秦王楊浩の人物データ
- 生年
- 不詳
- 在位
- 618年4月11日〜618年10月23日
- 没年
- 618年10月23日年齢不詳
- 死因
- 暗殺同じ政権の中の家臣・皇族・宦官などに殺された死。毒殺も含む。非業の死このサイトでは、暗殺・処刑・戦死・自害の4つをまとめて非業の死と呼んでいる。同じ死因92人/365人
- 即位経路
- 擁立同じ王朝の先代の跡を継いだが、誰を立てるかを決めたのは臣下・軍・宦官・外戚・皇太后・皇族など、先の皇帝以外だった即位。対立・僭称の皇帝同じ国号のまま、歴代の皇帝の系統の外で皇帝を名乗った人(多くは歴代の皇帝と並び立った)。その王朝の正史は、この人の本紀(皇帝としての伝)を立てていない。
- 先代
- 煬帝隋秦王楊浩は煬帝の甥
- 次代
- —
- 呼び名
- 姓楊諱浩呼び名の見方
出典
- 在位
- 旧唐書 本紀第一 高祖(新唐書 本紀第一 高祖で在位終了日の干支を補完)
- 死因
- 隋書 巻四十五 列伝第十(文四子)/隋書 巻八十五 列伝第五十(宇文化及伝)
- 即位経路
- 隋書 巻八十五 列伝第五十(宇文化及伝)
生涯
即位まで
秦孝王楊俊の子で、母は崔氏である。父は文帝の第三子で、煬帝の弟にあたる。父は妃の崔氏(楊浩の母)に瓜に毒を盛られて病み、奢侈を咎められて免官されたのち、600年に没した。崔氏は死を賜った。群臣は、秦王の二子はどちらも母が罪で廃されたので跡を継ぐべきでないと議し、秦国の官を喪主とした。煬帝は即位すると楊浩を秦王に立てて父の跡を継がせ、のち河陽都尉兵や治安を受け持つ武官とした。楊玄感は弟たちと煬帝を廃して楊浩を立てることをひそかに謀り、吐谷渾遠征の帰途に行宮皇帝が都の外で泊まる仮の宮殿を襲おうとしたが、叔父の楊慎に止められて取りやめた。のち楊浩は、楊玄感の乱の討伐に向かう宇文述と往来したので、諸侯が内臣と通じたとして弾劾され、免官された。楊俊の庶子正妻以外の女性が生んだ子の楊湛も、楊浩に連坐して免官された。618年、宇文化及が江都で煬帝を殺した。化及はまず蜀王楊秀を立てようとして衆議に退けられ、楊秀とその子らを殺した。隋の宗室君主と同じ一族の人々・外戚皇帝の母や皇后の実家の一族は皆殺しにされたが、楊浩だけは以前から宇文智及と往来があったので、智及が計らって助けた。宇文化及は楊浩を帝に立て、自らは大丞相政治の全体を任された臣下の最高の称号と称した。楊浩は別宮に住まわされて詔に署名するだけで、兵に監視された。
史料について
北史の秦孝王俊伝は群臣の議を載せず、楊浩は母が罪で死んだため立てられなかったとだけ書く。
治世と最期
化及が楊浩を擁して彭城まで来ると、東都で皇帝に立っていた越王楊侗の側は李密を招いた。
兵が離れると、化及は一日でも帝にならずにいられようかと嘆いて楊浩を毒殺し、魏県で皇帝を称した。楊湛も宇文化及に殺された。
史料について
李密を招いたのを、隋書の越王侗伝は恐れた楊侗が使者を遣わしたとし、元文都伝は元文都が楊侗に勧めたとする。殺し方を、隋書と北史の宇文化及伝、資治通鑑、旧唐書の高祖本紀は毒殺とし、隋書・北史の楊浩伝と新唐書の高祖本紀は書かない。楊浩伝は、化及が帝を称してから害したとする。楊湛が殺された時期を、隋書は書かない。
秦王楊浩とつながる皇帝
隋の歴代皇帝
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