恭帝侗・皇泰主
隋|在位 618–619年
- 諱(本名)
- 楊侗
- 在位
- 618–619年
- 在位期間
- 335日365名中302位
- 即位経路
- 擁立
- 死因
- 暗殺
- 即位時年齢
- 不詳
- 没年齢
- 不詳
- 改元
- 1回332名中142位タイ
- 大赦
- 2回267名中152位タイ
- 立后
- 0回
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 0回
- 被反乱
- 1回289名中203位タイ
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
宇文化及による煬帝弑逆後、東都留守の元文都・段達・韋津らが血統最近として共に尊立、改元「皇泰」。
出典: 隋書 巻五十九 列伝第二十四(煬三子・越王侗)
死因の経緯
王世充への禅位を強要された後、含涼殿に幽閉。裴仁基らによる復位計画の発覚を機に、世充の兄・世惲の勧めで甥の行本が鴆毒を進めた。毒を仰いだが即死せず、さらに帛で縊殺された。政権交代後だが公開処断ではなく秘密裏の毒殺・絞殺であり、南朝ブロック(劉宋順帝・南斉和帝・梁敬帝)と同型のパターンとして暗殺に分類する。
出典: 隋書 巻五十九 列伝第二十四(煬三子・越王侗)
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
隋書・北史・資治通鑑いずれも「大赦、改元曰皇泰」と一致して記載しており高い信頼度。在位中(618年6月〜619年4月の禅譲まで)改元は皇泰の一度のみで、以後の改元記事は確認できない。
大赦回数
即位時の大赦(隋書・北史・資治通鑑いずれも一致)はconfidence高。2回目の大赦(王世充凱旋後)は資治通鑑のみに記載されており正史本紀・列伝での直接裏付けがないためconfidenceはmediumとした。
立后回数
越王侗(皇泰主)に皇后が立てられた記録はない。隋書・北史列伝、資治通鑑いずれにも即位に伴い生母の劉良娣を皇太后に尊んだ記事はあるが、皇后冊立の記事は存在しない。即位からわずか10ヶ月で幽閉・毒殺されており、若年(推定10代後半)であったこともあり立后の事実は確認できない。
皇太子廃立回数
越王侗(皇泰主)自身が皇太子を立てた記録はなく、廃立も存在しない。在位約10ヶ月と短く、また王世充に実権を握られていたため皇太子冊立の機会もなかったとみられる。禅譲後に王世充が自分の子・玄応を太子に立てた記事はあるが、これは王世充(鄭)の出来事であり侗の在位中の出来事ではないため対象外。
親征回数
『隋書』巻五十九(越王侗伝)を通読。侗は大業十三年(617年)以降、煬帝の江都行幸に伴い一貫して東都洛陽の留守を務め、即位後も洛陽から一度も出ていない(幽閉・崩御まで在洛陽)。李密への討伐委任も含め全て将への委任・詔勅によるもので、侗自身が軍を率いて出陣した記録はない。
反乱鎮圧回数
在位中、侗側(皇泰主政権)が主体となって反乱を鎮圧した事例は確認できない。宇文儒童・裴仁基らによる王世充打倒・侗復位の謀議は侗を擁立する側の動きであり侗自身が鎮圧主体ではなく、また事前に発覚し王世充側に粛清された(侗側の鎮圧行動ではない)。李密への対処も李密は服属勢力ではなく対等な群雄であり招撫・利用関係のため対象外。
被反乱回数
王世充による専権掌握から強制禅譲・幽閉・弑逆に至る一連の政変を単一の反乱(クーデター)として1件計上。首謀者は一貫して王世充であり、途中の元文都ら他輔政大臣の粛清・侗自身の対抗謀議の不発・禅譲強要・弑逆は全て同一の権力奪取プロセスの一部と判断した。
遷都回数
隋書帝紀を通読。長安→大興城の遷都は文帝の代の出来事で、煬帝以降は大興城(長安)のまま(東都洛陽は複都制の陪都)。
即位時年齢・没年齢
