中国皇帝統計

昭烈帝

蜀漢(三国)|在位 221–223年

昭烈帝の肖像
諱(本名)
劉備
廟号
烈祖
在位
221–223年
在位期間
2年26日365名中258位
即位経路
建国
死因
病死
即位時年齢
61歳(数え年)172名中・若い順168位タイ
没年齢
63歳(数え年)269名中・長寿順30位
改元
1332名中142位タイ
大赦
1267名中194位タイ
立后
1204名中52位タイ
皇太子廃立
0
親征
1112名中62位タイ
反乱鎮圧
1225名中179位タイ
被反乱
1289名中203位タイ
遷都
0

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順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。諡号:昭烈帝

即位の経緯

後漢滅亡(曹丕の禅譲受禅)を受け、群臣が上表して漢中王への即位を勧進した(「輒依旧典、封備漢中王」)。その後、献帝弑逆の誤報を受け群臣・讖緯瑞祥を根拠に再三の勧進があり「即皇帝位於成都武担之南」と即位。即位文は「操子丕、載其凶逆、窃居神器…嗣武二祖、龔行天罰」とし、漢室断絶を継ぐ形での新規建国として即位した。曹丕からの直接の譲位を受けたわけではなく、後漢の禅譲を認めず自ら漢の正統を名乗って皇帝を称したものであるため建国と判定。

出典: 三国志・蜀書・先主伝

死因の経緯

夷陵の戦い(呉との戦い)での敗戦後、「先主病篤」(先主の病が篤くなり)諸葛亮に後事を託し、章武3年(223年)夏四月、永安宮で崩御(享年63、「殂」の字を用いる。「殂」は「崩」と同格の語で、陳寿が蜀漢を正統と認めない立場ながら劉備への敬意を示したものとされる)。遺詔で「朕初疾但下痢耳,後轉雜他病」(当初はただの下痢だったが後に他の病が併発した)と自ら述べている。他殺の記述はない。

出典: 三國志 蜀書二 先主傳

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

即位に伴う建元1回のみで、在位中の追加の改元は確認されない。日付の日単位特定は原文直接の記述ではなく、外部情報(即位日)との整合により推定した点に留意。

大赦回数

大赦の記事自体は明確だが、原文が示す日付粒度は「夏四月」(月まで)であり、日単位の日付は即位日からの推定である。それ以外の在位期間中の全国規模大赦の記事は確認できず、count=1で確定的と考えられる。

立后回数

章武元年五月、呉氏(穆皇后)を皇后に立てた1件のみ。廃后の記事もなく、在位期間を通じて皇后はこの1名。

皇太子廃立回数

章武元年五月に子の劉禅が皇太子に立てられた記事(「五月,立皇后吴氏,子禅为皇太子」)はあるが、これは立太子であり本項目の対象外(カウントしない)。在位中(221年5月〜223年6月)に皇太子が廃されたことを示す記事は先主传・二主妃子传のいずれにも見当たらない。

親征回数

在位中(221年4月〜223年4月)に先主本人が自ら軍を率いて出陣したのは夷陵(猇亭)の戦い(対呉)の1件のみ。他に親征の記述はない(黄元の乱は丞相諸葛亮の指揮下で将軍陳曶が鎮圧し、先主本人は親征していない)。

反乱鎮圧回数

在位中の反乱鎮圧は黄元の乱1件のみ。他の官・将の離反の記述は見当たらない。

被反乱回数

rebellionSuppressionCountと同一事件を対称的に計上。他に先主在位中の反乱・クーデターの記述はない(張飛暗殺事件は部下による私怨的暗殺・逃亡であり、政権への反乱・挙兵とは判断しなかった)。

遷都回数

蜀書を通読。劉備の成都即位(建国時の定都)以降、劉禅期まで成都が一貫した都。永安行幸は劉備の一時滞在にとどまる。

即位時年齢・没年齢

三國志 蜀書二 先主傳「夏四月癸巳,先主殂于永安宮,時年六十三」(数え年)。 即位時年齢は逆算値:崩御時「時年六十三」(章武3年=223年)と即位年(章武元年=221年)の年号差2年から数え年で61歳と算出。

在位中の出来事(6件)

