中国皇帝統計

恭帝侑

隋|在位 617–618年

諱(本名)
楊侑
在位
617–618年
在位期間
176日365名中330位
即位経路
擁立
死因
不詳
即位時年齢
13歳(数え年)172名中・若い順40位タイ
没年齢
15歳(数え年)269名中・長寿順255位タイ
改元
1332名中142位タイ
大赦
1267名中194位タイ
立后
0
皇太子廃立
0
親征
0
反乱鎮圧
0
被反乱
2289名中158位タイ
遷都
0

順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。

即位の経緯

李淵(唐王)の主導により大興殿にて擁立即位。実権は李淵側にあり、恭帝は名目上の皇帝に過ぎなかった。

出典: 隋書 帝紀五(恭帝紀)

死因の経緯

隋書・北史とも「武徳二年夏五月崩,時年十五」と崩御の事実のみを記し、死因への言及は一切ない。新唐書・資治通鑑は同事件を「八月丁酉」に置くなど月の記録に一次史料間の齟齬があるが、いずれの史料も死因を記していない。

出典: 隋書 帝紀五(恭帝紀)/北史 巻十二/舊唐書 巻一(高祖紀)/新唐書 巻一(高祖紀)/資治通鑑 巻一八七(唐紀三)

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

恭帝の在位期間中の元号は『義寧』のみで、途中での改元は確認できなかった。義寧二年五月の禅譲・唐建国に伴う『武德』改元は唐高祖側の出来事としてこの人物のカウントには含めていない。

大赦回数

隋書・北史・旧唐書・新唐書・資治通鑑いずれも恭帝在位期間(義寧元年十一月~義寧二年五月)中の大赦をこの即位時の一回のみ記録しており、他に『大赦天下』等の全国規模恩赦の記載は確認できなかった。

立后回数

恭帝の在位期間中に皇后を冊立した記録は隋書帝紀五(恭帝紀)・北史巻十二・旧唐書巻一・新唐書巻一・資治通鑑のいずれにも見られない。即位時13歳という年齢からも立后は行われなかったとみられる。

皇太子廃立回数

恭帝は義寧元年十一月~二年五月の約半年間のみ在位し、即位当初から幼冲(13歳)で在位期間も短く、皇太子を立てた記録自体が隋書・北史・旧唐書・新唐書・資治通鑑いずれにも見られない。したがって皇太子廃立の記録は存在しない。

親征回数

隋書帝紀五(恭帝紀)通読。恭帝は即位時13歳の幼少で、自身の詔にも『朕惟孺子,未出深宮』(未だ深宮を出でず)とあり、実権は李淵側にあった。恭帝自身が軍を率いて出征した記事は一切見られない。義寧元年十二月の薛挙撃破(秦公=李世民が元帥)・屈突通捕縛(義師=李淵配下の軍)はいずれも李淵側の将が主体であり、恭帝本人の親征ではない。

反乱鎮圧回数

恭帝紀本文中、義寧元年十一月〜十二月に張掖の康老和の挙兵、廬江郡陥落(賊帥張善安)等の服属地内反乱の記事があるが、恭帝の在位期間(義寧二年五月まで)中にこれらが鎮圧されたことを示す記述は見られない(在位終了までに鎮圧未完了)。なお同時期の薛挙撃破・屈突通捕縛は、薛挙が『自称天子』しており対等勢力との抗争(統一戦争)に該当するため除外、屈突通捕縛は李淵の長安制圧・恭帝擁立に付随する権力移行過程の出来事で恭帝の政権に対する反乱鎮圧とは性質が異なると判断し除外した。

被反乱回数

恭帝は擁立直後から実権を持たない傀儡皇帝であり、記録に残る軍事行動の大半(薛挙討伐・屈突通捕縛等)は李淵側が主体で、かつ薛挙・曹武徹は自立独立勢力(自称天子・独自建元)のため対等勢力との抗争として除外した。康老和・張善安の2件は服属地内での挙兵と読めるため計上したが、原文の記述が簡略で恭帝側の対応(鎮圧の着手有無)が不明な境界事例であり、confidenceはlowとした。

遷都回数

隋書帝紀を通読。長安→大興城の遷都は文帝の代の出来事で、煬帝以降は大興城(長安)のまま(東都洛陽は複都制の陪都)。

即位時年齢・没年齢

既存レコードの ages を再利用(新規調査で変更なし)。即位時年齢は資治通鑑(隋紀八)義寧元年条『壬戌,李渊備法駕迎代王即皇帝位於天興殿,時年十三』、崩年齢は隋書帝紀五(恭帝紀)・北史巻十二『武德二年夏五月崩,時年十五』に明記。崩じた月について新唐書・資治通鑑(唐紀)は『八月丁酉』とし隋書・北史・旧唐書(五月)と1ヶ月以上のズレがある。

在位中の出来事(4件)

改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。

改元日付不詳即位に伴う建元。

即位に伴う建元。『改大業十三年為義寧元年』(隋書・北史)。李淵に擁立された傀儡皇帝としての即位であり、改元自体も李淵主導によるものだが、恭帝の名で発せられた詔であり実際にその治世で『義寧』の年号が使用されたためカウントする。恭帝の在位中(義寧元年十一月~二年五月)を通じて改元はこの一度のみで、義寧二年もそのまま『義寧』が継続使用された(義寧二年五月に恭帝が唐に禅譲した後、唐高祖李淵が別途『武德』に改元しているが、これは恭帝ではなく李淵の即位に伴うものであり恭帝の治世には帰属しない)。

出典: 隋書帝紀五(恭帝紀);北史巻十二;旧唐書巻一(高祖紀);新唐書巻一(高祖紀);資治通鑑巻一八四(隋紀八・義寧元年)

大赦日付不詳李淵に擁立され大興殿(隋書・北史は「大興殿」、資治通鑑は「天興殿」と表記)にて即位した際の即位詔で『可大赦天下』と明記。

李淵に擁立され大興殿(隋書・北史は「大興殿」、資治通鑑は「天興殿」と表記)にて即位した際の即位詔で『可大赦天下』と明記。恭帝自身の名で発せられた詔だが実質は李淵主導の傀儡即位であり、この大赦も李淵の意向によるものである旨を付記。恭帝在位中に確認できる大赦はこの1回のみ。なお武德元年五月甲子の李淵(唐高祖)即位時の大赦・改元は恭帝退位後の唐朝側の出来事であり、恭帝の在位区間には含めない。

出典: 隋書帝紀五(恭帝紀);北史巻十二;旧唐書巻一(高祖紀);新唐書巻一(高祖紀);資治通鑑巻一八四(隋紀八・義寧元年)

被反乱日付不詳張掖の挙兵

首謀者: 康老和

結果: 結果不明(本紀に後日談の記載なし、恭帝在位終了までに鎮圧記事なし)

『張掖康老和挙兵反』(隋書帝紀五・恭帝紀)。恭帝擁立直後、隋の統治下にあった張掖郡で挙兵。恭帝の政権(隋朝、実権は李淵)に対する服属地内の武装反抗として計上。薛挙・曹武徹のような自立建元(自称天子・独自年号樹立)の明記はなく、対等勢力の統一戦争ではなく服属民の反乱と判断した。

被反乱日付不詳廬江郡陥落

首謀者: 張善安

結果: 廬江郡が陥落、以後の顛末(鎮圧の成否)は恭帝紀に記載なし

『賊帥張善安陥廬江郡』(隋書帝紀五・恭帝紀)。廬江郡は隋の統治機構下の郡であり、これを陥落させた反乱として計上。恭帝在位終了(義寧二年五月の禅譲)までに鎮圧された記録はない。

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