秦王楊浩
隋|在位 618年
- 諱(本名)
- 楊浩
- 在位
- 618年
- 在位期間
- 195日365名中323位
- 即位経路
- 擁立
- 死因
- 暗殺
- 即位時年齢
- 不詳
- 没年齢
- 不詳
- 改元
- 0回
- 大赦
- 0回
- 立后
- 0回
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 0回
- 被反乱
- 0回
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
宇文化及が煬帝弑殺の際、隋室の血統として秦孝王の子・浩のみを残し「立以為帝」。完全な武力擁立で、浩自身に実権はなく別に軟禁された傀儡だった。
出典: 隋書 巻八十五 列伝第五十(宇文化及伝)
死因の経緯
宇文化及配下で傀儡皇帝の地位にあったが、化及が李密に敗れ魏県へ敗走した後、自ら皇帝を僭称するにあたり鴆殺された。同一勢力内部者(丞相格の化及)による毒殺。
出典: 隋書 巻四十五 列伝第十(文四子)/隋書 巻八十五 列伝第五十(宇文化及伝)
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
楊浩自身が新元号を建てた記録は無い。旧唐書高祖本紀・新唐書高祖本紀は楊浩の死を「大業十四年」(=義寧二年=武德元年)九月の出来事として記しており、楊浩の在位中は煬帝の大業年号がそのまま継続使用されていたことが確認できる。資治通鑑(大業十四年九月条)には「(化及)於是鴆殺秦王浩,即皇帝位於魏県,国号許,改元天寿,署置百官」とあり、天寿という新元号は宇文化及自身が楊浩を毒殺した後に即位して初めて建てたものであり、楊浩自身の在位中の改元・建元ではない。設問の固有注意事項の通り、天寿年号は楊浩のものではないと確認された。楊浩は隋書列伝(文四子)にも「宇文化及杀逆之始,立浩为帝。化及败于黎阳,北走魏县,自僭伪号,因而害之」とあり、化及が「自ら偽号を僭した」のは浩を殺害した後である点が一致する。
大赦回数
義寧二年三月に宇文化及が煬帝を弑逆し秦王楊浩を擁立してから、大業十四年(武德元年)九月に化及が魏県で楊浩を鴆殺するまでの間、大赦を発した記録は隋書(恭帝紀・文四子伝・宇文化及伝)、旧唐書・新唐書高祖本紀、資治通鑑のいずれにも見当たらない。資治通鑑には「化及自称大丞相,総百揆。以皇后令立秦王浩為帝,居別宮,令発詔画敕書而已,仍以兵監守之」とあり、楊浩は別宮に軟禁され詔勅に署名するのみの完全な傀儡であったことが明記されており、独自の大赦発令は行われなかったと判断できる。
立后回数
楊浩に皇后が立てられた記録は隋書・旧唐書・新唐書・資治通鑑のいずれにも見当たらない。傀儡皇帝として別宮に軟禁されていた短期間(半年強)の在位であり、立后の記事は存在しない。
皇太子廃立回数
楊浩の在位中(義寧二年三月~大業十四年九月)に皇太子が立てられた、あるいは廃された記録は原典に見当たらない。楊浩自身は軟禁された傀儡であり、朝政・冊立関連の実務は全て宇文化及が掌握していた。
親征回数
楊浩自身が軍を率いて出征した記録は隋書列伝(文四子・宇文化及伝)いずれにも見当たらない。即位前は秦王・河陽都尉として在任していたのみで、楊玄感の乱(613年)の際も宇文述への私信が発覚し弾劾・免官されただけで自ら軍事行動を取った記述はない。即位後(義寧二年三月~大業十四年九月)は宇文化及に別宮軟禁され「発詔画敕書而已」の完全な傀儡であり、軍事行動の主体になり得なかった。
反乱鎮圧回数
楊浩の在位中、彼自身(あるいはその政権)が鎮圧の主体となった反乱の記録は見当たらない。実権は全て宇文化及が掌握しており、化及配下の内部離反(徐州での司馬徳戡らの化及暗殺未遂計画)や対李密戦等はいずれも化及自身の政権としての軍事行動であり、楊浩が主体・名目上ですら関与した形跡がない。
被反乱回数
楊浩自身は即位当初から軟禁された傀儡であり在位中に彼の政権に対する武装蜂起・反乱の記録はない。最終的に宇文化及に鴆殺された事件(大業十四年九月、化及が魏県で自ら皇帝を僭称する直前)は、化及がクーデター当初から既に完全な武力制圧下に置いていた楊浩に対する秘密裏の毒殺であり、新たな武力蜂起・弑逆クーデター(例外4)には該当しない。既存判例(後漢質帝=梁冀による「潜行鴆弑」を被反乱不算入とした基準)と同型のため計上しない。
遷都回数
隋書帝紀を通読。長安→大興城の遷都は文帝の代の出来事で、煬帝以降は大興城(長安)のまま(東都洛陽は複都制の陪都)。
即位時年齢・没年齢
隋書列伝第十(文四子・秦孝王俊伝、浩の記事)、列伝第五十(宇文化及伝)を通読したが、楊浩の生年・即位時年齢・没年齢(「時年」「享年」等の直接記載)はいずれにも見当たらなかった。既存のdeathCause/accessionRoute/reigns[].noteにも年齢記載はない。父の秦孝王俊は開皇二十年(600年)六月に薨去しており、浩はそれ以前の生まれと推定されるが、逆算に足る確実な年齢起点が原典にないため算出は行わない。調査したが原典に生年月日・享年の直接記載が見当たらなかった。