太子…』時年十五。景耀六年冬,蜀亡。咸熙元年正月,鍾會作亂於成都,璿為亂兵所害。」とあり、劉璿は蜀漢滅亡後の鍾會の乱(咸熙元年=264年、後主の在位終了後)で乱兵に殺害されたのみで、正式な廃立の記事ではない。他に廃立された皇太子・法定推定継承者の記録も本紀・列伝中に見当たらない。
親征回数
『三国志』蜀書・後主伝の原文(建安二十四年〜炎興元年)を通読したが、劉禅自身が軍を率いて出征したことを示す「帝自将」「親征」等の記述は一切ない。軍事行動はすべて諸葛亮・蒋琬・費禕・姜維・王平・鄧芝・馬忠らへの派遣によるもの(例:建興三年の諸葛亮南征、建興六〜十二年の諸葛亮北伐、延熙年間の姜維の度重なる出兵など)。建興十四年夏四月「後主至湔、登観阪、看汶水之流、旬日還成都」は成都近郊への視察・遊覧であり軍事行動ではない。よってcount=0。
反乱鎮圧回数
在位期間(223〜263年)中の後主伝原文から服属地域・服属臣下による反乱を5件抽出した。魏の曹爽・司馬懿らによる漢中侵攻(延熙七年)、姜維の対魏北伐、263年の鄧艾・鍾会による蜀漢征服・降伏は、いずれも対等勢力(魏)との統一戦争・対外戦争であり反乱には含めない(指示通り)。264年(劉禅降伏後、明年春正月)の鍾会の乱は劉禅の在位終了後の出来事のため対象外とした。南中反乱(雍闿・朱褒・高定)は複数首謀者だが一体の南征でまとめて鎮圧されたため1件として集計しており、これが3件相当と見なす立場もあり得るため confidence は medium とした。魏延の乱も反乱か権力闘争かで議論があるため同様にmedium。
被反乱回数
rebellionSuppressionCountに計上した5件はいずれも在位中に鎮圧が完了しており、未鎮圧のまま在位終了した反乱や、皇帝自身が先制攻撃した事案(例外3)、権臣による弑逆クーデター(例外4)に該当する事例はないため、両カウントは完全に一致(5件=5件)とした。263年冬の鄧艾・鍾会による蜀漢侵攻・降伏は対等勢力(魏)との統一戦争であり、服属民の反乱ではないため被反乱には含めない。
遷都回数
蜀書を通読。劉備の成都即位(建国時の定都)以降、劉禅期まで成都が一貫した都。永安行幸は劉備の一時滞在にとどまる。
即位時年齢・没年齢
三國志 蜀書三 後主傳「五月,後主襲位於成都,時年十七」(数え年、章武3年223年5月即位時)。没年齢は原典に明記なし。 没年齢は逆算値:即位時「時年十七」(章武3年=223年)と没年(泰始7年=271年、deathCause参照)の年号差48年から数え年で65歳と算出。
在位中の出来事(29件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
立后223年『三國志 蜀書 後主傳』「建興元年夏…是歲,立皇后張氏。
『三國志 蜀書 後主傳』「建興元年夏…是歲,立皇后張氏。」及び『二主妃子傳』「後主敬哀皇后,車騎將軍張飛長女也。章武元年,納為太子妃。建興元年,立為皇后。十五年薨,葬南陵。」張飛の長女、後の敬哀皇后の冊立。月の明記なく年精度。
出典: 三國志 蜀書 後主傳/二主妃子傳
反乱鎮圧223年〜225年南中反乱(雍闿・朱褒・高定ら)
首謀者: 雍闿・朱褒・高定(越雟夷王)ら
結果: 鎮圧成功