『隋書』巻五十九 列伝第二十四(煬三子・越王侗伝)を確認したが、越王侗(皇泰主)本人の生年・享年の直接記載(「時年」「享年」等)は見当たらなかった。同伝では同母系の兄弟について、燕王倓は宇文化及弑逆時に「時年十六」(618年)、異母弟の趙王杲は同じく「時年十二」と明記されるが、侗自身については年齢記載が一切ない。没日(毒殺未遂の後、帛による縊殺)は既存データ(reigns[0].note記載の「619年7月19日」)を再利用した。享年は既存noteにも記載がなく不明のためnullとした。
在位中の出来事(4件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
改元618年6月22日【皇帝即位(改元同時)】義寧2年(大業14年)5月戊辰、東都留守の元文都・盧楚ら(王世充も七貴の一人として名を連ねる)に擁立され即位すると同時に建元し、年号を「皇泰」とした。
【皇帝即位(改元同時)】義寧2年(大業14年)5月戊辰、東都留守の元文都・盧楚ら(王世充も七貴の一人として名を連ねる)に擁立され即位すると同時に建元し、年号を「皇泰」とした。越王侗は擁立された傀儡的側面のある皇帝だが、実際に皇帝を称し、その治世で終始「皇泰」の年号が使用されたためカウントする。在位中に他の改元は行われていない。
出典: 隋書 巻五十九 列伝第二十四(煬三子・越王侗)/北史 巻七十一(后妃下・煬帝子)/資治通鑑 巻一百八十五(唐紀一)
大赦618年6月22日義寧2年(大業14年)5月戊辰、宇文化及による煬帝弑逆の報が東都に届き、留守の元文都・盧楚・段達・王世充ら(七貴)が越王侗を尊立し即位させた際、大赦を行うと同時に建元して「皇泰」とした。
義寧2年(大業14年)5月戊辰、宇文化及による煬帝弑逆の報が東都に届き、留守の元文都・盧楚・段達・王世充ら(七貴)が越王侗を尊立し即位させた際、大赦を行うと同時に建元して「皇泰」とした。侗は擁立された傀儡的立場だったが、実際に皇帝として即位・在位した人物であるためカウントする。
出典: 隋書 巻五十九 列伝第二十四(煬三子・越王侗)/北史 巻七十一 列伝第五十九(后妃下・煬帝子)
大赦日付不詳王世充が李密を破り、その美女・財宝・将卒十余万人を率いて東都に凱旋した数日後、皇泰主(越王侗)の名で大赦が行われた。
王世充が李密を破り、その美女・財宝・将卒十余万人を率いて東都に凱旋した数日後、皇泰主(越王侗)の名で大赦が行われた。傀儡皇帝としての在位中の出来事だが、皇泰主の詔として実施されたためカウントする。隋書列伝には記載がなく、資治通鑑にのみ見える記事。
出典: 資治通鑑 巻一百八十六(唐紀二・高祖武德元年)
被反乱日付不詳王世充による専権掌握・強制禅譲・弑逆(東都政変)
首謀者: 王世充
結果: 「七貴」の一人で兵権(左翊衛大将軍)を握る王世充が、共同輔政の元文都・盧楚・郭文懿・趙長文らを誅殺して実権を掌握し、侗を「無所関預」の傀儡化。侗自身による陸士季との王世充打倒謀議は不発に終わり、王世充はさらに鄭王を自称・九錫を受けた上で段達らを通じて侗に禅譲を強要、含涼殿に幽閉した。その後、宇文儒童・裴仁基らによる侗復位計画が発覚したことを機に、王世充は甥の行本に命じ鴆毒を進め、絶命しなかったため帛で縊殺した。侗側は最後まで鎮圧に転じられず一方的に制圧・弑逆された。
朝廷内部の権力者(左翊衛大将軍・輔政大臣の一人)が兵力を背景にクーデターを起こし、他の輔政大臣を粛清、皇帝を強制的に廃位・幽閉した上で最終的に弑逆した事例のため、判定基準のパターン4(朝廷内部の権力者による兵力を伴う弑逆・クーデター)に該当しrebellionSufferedCountに計上。侗側が鎮圧主体ではないためrebellionSuppressionCountには計上しない。出典: 隋書 巻五十九 列伝第二十四(煬三子・越王侗)。