改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。

改元221年5月15日即位に伴い建安の年号を廃し「章武」に改元(建元)。

即位に伴い建安の年号を廃し「章武」に改元(建元)。原文「即皇帝位於成都武担之南」の即位詔(この時点ではまだ「惟建安二十六年四月丙午」と旧年号建安で紀年)に続き、次の記事で「章武元年夏四月,大赦,改年」とあり、ここで正式に新元号「章武」が定まったことが読み取れる。日付は原文が「夏四月」としか記さないため、調査対象情報として与えられた即位日(章武元年4月6日=221年5月15日)と同一機会と推定してこの日付を採用した。在位中(223年6月崩御まで)にこれ以外の改元記事は先主传・二主妃子传に見当たらず、章武の年号がそのまま章武三年(223年)まで用いられている(「二年春正月」「三年春二月」等の記述からも継続が確認できる)。

出典: 三國志 蜀書二 先主傳

大赦221年5月15日即位直後の章武元年夏四月に「大赦」を実施。

即位直後の章武元年夏四月に「大赦」を実施。原文「章武元年夏四月,大赦,改年」(改元と同一の記事内に併記)。日付は原文では「夏四月」としか特定できないが、調査対象人物情報として与えられた即位日(章武元年4月6日=221年5月15日)と同一の機会に行われたと推定し、この日付を採用した(原文自体の直接の日付特定ではない点に留意)。在位中これ以外に「大赦天下」等の全国規模の大赦の記事は先主传・二主妃子传に見当たらない。

出典: 三國志 蜀書二 先主傳

立后221年6月呉氏(陳留の人、兄は呉壹。

呉氏(陳留の人、兄は呉壹。後の穆皇后)を皇后に立てる。先主传「五月,立皇后吴氏」。二主妃子传「先主穆皇后…建安二十四年,立为汉中王后。章武元年夏五月,策曰:『朕承天命,奉至尊,临万国。今以后为皇后,遣使持节丞相亮授玺绶,承宗庙,母天下,皇后其敬之哉!』」で対応する冊立の詔書全文が確認できる。原文は「五月」(月)までの特定で日は不明。在位中これ以外の立后・廃后の記事はない。

出典: 三國志 蜀書二 先主傳/蜀書四 二主妃子傳

親征221年7月〜222年8月呉(孫権)

対象: 呉(孫権)

結果: 大敗(夷陵・猇亭の戦い)。将軍冯習・張南らを失い、先主自身は秭帰を経て歩道で魚復(永安と改称)まで撤退した

『三国志』蜀書・先主伝:章武元年(221)秋七月「先主忿孫権之襲関羽、将東征……遂帥諸軍伐呉」とあり、先主自ら諸軍を率いて呉を討伐(夷陵の戦い)。翌章武二年(222)二月には自ら秭帰から進軍し猇亭に駐営、六月に陸遜に大破された。呉は蜀漢に服属しない対等な独立政権であり本来は統一戦争・対外戦争の性格が強いが、皇帝本人が親征した点で personalCampaignCount の定義(皇帝本人の出陣)に合致するためここに計上した(rebellion系のカウントには含めない)。呉軍の追撃は秋八月まで続いたためこれを終結の目安とした。

反乱鎮圧222年12月〜223年3月黄元の乱

首謀者: 黄元(漢嘉太守)

結果: 鎮圧成功。将軍陳曶が撃破し、黄元は自らの親兵に捕縛されて成都に送られ斬られた

『三国志』蜀書・先主伝:章武二年(222)冬十二月「漢嘉太守黄元聞先主疾不豫、挙兵拒守」。翌章武三年(223)三月「黄元進兵攻臨邛県。遣将軍陳曶討元、元軍敗、順流下江、為其親兵所縛、生致成都、斬之」。漢嘉太守は蜀漢政権に服属する地方官であり、先主の病篤に乗じた離反・挙兵であるため服属者の反乱に該当する。先主自身は永安で病篤のため親征せず、丞相諸葛亮の統轄下で将軍陳曶が鎮圧に当たった。

被反乱222年12月〜223年3月黄元の乱

首謀者: 黄元(漢嘉太守)

結果: 先主の病篤に乗じて挙兵したが、先主の没(223年4月)以前に将軍陳曶により鎮圧され黄元は斬られた

rebellionSuppressionCount と同一事件。漢嘉太守黄元の離反・挙兵であり、鎮圧側(先主政権)・被反乱側の双方に対称的に計上した。

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