恭帝侑の人物データ
- 生年
- 不詳年齢は
史書に 記された 年齢から 数えた - 在位
- 617年12月18日〜618年6月12日
- 没年
- 619年15歳(数え年)長生き順同率252位/266人
- 死因
- 不詳死因を書いた記録が史書に見当たらない。同じ死因31人/365人
- 呼び名
- 姓楊諱侑諡号恭帝呼び名の見方
出典
- 在位
- 隋書 帝紀第五 恭帝
- 死因
- 隋書 帝紀五(恭帝紀)/北史 巻十二/舊唐書 巻一(高祖紀)/新唐書 巻一(高祖紀)/資治通鑑 巻一八七(唐紀三)
- 即位経路
- 隋書 帝紀五(恭帝紀)
生涯
どんな皇帝か
隋書の恭帝紀は、その人柄を聡明で度量があったとだけ記す。史臣歴史書を編み、その中で評を述べた人は、幼くして家の多難に遭い、一人が徳を失って天下が崩れ、天運も尽きたので禅譲皇帝が位をほかの人に譲ることは避けられなかったと評し、恭帝本人の過失は言わない。
即位まで
煬帝の太子楊昭の子で、母は韋妃である。代王となり、613年に煬帝が遼東へ親征君主が自ら軍を率いて戦いに出ることすると、衛玄とともに都の留守を任された。都を守っていたころ、関中は疫病と旱魃による飢饉に見舞われた。617年、李淵が長安に迫ると、都を守る衛文昇・陰世師らが代王を擁して拒んだ。長安が落ちると側近は逃げ散り、侍読の姚思廉だけが残って、殿に上ろうとする兵を声を励まして退かせた。李淵はこれを義とし、思廉が楊侑を送ることを許した。李淵の軍は煬帝を太上皇位を退いた(退かされた)前の皇帝の呼び名に尊び、楊侑を奉じて即位させた。
史料について
関中の飢饉を、隋書の食貨志は、代王が倉を開いて救ったが役人が手続きを滞らせて死者が積み重なったとし、別の箇所では救えなかったとする。立てた日は、隋書の煬帝紀・恭帝紀と旧唐書で一日ずつ異なる。
治世と最期
即位するとすぐ李淵を大丞相政治の全体を任された臣下の最高の称号・唐王とし、自らは幼子で奥宮を出たこともないと述べて、軍国の機務を丞相皇帝を助けて政治全体を取りまとめた最高位の役職府に委ねた。618年、宇文化及が江都で煬帝を殺した。煬帝に特に可愛がられていた異母兄弟の燕王楊倓も、異変を察して煬帝に会おうとしたが阻まれ、殺された。
同じ年、唐王に九錫皇帝が功の大きい臣下に与えた九種の特別な品を備えさせ、ついで天命が唐に移ったと述べる詔を出して位を譲り、酅国公とされた。619年に没した。後継ぎが無く、族子が家を継いだ。
史料について
資治通鑑は、李淵が九錫を受けず有司その仕事を受け持つ役人に返したとする。酅国公とした日を、隋書は禅位皇帝が位をほかの人に譲ることの日とし、旧唐書・新唐書・資治通鑑は唐の高祖の即位後とする。死んだ月は隋書・旧唐書と新唐書・資治通鑑とで異なり、確かめた書のどれも死因を書かない。
恭帝侑とつながる皇帝

勢力図
隋末唐初の勢力図で見る
617年の地図に、恭帝侑が治めた国が描かれています。
在位中の出来事
反乱2・改元1・大赦1
- 改元617年12月元号を「義寧」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。617年12月
- 反乱617年12月31日張掖の挙兵
- 反乱618年1月30日(旧暦年だけを書く所は、教科書・辞典と同じく、元号の年に当たる西暦の年で書いています。旧暦の年末(11・12月)は西暦では翌年の1・2月に入るので、日付の年が1つ後ろになります。 年の書き方 617年12月29日)廬江郡陥落
隋の歴代皇帝
歴代3人の一覧- 第1代文帝楊堅581–604年諸説あり
- 第2代煬帝604–618年暗殺
- 第3代恭帝侑617–618年不詳
- 歴代外恭帝侗618–619年暗殺
- 歴代外秦王楊浩618年暗殺
年表
隋の時代を年表で見る
隋が