
運河を開き、高句麗に大軍を送り、江都で近衛兵に殺された隋の皇帝である。
日本とのつながり
607年
遣隋使(小野妹子)
倭王の使いが「日出づる処の天子」で始まる国書を届け、煬帝は無礼だと不快がった。
原文
- 大业三年,其王多利思北孤遣使朝贡。― 隋書(列伝第四十六 東夷伝(倭国の条))
- 日出处天子至书日没处天子无恙”云云。帝览之不悦,谓鸿胪卿曰:“蛮夷书有无礼者,勿复以闻。”― 隋書(列伝第四十六 東夷伝(倭国の条))
煬帝の人物データ
- 生年
- 569年
- 在位
- 604年8月21日〜618年4月11日
- 没年
- 618年4月11日50歳(数え年)長生き順同率83位/266人
- 死因
- 暗殺同じ政権の中の家臣・皇族・宦官などに殺された死。毒殺も含む。非業の死このサイトでは、暗殺・処刑・戦死・自害の4つをまとめて非業の死と呼んでいる。同じ死因92人/365人
- 即位経路
- 世襲先の皇帝が自分で跡継ぎを決めていて(遺詔・皇太子に立てるなど)、その跡を継いだ即位。
- 先代
- 文帝楊堅隋煬帝は文帝の子
- 呼び名
- 姓楊諱広幼名阿摐廟号世祖呼び名の見方
- 目立つ記録
- 反乱を起こされた 66回多い順2位
出典
- 在位
- 隋書 帝紀第三 煬帝上/隋書 帝紀第四 煬帝下(即位・
崩御記事)、資治通鑑 卷一百八十 隋紀四 高祖文皇帝下仁寿四年(即位日の干支確定)、資治通鑑 卷一百八十五 唐紀一 高祖神堯大聖光孝皇帝上之上武德元年(崩御日の干支確定) - 死因
- 隋書 帝紀五(恭帝紀)/北史 巻十二/資治通鑑 巻一八五(隋紀七)
- 即位経路
- 隋書 帝紀三(煬帝上)
生涯
どんな皇帝か
隋書の史臣歴史書を編み、その中で評を述べた人は、若くして評判が良かったが、才を恃んで己を誇り、諫める官を除いて過ちを覆ったと評する。
即位まで
文帝の第二子で母は独孤皇后、581年に13歳で晋王に立てられた。晋王のころは学問を好み、弦の切れた楽器を見た文帝に歌舞を好まないと褒められた。とりわけ自分を飾り、当時は仁孝と称された。狩りで雨に遭うと、兵が濡れているのに自分だけ着るのかと油衣を下げさせた。588年に陳討伐の元帥となり、陳が平らぐと府庫を封じて財物を取らず、賢と称された。兄の座を奪おうと母に取り入り、楊素らが煽って、600年に兄の楊勇が廃され、代わって皇太子となった。604年、文帝が仁寿宮で病のうちに没し、煬帝はそこで即位した。
史料について
文帝の死に煬帝が手を下したとは、隋書の本紀皇帝ごとの出来事を年代順に書いた記録やその部分は書かない。宣華夫人の伝は、病床の文帝が太子の無礼に怒って楊勇を呼ぼうとしたが、太子が張衡を寝殿に入れ、まもなく文帝の死が伝えられたと書く。資治通鑑は内外に異論が多かったと書き、考異は毒薬などの他書の説を挙げたうえで隋書に従う。
治世と最期
即位の翌年から、都の造営と運河の開削を続けた。605年に洛陽に東京を造らせ、河南の百余万人で通済渠を開いた。同じ年、龍舟で江都へ行き、船は二百余里連なった。608年には河北の百余万人で永済渠を開き、涿郡まで通した。
自分の才を誇り、臣下を見下した。士大夫学問を身につけて役人となった知識人の層と選挙で競っても天子になれたと侍臣に言い、当世の賢者は皆自分に及ばないと見ていた。先帝の腹心だった高熲・賀若弼らも斬られた。薛道衡が奉った先帝の頌を不快としていたところへ、道衡が高熲が生きていればと言ったと聞いて怒り、取り調べさせたうえで自尽自分で命を絶つことを命じた。自尽できなかった道衡は縊り殺され、天下はこれを冤罪とした。
高句麗遠征に大敗したのち、江都で近衛兵に殺された。第一次の高句麗遠征は号して200万だったが、宇文述らの九軍が薩水で敗れ、逃げ帰ったのは2千余騎だった。617年、唐公が長安に入り、遠く煬帝を太上皇位を退いた(退かされた)前の皇帝の呼び名に奉って代王侑を帝に立てた。江都で謀反の噂を伝えた宮人宮中に仕え暮らした女性たちを煬帝は怒って斬り、のちに宿衛宮中に泊まり込んで皇帝を守ること、またその兵の謀反を告げられた蕭皇后は、もう救えない、帝を煩わせるだけだと言った。618年、宇文化及・司馬徳戡・裴虔通らが驍果隋の煬帝が集めた、皇帝を守る精兵の部隊を率いて乱を起こし、宮中に押し入った。煬帝は天子の死には法があると毒酒を求めたが許されず、自ら巾を解いて渡し、令狐行達に絞め殺された。
史料について
隋書の本紀の総評は、臣下を疑って任せきらず、高熲・賀若弼らを、直言を憎んで形の無い罪で斬ったと書く。最期の場面は資治通鑑による。隋書の本紀は手段も手を下した者も書かず、宇文化及伝は令狐行達に殺させたとだけ書く。資治通鑑考異は、別の書が絞めた者を干洪達とすることを挙げたうえで、令狐行達とする。
