元帝
魏(三国)|在位 260–266年
- 諱(本名)
- 曹奐
- 在位
- 260–266年
- 在位期間
- 5年223日365名中174位
- 即位経路
- 擁立
- 死因
- 不詳
- 即位時年齢
- 15歳(数え年)172名中・若い順48位タイ
- 没年齢
- 不詳
- 改元
- 2回332名中78位タイ
- 大赦
- 4回267名中93位タイ
- 立后
- 1回204名中52位タイ
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 1回225名中179位タイ
- 被反乱
- 1回289名中203位タイ
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。諡号:元帝
即位の経緯
甘露5年(260年)5月、高貴郷公曹髦が大将軍司馬昭打倒を試みて戦死(「高貴郷公卒、年二十」)した直後、本紀は「高貴郷公卒、公卿議迎立公」と記す。曹奐(陳留王、武帝曹操の孫、燕王曹宇の子)は甘露3年に常道郷公に封じられていたが、司馬炎(司馬昭の子)が持節して常道郷公を洛陽に迎え、皇太后に謁見の上、同日に太極前殿で即位した。曹髦弑逆の直後という政治的混乱の中、事件処理・後継擁立を主導したのは当時の大将軍・事実上の最高権力者である司馬昭であり(本紀は同時期に司馬昭が曹髦挙兵鎮圧の顛末を上言し、その後まもなく相国・晋公への進爵が重ねられる経過を記す)、原文上「公卿議迎立」と表現される形式を取りつつ実質は司馬昭主導の擁立とみられる。曹奐自身の主体的な即位行動はなく、擁立に分類。
出典: 三國志 魏書四 三少帝紀
死因の経緯
司馬炎に禅譲後、陳留王に封じられ鄴に移住。八王の乱の最中、太安元年(302年)に57歳(一説58歳)で死去(『魏世譜』「年五十八,大安元年崩,諡曰元皇帝」)し元皇帝と諡された。具体的な死因の記述は原典に見当たらない。八王の乱の混乱下、司馬穎による曹操陵墓破壊等の威嚇行為が心理的負担となった可能性を指摘する学説もあるが確証はない。
出典: 三國志 魏書四 三少帝紀 裴松之注引魏世譜
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
本紀は年頭から新元号(咸熙元年)で年を記述するのが通例だが、実際の改元詔(「改年」)は咸熙元年五月甲戌に出されている。景元四年正月〜四月の記事も遡って「咸熙元年」表記の下に置かれているため、改元の実施日と紀年上の元年開始が一致しない点に留意し、確実な布告日を採用してconfidenceをmediumとした。在位末の禅譲(咸熙二年十二月)自体は改元ではないためカウントしていない。
大赦回数
在位期間中『大赦天下/大赦』と明記された全国規模の記事4件を計上。地域限定の恩赦(景元四年十二月癸丑「特赦益州士民,復除租賦之半五年」、咸熙元年二月辛卯「特赦諸在益土者」)は益州に限定された部分的恩赦であるため除外した。
立后回数
在位期間中に立后記事は1件のみ確認。廃后の記録は本紀・后妃傳ともに見当たらない。
皇太子廃立回数
少帝紀陳留王(曹奐)の在位期間本文中に「太子」の語が出現するのは、咸熙元〜二年に相国晋王司馬昭・司馬炎に関して「世子(司馬炎)を晋の太子とする」という晋国内の世子・太子記事のみであり、魏の皇太子に関するものではない。曹奐自身が魏の皇太子を立てた記録も、それを廃した記録も本紀中に見当たらないため0回とした。
親征回数
『三国志』魏書・三少帝紀(陳留王紀部分、景元元年~咸熙二年)を通読したが、曹奐(陳留王)自身が「帝自将」「親征」等の形で軍を率いて出陣した記述は見当たらない。蜀漢征伐(邓艾・鍾会)、姜維の洮陽侵攻への対応(鎮西将軍鄧艾が拒す)はいずれも将軍への派遣によるもので、皇帝本人の出陣ではない。該当記事なし。
反乱鎮圧回数
鍾会の乱は新征服地(旧蜀漢領)における魏将軍の離反であり、対等勢力間の統一戦争(蜀漢征伐そのもの)とは区別して1件として計上した。統一戦争(鄧艾・鍾会による蜀漢征伐、263年)自体は対等な独立政権との戦争であり反乱には含めていない。
被反乱回数
鎮圧回数と対称的に同一の鍾会の乱を1件計上。他に呉将呂興らの離反・帰順(咸熙元年)は呉(対等勢力)内部の出来事であり魏に服属していた者の反乱ではないため計上していない。
遷都回数
三国志魏書を通読。曹丕の洛陽定都(建国時の定都)以降、明帝・少帝期を通じて洛陽が一貫した主都(許昌等五都は陪都で行幸のみ)。
即位時年齢・没年齢