後主伝原文:「建興元年夏、牂牁太守朱褒擁郡反。先是、益州郡有大姓雍闿反、流太守張裔於呉、拠郡不賓、越雟夷王高定亦背叛」。建興三年(225年)春三月「丞相亮南征四郡、四郡皆平」、十二月「亮還成都」で鎮圧完了。首謀者は雍闿・朱褒・高定の3名で厳密には独立蜂起だが、いずれも建興元年前後に相次いで離反し、諸葛亮の一次の南征(一体の軍事行動)でまとめて平定されたため、参考情報の指示に従い「南中の反乱」として1件に集計した(伝統的にも『南中四郡之乱』として一括される)。原文には孟獲の名は明記されないが(諸葛亮伝等に見える)、後継指導者として関与した可能性がある。この南征は諸葛亮によるものであり劉禅本人の親征ではない。雍闿・朱褒・高定はいずれも蜀漢の郡太守・地方有力者・服属夷王であり、対等勢力ではなく服属民の反乱に該当する。
被反乱223年〜225年南中反乱(雍闿・朱褒・高定ら)
首謀者: 雍闿・朱褒・高定(越雟夷王)ら
結果: 鎮圧され収束
rebellionSuppressionCountと同一事象。対称基準によりこちらにも計上。
改元223年5月章武三年四月に先主が永安宮で崩御、五月に後主が成都で即位(時年十七)。
章武三年四月に先主が永安宮で崩御、五月に後主が成都で即位(時年十七)。即位に伴い「大赦、改元」とあり、章武から建興へ改元(即位年内の建元)。評語に「禮,國君繼體,逾年改元,而章武之三年,則革稱建興,考之古義,體理為違」とあり、通例(翌年改元)に反して即位当年に改元したことが明記されている。
出典: 三國志 蜀書 後主傳
大赦223年5月即位に伴う大赦(章武三年五月=建興元年)。
出典: 三國志 蜀書 後主傳
反乱鎮圧233年南夷劉冑の反乱
首謀者: 劉冑
結果: 鎮圧成功
建興十一年(233年)「是歳、南夷劉冑反、将軍馬忠破平之」。南中地域(服属地域)の夷人指導者劉冑による反乱を将軍馬忠が鎮圧。
被反乱233年南夷劉冑の反乱
首謀者: 劉冑
結果: 馬忠により鎮圧
rebellionSuppressionCountと同一事象。
大赦234年8月「秋八月,亮卒于渭濱。
「秋八月,亮卒于渭濱。征西大將軍魏延與丞相長史楊儀爭權不和,舉兵相攻,延敗走;斬延首,儀率諸軍還成都。大赦。」建興十二年、諸葛亮死去・魏延の乱平定後の大赦。
出典: 三國志 蜀書 後主傳
反乱鎮圧234年8月魏延の乱
首謀者: 魏延(征西大将軍)
結果: 鎮圧成功(魏延敗走後、斬首)
建興十二年秋八月、諸葛亮死去直後、「征西大将軍魏延与丞相長史楊儀争権不和、挙兵相攻、延敗走、斬延首、儀率諸軍還成都」。丞相府側(楊儀)が国家軍を率いて魏延を討伐・斬首しており、皇帝側(政権側)による鎮圧に該当する。原文の表現は「争権不和、挙兵相攻」であり両者が兵を交えた形で記され、魏延の真意(反乱か権力争いの巻き添えか)には歴史的に議論があるが、陳寿『三国志』は魏延を敗走・誅殺された側として記録しており、政権側が鎮圧に成功した事案としてカウントした。
被反乱234年8月魏延の乱
首謀者: 魏延(征西大将軍)
結果: 鎮圧され魏延は斬首
rebellionSuppressionCountと同一事象。丞相府軍と魏延軍が交戦し魏延が敗死。政権内部の武力衝突であり劉禅自身が標的とされたわけではないが、基準に従い廃位・弑逆意図の有無を問わず計上。
改元238年1月「延熙元年春正月,立皇后張氏。
「延熙元年春正月,立皇后張氏。大赦,改元。」建興から延熙への改元。
出典: 三國志 蜀書 後主傳
大赦238年1月「延熙元年春正月,立皇后張氏。
「延熙元年春正月,立皇后張氏。大赦,改元。」
出典: 三國志 蜀書 後主傳
立后238年1月『二主妃子傳』「後主張皇后,前後敬哀之妹也。