煬帝とつながる皇帝

勢力図
隋末唐初の勢力図で見る
613–618年の地図に、煬帝が治めた国が描かれています。
在位中の出来事
反乱66・親征4・皇后1・改元1・大赦7
- 反乱604年漢王諒の乱
- 改元605年元号を「大業」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。605年
- 皇后605年改元・
大赦と同日に晋王妃であった蕭氏を皇后に立てた。 - 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。606年東京入城の翌日に大赦し、今年の租税を免除。
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。607年律令頒布と同時に大赦。
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。608年恆岳(恒山)親祭に伴い大赦。
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。609年吐谷渾遠征中の観風行殿での宴の後に大赦。
- 親征皇帝が自ら軍を率いて戦場に出ること。609年吐谷渾
- 反乱610年建国門蜂起未遂
- 反乱610年雁門の乱
- 反乱610年朱崖の乱
- 親征皇帝が自ら軍を率いて戦場に出ること。612年高句麗(第一次遼東遠征)
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。613年第二次高句麗遠征準備中に大赦。
- 親征皇帝が自ら軍を率いて戦場に出ること。613年高句麗(第二次遼東遠征)
- 反乱613年平原の乱
- 反乱613年『阿舅賊』の乱
- 反乱613年『奴賊』の乱
- 反乱613年済北の乱(韓進洛)
- 反乱613年済陰の乱
- 反乱613年『盧公』の乱
- 反乱613–617年済北の乱(甄宝車)
- 反乱613年楊玄感の乱
- 反乱613年江南の乱
- 反乱613年信安の乱
- 反乱613年済陰・
東海の乱 - 反乱613年蒼梧の乱
- 反乱613年東陽の乱
- 反乱613年東郡包囲
- 反乱613–617年孟譲の乱
- 反乱613年長白山の乱(王薄)
- 反乱613年清河の乱
- 反乱613年渤海の乱(燕王を自称)
- 反乱613年斉王を自称する乱
- 反乱613年扶風の乱(自称皇帝・
建元白烏) - 親征皇帝が自ら軍を率いて戦場に出ること。614年高句麗(第三次遼東遠征)
- 反乱614年扶風の乱(唐王を自称)
- 反乱614年延安の乱(建元大世)
- 反乱614年建安の乱
- 反乱614年琅邪の乱
- 反乱614年彭城の乱(懸薄山)
- 反乱614年離石胡の乱(天子を自称)
- 反乱614年林慮山の乱
- 反乱614–615年長平・西河の乱
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。615年東都行幸のその日に大赦。
- 反乱615年上谷の乱(漫天王・
燕を自称) - 反乱615–616年歴山飛の乱
- 反乱615年淮南の乱
- 反乱615年彭城の乱(魯郡侵攻)
- 反乱615年陳・汝の乱
- 反乱615年東海の乱(楚王・
明政を自称) - 反乱615年絳郡の乱
- 反乱615年譙郡の乱(楚帝・
昌達を僭称) - 反乱616年雁門・
霊丘の乱 - 反乱616年東海の乱(蒼山)
- 反乱616年馮翊の乱
- 反乱616年高涼の乱
- 反乱616年恒山・
高陽の乱 - 反乱616年東海の乱
- 反乱616年安定の乱
- 反乱616年鄱陽の乱(元興王・
始興) - 反乱616年鄱陽の乱(楚帝・
太平) - 反乱617年斉郡の乱
- 反乱617年渤海の乱(長楽王・
丁丑) - 反乱617年東平の乱
- 反乱617年弘化の乱
- 反乱617年朔方の乱(大丞相を自称)
- 反乱617年上谷の乱(王子英)
- 反乱617年馬邑の乱(定楊可汗を自称)
- 反乱617年瓦崗の乱(興洛倉)
- 反乱617年廬江の乱
- 反乱617年廬江の乱(李通徳)
- 反乱617年隴右の乱(西秦覇王・
秦興を自称) - 反乱617年汝陰の乱
- 反乱617年太原起義
- 反乱617年河西の乱(涼王・
安楽を自称) - 反乱617年太原の乱(楊世洛)
- 反乱617年羅県の乱(梁王を自称)
- 反乱618年4月11日江都の変
隋の歴代皇帝
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