
蜀漢(三国)第1代分裂期の王朝中国がいくつもの政権に分かれていた時代に、その一つを占めた王朝・政権。
昭烈帝劉備
在位 221–223年(2年37日)221年5月15日 〜 223年6月21日
日本は弥生時代
劉備は涿郡の人で、各地を転戦したのちに益州を得て、221年に成都で漢を継ぐ皇帝として即位した。
昭烈帝の人物データ
- 生年
- 不詳年齢は
史書に 記された 年齢から 数えた - 在位
- 漢中王219年〜221年
- 皇帝221年5月15日〜223年6月21日
- 没年
- 223年6月21日63歳(数え年)長生き順30位/266人
- 死因
- 病死病気や老衰による死。同じ死因169人/365人
- 即位経路
- 自立先の君主から位を受けず、自ら皇帝を名乗った即位。帝号を新たに称した先の君主から皇帝の号を継いだのではなく、自分の代で新たに皇帝を名乗った(王などの位から皇帝になった場合を含む)。
- 先代
- —
- 次代
- 懐帝蜀漢懐帝は昭烈帝の子
- 呼び名
- 姓劉諱備字玄徳廟号烈祖呼び名の見方
出典
- 在位
- 三國志 蜀書二 先主傳
- 死因
- 三國志 蜀書二 先主傳
- 即位経路
- 三国志・
蜀書・ 先主伝
生涯
どんな皇帝か
陳寿は、志が強く寛大で、人を見抜いて士を厚く遇した英雄と評し、機転や才覚は曹操に及ばなかったとする。
即位まで
三国志は漢の景帝の子の中山靖王劉勝の子孫とするが、裴松之の注が引く典略は臨邑侯の家の分かれとする。幼くして父を亡くし、母と草履を売りむしろを織って暮らした。読書はあまり好まず、犬や馬、音楽、美しい衣服を好み、口数が少なく人にへりくだって喜怒を顔に出さなかった。関羽・張飛とは同じ寝床で眠るほどの兄弟のような間柄だったが、桃園で義兄弟の契りを結んだという話は三国志には無い。献帝の密詔皇帝や太后がひそかに出した命令を受けたという董承が曹操を討とうとしていたころ、劉備は曹操に、天下の英雄は君と私だけだと言われて食事中の匙と箸を取り落とし、のちに董承らと謀った。諸葛亮を三度訪ねてようやく会い、関羽・張飛が不満を見せると、私に孔明がいるのは魚に水があるようなものだと言ってなだめた。208年に曹操が南下したときは、ついて来た十余万の民を連れて一日に十余里しか進めず、急ぐよう勧められても、大事を成すには人が本だと言って見捨てなかった。長阪で曹操軍に追われると、甘夫人と幼い劉禅を置き去りにし、二人は趙雲に守られた。同じ年、孫権と結んで赤壁で曹操を大破した。211年に劉璋に迎えられて益州に入り、214年に劉璋を降し、219年には夏侯淵を斬って漢中を得て漢中王となった。張裕は、髭のことで言い返したのを劉備に根に持たれ、劉氏の天下が尽きると漏らしたことにも怒りを買って、予言が外れたのを口実に処刑された。養子の劉封が孟達を侮り関羽を救わなかったことを責め、諸葛亮の勧めで自害させ、涙を流した。221年に即位し、諸葛亮を丞相皇帝を助けて政治全体を取りまとめた最高位の役職とし、劉禅を皇太子に立てた。
治世と最期
即位の年、孫権が関羽を襲ったことを怒って自ら呉を攻め、和を請う孫権の書を退けた。222年に猇亭で陸遜に大敗し、陸遜伝によれば、劉備は夜に逃れて白帝城に入り、陸遜に辱められたことを恥じ怒った。
223年に病が重くなると、諸葛亮に後のことを託し、永安宮で亡くなった。諸葛亮伝によれば、劉備は諸葛亮に、跡継ぎが補佐するに足りなければ君が自ら国を取れと言い、諸葛亮は涙して死ぬまで忠義を尽くすと答えた。裴松之の注が引く遺詔皇帝が死に際に残した命令で、劉禅に、悪いことは小さくても行うな、善いことは小さくても怠るなと戒めた。
昭烈帝とつながる皇帝

勢力図
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221–223年の地図に、昭烈帝が治めた国が描かれています。
在位中の出来事
反乱1・親征1・皇后1・改元1・大赦1
- 改元221年5月15日元号を「章武」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。221年5月15日
- 皇后221年6月呉氏(陳留の人、兄は呉壹。後の穆皇后)を皇后に立てる。
- 親征皇帝が自ら軍を率いて戦場に出ること。221年8月〜222年8月呉(孫権)
- 反乱223年2月(旧暦年だけを書く所は、教科書・辞典と同じく、元号の年に当たる西暦の年で書いています。旧暦の年末(11・12月)は西暦では翌年の1・2月に入るので、日付の年が1つ後ろになります。 年の書き方 222年12月)〜223年5月黄元の乱
蜀漢の歴代皇帝
歴代2人の一覧- 第1代昭烈帝劉備221–223年病死
- 第2代懐帝223–263年不詳
年表
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蜀漢が