『二主妃子傳』「後主張皇后,前後敬哀之妹也。建興十五年,入為貴人。延熙元年春正月,策曰:『…今以貴人為皇后…』」張飛の次女(敬哀皇后の妹)を皇后に冊立。『後主傳』にも同時期「延熙元年春正月,立皇后張氏。大赦,改元。」と対応。
出典: 三國志 蜀書 二主妃子傳/後主傳
大赦243年11月「六年冬十月,大司馬蔣琬自漢中還,住涪。
「六年冬十月,大司馬蔣琬自漢中還,住涪。十一月,大赦。」延熙六年。
出典: 三國志 蜀書 後主傳
大赦246年「九年夏六月,費禕還成都。
「九年夏六月,費禕還成都。秋,大赦。」延熙九年秋、月不明のため年精度。
出典: 三國志 蜀書 後主傳
反乱鎮圧247年汶山平康夷の反乱
首謀者: 汶山郡平康県の夷(指導者名不明)
結果: 鎮圧成功
延熙十年(247年)「是歳、汶山平康夷反、維往討、破平之」。姜維が討伐し平定。指導者個人名は原文に記載なし。
被反乱247年汶山平康夷の反乱
首謀者: 汶山郡平康県の夷(指導者名不明)
結果: 姜維により鎮圧
rebellionSuppressionCountと同一事象。
反乱鎮圧248年涪陵属国民夷の反乱
首謀者: 涪陵属国の民・夷(指導者名不明)
結果: 鎮圧成功
延熙十一年(248年)秋「涪陵属国民夷反、車騎将軍鄧芝往討、皆破平之」。車騎将軍鄧芝が討伐し平定。
被反乱248年涪陵属国民夷の反乱
首謀者: 涪陵属国の民・夷(指導者名不明)
結果: 鄧芝により鎮圧
rebellionSuppressionCountと同一事象。
大赦249年4月「十二年春正月,魏誅大將軍曹爽等,右將軍夏侯霸來降。
「十二年春正月,魏誅大將軍曹爽等,右將軍夏侯霸來降。夏四月,大赦。」延熙十二年。
出典: 三國志 蜀書 後主傳
大赦251年「十四年夏,大將軍費禕還成都。
「十四年夏,大將軍費禕還成都。冬,復北駐漢壽。大赦。」延熙十四年冬、月不明のため年精度。
出典: 三國志 蜀書 後主傳
大赦254年1月「十七年春正月,姜維還成都。
「十七年春正月,姜維還成都。大赦。」延熙十七年。
出典: 三國志 蜀書 後主傳
大赦256年「十九年春…是歲,立子瓚為新平王。
「十九年春…是歲,立子瓚為新平王。大赦。」延熙十九年、月不明のため年精度。
出典: 三國志 蜀書 後主傳
大赦257年「二十年,聞魏大將軍諸葛誕據壽春以叛…是歲大赦。
「二十年,聞魏大將軍諸葛誕據壽春以叛…是歲大赦。」延熙二十年、月不明のため年精度。
出典: 三國志 蜀書 後主傳
改元258年「景耀元年,姜維還成都。
「景耀元年,姜維還成都。史官言景星見,於是大赦,改年。」延熙から景耀への改元(具体的な月は不明、瑞祥(景星出現)を理由とする改元)。
出典: 三國志 蜀書 後主傳
大赦258年「景耀元年…史官言景星見,於是大赦,改年。
「景耀元年…史官言景星見,於是大赦,改年。」
出典: 三國志 蜀書 後主傳
大赦261年10月「四年春三月,追謚故將軍趙雲。
「四年春三月,追謚故將軍趙雲。冬十月,大赦。」景耀四年。
出典: 三國志 蜀書 後主傳
改元263年「六年夏,魏大興徒眾…大赦。
「六年夏,魏大興徒眾…大赦。改元為炎興。」景耀から炎興への改元。「夏」とあるが具体的な月は不明のため年精度とした。同年冬に鄧艾に降伏し蜀漢は滅亡。
出典: 三國志 蜀書 後主傳
大赦263年「六年夏,魏大興徒眾…大赦。
「六年夏,魏大興徒眾…大赦。改元為炎興。」景耀六年夏、具体月不明のため年精度。この年冬に蜀漢は魏に降伏し滅亡。
出典: 三國志 蜀書 後主傳