即位時年齢は逆算値:禅譲直後「時年二十」(咸熙2年=265年、金墉城への遷居時)と即位年(景元元年=260年)の年号差5年から数え年で15歳と算出。「咸熙2年」の年号ラベルはJin泰始元年=265年という既存確立済みの対応([[group2-count-progress]]の劉禅・曹芳の泰始年号換算と整合)に基づく。没年齢は「太安元年(302年)に57歳(一説58歳、『魏世譜』「年五十八」)」と出典間で1歳の差異があり確定できないため今回は追加を見送る(要検証)。
在位中の出来事(9件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
改元260年6月27日甘露五年六月甲寅(即位当日)に改元し景元元年とする(建元)。
甘露五年六月甲寅(即位当日)に改元し景元元年とする(建元)。原文「是日即皇帝位於太極前殿,大赦,改年,賜民爵及穀帛各有差」。直後の記事が「景元元年夏六月丙辰……」と続くことから、この日の「改年」が景元への改元であると確認できる。即位に伴う最初の建元としてevents[0]に計上。
出典: 三國志 魏書四 三少帝紀(陳留王紀)
大赦260年6月27日甘露五年六月甲寅(陳留王即位当日)に大赦。
甘露五年六月甲寅(陳留王即位当日)に大赦。原文「六月甲寅,入于洛陽,見皇太后,是日即皇帝位於太極前殿,大赦,改年,賜民爵及穀帛各有差。」先代高貴郷公の崩御・廃位と同時期の即位に伴う出来事のため、帰属ルールにより曹奐の在位にカウント。
出典: 三國志 魏書四 三少帝紀(陳留王紀)
立后263年10月景元四年十月癸卯、皇后卞氏を立てる。
景元四年十月癸卯、皇后卞氏を立てる。原文「癸卯,立皇后卞氏」。魏書五・后妃傳に「琳女又為陳留王皇后,時琳已沒,封琳妻劉為廣陽鄉君」とあり、この皇后は卞琳(武宣卞皇后の一族、卞秉の孫)の娘であったことが確認できる。
出典: 三國志 魏書四 三少帝紀(陳留王紀)/魏書五 后妃傳
大赦263年11月景元四年十一月、大赦。
景元四年十一月、大赦。原文「癸卯,立皇后卞氏,十一月,大赦。」(前月十月の立后記事に続く)。日の干支から具体的な日付までは確定できないためmonth精度とした。
出典: 三國志 魏書四 三少帝紀(陳留王紀)
反乱鎮圧264年1月鍾会の乱
首謀者: 鍾会
結果: 鎮圧成功(鍾会は蜀の成都で自立を図ったが、現地の魏軍将士(胡烈の子・胡淵ら)に討たれ死亡。姜維も同時に殺害された)
咸熙元年(264年)正月、蜀漢平定直後、司徒・鎮西将軍として成都に駐留していた鍾会が反乱(自立)を企てた。「是月、鍾会反于蜀、為衆所討」と明記され、直後の詔(癸巳詔)でも「前逆臣鍾会構造反乱、聚集征行将士、劫以兵威」と反乱として扱われている。鍾会は魏に服属する将軍であり、対等勢力(蜀漢・呉)との統一戦争とは区別し、服属する将軍の離反として反乱鎮圧に計上した。鎮圧主体は現地に踏みとどまった魏の将士(夏侯和・朱抚・賈輔・羊琇ら)および相国司馬昭側であり、皇帝曹奐自身は長安に行幸していたのみで親征ではない。なお同時期に鄧艾も謀反の嫌疑で檻車徴還・殺害されているが、鄧艾自身は実際に挙兵しておらず、鍾会らによる誣告・粛清の性格が強いため別件としては計上していない(実際の兵力行使に至らない謀反嫌疑は不算入)。
被反乱264年1月鍾会の乱
首謀者: 鍾会
結果: 鎮圧により鍾会・姜維は討たれ、反乱は短期間で終息した
rebellionSuppressionCountと同一事件。魏に服属する将軍(司徒・鎮西将軍)であった鍾会が新征服地の成都で反乱・自立を図った事件であり、身分は将軍だが服属する臣下による挙兵であるため被反乱としても計上した(皇帝個人の廃位・弑逆を意図したものではないが、身分・規模を問わず反乱鎮圧側と対称に計上する運用基準に従う)。
改元264年5月咸熙元年五月甲戌、改年(景元から咸熙への改元)。
咸熙元年五月甲戌、改年(景元から咸熙への改元)。原文「甲戌,改年。」直前・直後の記事の文脈(同年正月からの記事が遡って「咸熙元年」と記されている)から、この日が咸熙改元の実際の布告日と判断した。
出典: 三國志 魏書四 三少帝紀(陳留王紀)
大赦265年5月咸熙二年五月癸未、大赦。
咸熙二年五月癸未、大赦。原文「進王妃為王后,世子為太子……癸未,大赦。」
出典: 三國志 魏書四 三少帝紀(陳留王紀)
大赦265年9月咸熙二年九月乙未、大赦。
咸熙二年九月乙未、大赦。原文「九月乙未,大赦。」(相国晋王司馬炎の襲位直後)
出典: 三國志 魏書四 三少帝紀(陳留王紀)