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大帝の肖像画

呉・三国第1代

大帝孫権

在位 229–252年(22年364日)229年5月23日 〜 252年5月21日

日本は弥生・古墳時代

兄の孫策から江東を継ぎ、赤壁で曹操を退け、荊州を取って呉を建てた皇帝である。

大帝の人物データ

生年
不詳年齢は史書に記された年齢から数えた
在位
  • 呉王221年〜229年
  • 皇帝229年5月23日〜252年5月21日
22年364日長い順47位/365人40歳で呉王・48歳で皇帝(数え年)
没年
252年5月21日71歳(数え年)長生き順同率9位/266人
死因
同じ死因169人/365人
即位経路
先代
—
次代
  • 孫亮呉・三国孫亮は大帝の子
呼び名
姓孫諱権字仲謀廟号太祖呼び名の見方
目立つ記録
  • 皇太子を廃した 1回多い順同率4位
  • 遷都 1回多い順同率9位

出典

在位
三國志 呉書十九 諸葛滕二孫濮陽傳(諸葛恪傳)
死因
三國志 呉書二 呉主傳
即位経路
三国志・呉書・呉主伝

生涯

どんな皇帝か

陳寿は、屈辱に耐えて人を用いた英傑としつつ、猜疑と殺戮が晩年ますます甚だしく、讒言がはびこり、子らを廃して死なせたことが国の覆った一因でないとは言えないとする。

即位まで

200年に兄の孫策が死ぬと、泣き止まない孫権を張昭が馬に乗せて軍を巡らせた。孫策は臨終に、天下を争うことでは孫権は自分に及ばず、賢者を用いて江東を保つことでは自分が及ばないと言った。208年、降伏論が多いなか、周瑜の主戦論に老賊とは両立しないと答え、周瑜らが赤壁で曹操軍を大破した。狩りのたびに馬上から虎を射て、張昭に諫められると詫びたがやめられず、射虎車を作って射た。213年の濡須の対陣では、呉軍の整いぶりを見た曹操が、子を持つなら孫仲謀のようにと嘆じた。周泰に従わない諸将の前でその衣を脱がせ、傷痕の由来を一つずつ問うた。219年には呂蒙に公安を襲わせ、その暮れに関羽父子を捕らえて荊州を平らげた。221年に魏から呉王に封じられ、翌年には陸遜が劉備の軍を大破した。武昌で大酔して群臣に水を浴びせたが、張昭に紂王の例を挙げられて恥じ、酒宴をやめた。229年に帝位に就き、父の孫堅を皇帝としたが、兄の孫策は王とするにとどめた。

史料について

孫仲謀の言葉は三国志の注に引く呉歴にあり、本文は曹操が呉軍の整いぶりを嘆じて退いたとだけ書く。

治世と最期

帝位に就いてからは、諫めを退けては、のちに自らを責めた。233年、公孫淵への使者を張昭が強く諫めると、刀に手をかけて怒り、やがて共に泣いたが使者は送った。張昭が出仕をやめると門を土で塞いだが、使者が殺されると門に火を放って呼び出そうとし、ついに宮に連れ帰って自らを責めた。苛酷なの呂壱を信任していたが、238年に呂壱が誅されると自らを責め、聖人だけが過ちが無いと言って直言を求めた。

242年に子の孫和を皇太子、孫霸を魯王に立て、2人の宮と属僚を分けると、後継をめぐって国中が二つに割れた。孫和の母と全の不和から孫和の寵が衰え、魯王が太子の位をうかがったが、陸遜らが諫めても何年も決めなかった。太子を擁護した陸遜は使者に何度も責められ、245年に憤死した。250年に孫和を廃し、孫霸に死を賜って、孫亮を太子とした。反対した者は一族誅殺や杖刑を受け、処罰は十数人に及んだ。

251年、の祭祀から還って病に臥した。潘夫人は看病の疲れで病み、昏睡したところをらに絞め殺され、事が漏れて六、七人が死罪となった。252年に没した。

史料について

国中が二つに割れたという書き方は、三国志の注に引く通語による。三国志の呉主伝は病名を書かず、注の呉録はとする。

大帝とつながる皇帝

三国の勢力図(229年)

勢力図

三国の勢力図で見る

229–252年の地図に、大帝が治めた国が描かれています。

在位中の出来事

反乱6・遷都1・親征3・皇后1・皇太子1・改元5・大赦9
  1. 改元229年5月23日元号を「黄龍」とする
  2. 229年5月23日南郊にて即皇帝位、是日大赦、改年(黄龍と改元・即位に伴う大赦)。
  3. 遷都229年10月武昌 → 建業
  4. 231年王凌(魏将、対等勢力・対魏戦争)
  5. 反乱231–234年武陵蛮夷の反乱
  6. 改元232年元号を「嘉禾」とする
  7. 232年大赦、改明年元也(翌年の嘉禾改元を布告する大赦)。
  8. 233年
  9. 233年合肥新城(魏、対等勢力・対魏戦争)
  10. 234年合肥新城(魏、対等勢力・対魏戦争)
  11. 反乱234–237年山越(丹楊)の反乱
  12. 反乱234–236年廬陵賊李桓・羅厲の乱
  13. 反乱236–237年鄱陽賊彭旦の乱
  14. 改元238年元号を「赤烏」とする
  15. 反乱238年廬陵賊の乱(赤烏元年)
  16. 反乱239–240年廖式の乱
  17. 240年大赦、諸郡県に城郭を治めしめる詔。
  18. 242年子の和を皇太子に立てるとともに大赦、禾興を嘉興と改名。
  19. 245年将軍馬茂等の謀逆事件(夷三族)の後に大赦。
  20. 皇太子250年皇太子を廃する
  21. 改元251年元号を「太元」とする
  22. 251年
  23. 251年大赦(権が南郊祭祀より戻り寝疾に就いた頃の記事)。
  24. 皇后251年皇后を立てる
  25. 改元252年3月元号を「神鳳」とする
  26. 252年3月

呉・三国の歴代皇帝

歴代4人の一覧

年表

三国の時代を年表で見る

呉・三国が中国史のどこにあたるか、同じ時代の王朝と前後の時代を並べて見られます。

即位経路が「自立」の48名をデータベースで見る

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