本文へスキップ

魏(三国)第5代

元帝曹奐

在位 260–265年(5年222日)260年6月27日 〜 266年2月4日 ( 265年12月13日まで)

日本は古墳時代

の議で迎立が決まって司馬炎に迎えられ、晋王を継いだその司馬炎に位を譲った魏の最後の皇帝である。

元帝の人物データ

生年
不詳年齢は史書に記された年齢から数えた
在位
  • 260年6月27日〜266年2月4日 265年12月13日まで
5年222日長い順173位/365人15歳で即位(数え年)265年に在位を終え、37年後の302年に没
没年
302年年齢不詳
死因
同じ死因31人/365人
即位経路
先代
  • 曹髦魏元帝は曹髦の同族(遠縁)
次代
  • 武帝司馬炎西晋武帝と元帝に血縁はない
呼び名
姓曹諱奐字景明呼び名の見方

出典

在位
三國志 魏書四 三少帝紀
死因
三國志 魏書四 三少帝紀 裴松之注引魏世譜
即位経路
三國志 魏書四 三少帝紀

生涯

どんな皇帝か

陳寿の評は、己を慎んで南面し、政治はが執り、前例に従って位を譲ったと記す。

即位まで

曹操の孫で、燕王曹宇の子である。もとの名は璜といった。常道郷公に封じられていたが、曹髦が死ぬと公卿の議で迎立が決まり、司馬炎が迎えに出て明帝の後継ぎとされ、260年に洛陽に入ったその日に即位した。即位の前日、諱の字が避けにくいとして改名を議させる詔が出た。

史料について

資治通鑑は、これを皇太后の詔として、名を奐に改めたと記す。

治世と最期

即位の5日後に後漢の献帝の夫人だった曹節が亡くなると、華林園でに臨み、その葬儀の車服制度は漢のどおりとされた。260年、実父の燕王が文書で臣と称すると、臣妾と同じに扱うのは情として安んじないと詔したが、は燕王の文書は従来どおりでよいとしたうえで、燕王に宛てる詔の書き方などに特別な礼を奏上した。即位するとすぐ司馬昭を・晋公に進めてを与えようとし、その後も同じ命を重ねたが、司馬昭は辞退を繰り返した。263年に鄧艾・鍾会の遠征で蜀の劉禅が降り、翌年には鍾会が蜀で背いて討たれた。

265年には詔して、呉の孫晧からの献上物を司馬昭がすべて朝廷へ送ってきたのを返し与えようとしたが、司馬昭は固辞した。同じ年に司馬昭が没して司馬炎が後を継ぐと、年の暮れにに壇を設けて司馬炎に位を譲った。

金墉城へ移るとき、司馬孚はその手を取り泣いた。晋は曹奐を陳留王に封じて鄴に住まわせ、天子の旗を使い魏の暦を行うことを許し、で臣と称さなくてよいとした。それでも何事にも文書を奉ったので、266年に晋の武帝は、大事でなければ王国の官に文書を出させるよう詔した。302年に没し、元皇帝と諡された。

史料について

の場で張節が打ち殺される場面は三国志演義の話で、三国志・晋書・資治通鑑には見えない。没年は裴注の引く魏世譜と資治通鑑にあり、三国志の本文は退位後の死を記さない。死因はどの書にも無い。

元帝とつながる皇帝

三国の勢力図(260年)

勢力図

三国の勢力図で見る

260–264年の地図に、元帝が治めた国が描かれています。

在位中の出来事

反乱1・皇后1・改元2・大赦4
  1. 改元260年6月27日元号を「景元」とする
  2. 260年6月27日甘露五年六月甲寅(陳留王即位当日)に大赦。
  3. 皇后263年皇后卞氏を立てる。
  4. 改元264年元号を「咸熙」とする
  5. 264年
  6. 反乱264年鍾会の乱
  7. 265年
  8. 265年

魏の歴代皇帝

歴代5人の一覧

年表

三国の時代を年表で見る

魏が中国史のどこにあたるか、同じ時代の王朝と前後の時代を並べて見られます。

即位経路が「擁立」の97名をデータベースで見る

収録基準・各項目の数え方・出典はこのサイトについてを、ほかの皇帝は皇帝一覧をご覧ください。