恭帝侗の人物データ
- 生年
- 不詳
- 在位
- 618年6月22日〜619年5月23日
- 没年
- 619年7月19日年齢不詳
- 死因
- 暗殺同じ政権の中の家臣・皇族・宦官などに殺された死。毒殺も含む。非業の死このサイトでは、暗殺・処刑・戦死・自害の4つをまとめて非業の死と呼んでいる。同じ死因92人/365人
- 即位経路
- 擁立同じ王朝の先代の跡を継いだが、誰を立てるかを決めたのは臣下・軍・宦官・外戚・皇太后・皇族など、先の皇帝以外だった即位。対立・僭称の皇帝同じ国号のまま、歴代の皇帝の系統の外で皇帝を名乗った人(多くは歴代の皇帝と並び立った)。その王朝の正史は、この人の本紀(皇帝としての伝)を立てていない。
- 先代
- 煬帝隋恭帝侗は煬帝の孫
- 次代
- 王世充鄭王世充と恭帝侗に血縁はない
- 呼び名
- 姓楊諱侗字仁謹諡号恭帝別称皇泰主呼び名の見方
出典
- 在位
- 隋書 列傳第二十四 炀三子(越王侗)/資治通鑑 巻一百八十五 唐紀一(武德元年五月)・
巻一百八十七 唐紀三(武德二年四月) - 死因
- 隋書 巻五十九 列伝第二十四(煬三子・
越王侗) - 即位経路
- 隋書 巻五十九 列伝第二十四(煬三子・
越王侗)
生涯
どんな皇帝か
隋書は容姿が美しく寛大で温厚だったとし、資治通鑑も温厚で仁愛があったと描く。
即位まで
煬帝の長男の元徳太子楊昭の子で、母は小劉良娣である。容姿が美しく、寛大で温厚だった。606年に越王となり、煬帝の巡幸皇帝が各地を見て回ることのたびに洛陽の留守を務めた。618年、宇文化及が煬帝を殺すと、元文都らは元徳太子の子で血筋が最も近いとして楊侗を推し立て、皇泰と改元元号(年の呼び名)を新しいものに改めることした。
治世と最期
宇文化及が楊浩を立てて迫ると、李密を招いて高位に任じ、化及を防がせた。機務を委ねられた段達・王世充・元文都らが不和となり、元文都らは王世充に殺された。楊侗は王世充を責めたが、涙ながらに弁明されると誠と受け取った。王世充は髪を振り乱して二心は無いと誓ったが、以後楊侗は政事に関われなくなった。記室の陸士季と王世充を除こうと謀ったが果たせず、幡や花を作らせ、僧に施させて福を求めるばかりだった。
619年、段達らに王世充へ九錫皇帝が功の大きい臣下に与えた九種の特別な品を加えるよう求められると、格別の功は無いと答えたが、太尉朝廷で最も位の高い大臣の一つが望んでいると言われると、公に任せると言った。段達らが禅譲皇帝が位をほかの人に譲ることを勧めると、天下は隋の高祖の天下だと怒って拒み、退朝後は母に向かって泣いた。四方が安定したら政権を返すと王世充の使いに伝えられ、位を譲って含涼殿に幽閉された。宇文儒童らが復位を謀って発覚すると、王世惲の勧めで王世充は毒酒を届けさせた。楊侗は仏を拝んで、今後は帝王の家に生まれませんようにと祈って毒を仰ぎ、絶命しないので絞め殺された。
史料について
李密を招いた件を、資治通鑑は盖琮の上疏皇帝に意見を書いて差し出すことを元文都らが採ったとする。王世充を責めた言葉は資治通鑑にあり、隋書は謝罪と盟いだけを書く。位を譲ったのを、隋書はやむなく譲ったとし、資治通鑑は王世充が楊侗の命と称して禅位皇帝が位をほかの人に譲ることさせ、辞退の表や勧進皇帝の位につくよう勧めることの勅書も楊侗は知らなかったとする。毒を届けた者を、隋書と旧唐書は王行本とし、資治通鑑は王仁則らとする。
恭帝侗とつながる皇帝
在位中の出来事
反乱1・改元1・大赦2
- 改元618年6月22日元号を「皇泰」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。618年6月22日
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。618年11月6日王世充が李密を破り、その美女・
財宝・ 将卒十余万人を率いて東都に凱旋した数日後、皇泰主(越王侗)の名で大赦が行われた。 - 反乱日付不詳王世充による専権掌握・
強制禅譲・ 弑逆(東都政変)
隋の歴代皇帝
歴代3人の一覧- 第1代文帝楊堅581–604年諸説あり
- 第2代煬帝604–618年暗殺
- 第3代恭帝侑617–618年不詳
- 歴代外恭帝侗618–619年暗殺
- 歴代外秦王楊浩618年暗殺
年表
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