宇文化及
許(隋末)|在位 618–619年

- 諱(本名)
- 宇文化及
- 在位
- 618–619年
- 在位期間
- 149日365名中333位
- 即位経路
- 建国
- 死因
- 処刑
- 即位時年齢
- 不詳
- 没年齢
- 不詳
- 改元
- 1回332名中142位タイ
- 大赦
- 0回
- 立后
- 0回
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 0回
- 被反乱
- 0回
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
楊浩を鴆殺した後、禅譲儀礼を経ず「僭皇帝位」を称し、国号「許」・元号「天寿」を建てて百官を新設した。既存王朝(隋)からの継承のない新規建国。
出典: 隋書 巻八十五 列伝第五十(宇文化及伝)
死因の経緯
魏県で「許」建国後、聊城で竇建徳に包囲・生擒され「殺君之罪」を数えられた上、二子とともに斬首(隋書は処刑地を河間、旧唐書は大陸県とするが同一郡域内で矛盾ではない)。竇建徳という政権交代後の勝者による公的処断のため処刑。
出典: 隋書 巻八十五 列伝第五十(宇文化及伝)/旧唐書 巻五十四(王世充・竇建徳伝)
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
隋書「於是鴆殺浩,僭皇帝位於魏縣,國號許,建元為天壽,署置百官」、資治通鑑「於是鴆殺秦王浩,即皇帝位於魏縣,國號許,改元天壽,署置百官」と両史料が一致して即位・建元を伝える。旧唐書本紀では「宇文化及至魏州,鴆殺秦王浩,僭稱天子,國號許」(天寿の元号名自体は旧唐書本紀の当該箇所には明記なし)。この即位・建元をeraChangeCountに1回として算入。
大赦回数
義寧二年(618)三月に煬帝を弑殺してから武徳二年(619)閏二月に竇建德に敗れ捕らえられるまで、宇文化及は一貫して魏県・聊城等で軍事的に追い詰められた状態にあり、隋書列伝・旧唐書本紀・資治通鑑のいずれにも化及による大赦・大赦天下の記事は見当たらない(傀儡皇帝楊浩の名での大赦記事も確認できず)。
立后回数
隋書巻八十五(宇文化及伝)・資治通鑑いずれにも化及が皇后を冊立したとする記事はない。在位が半年強と短く、魏県での僭称後は元宝蔵攻撃・聊城逃走など軍事行動に終始しており立后の余裕がなかったと見られる。
皇太子廃立回数
資治通鑑には化及の二子「承基・承趾」の名が見えるが、いずれも皇太子に立てられた記録はなく、廃立の記事もない。
親征回数
指定sourceFile(旧唐書巻五十四)を確認。江都で煬帝弑殺後、化及は驍果軍を率いて関中方面へ北上する途上、黎陽で李密に迎撃・大破された(「密遂稱臣奉制,以兵拒化及於黎陽」「未幾,李密破化及還」)が、これは自立建国(許、618年10月)前の出来事であり、かつ相手の李密も皇帝を称さない独立群雄同士の抗争(統一戦争)にあたるため、本人政権「許」の親征としては算入しない。許建国後(618年10月~619年3月)は竇建德の攻勢を受けて聊城に籠城・捕縛されるのみで、化及自身が攻勢に出た記録は見当たらない。
反乱鎮圧回数
指定sourceFileおよび既存のcapitalRelocationCount等の調査記録を踏まえても、許(化及政権)の在位中に服属勢力・部下による反乱を鎮圧した記事は見当たらない。竇建德の攻撃は独立勢力同士の抗争であり服属民の反乱ではないため対象外。
被反乱回数
竇建德の許(化及政権)への攻撃・聊城包囲・捕縛・処刑は、竇建德が化及に服属していた家臣ではなく独立して建国済みの夏政権の君主であったため「対等な群雄との抗争(統一戦争)」に該当し、被反乱としては算入しない。李密との黎陽での交戦も同様に独立群雄同士の抗争であり、かつ建国(618年10月)前の出来事のため対象外。許政権内部からの反乱・クーデターの記録も指定sourceFileには見当たらない。
遷都回数
旧唐書竇建德伝を通読。魏県で即位後、竇建德に敗れ聊城に籠城したのみで正式な遷都の記録なし。
即位時年齢・没年齢
指定sourceFile(旧唐書巻五十四・王世充竇建德伝)を通読したが、宇文化及本人の生年・享年に関する直接記載(「時年」「年◯◯」等)は見当たらなかった(同伝中「時年四十九」の記載は竇建德本人のものであり化及のものではない)。既存のdeathCause.note/accessionRoute.note/reigns[].noteにも化及本人の年齢記載はない。調査済みだが不明。
在位中の出来事(1件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
改元日付不詳楊浩を鴆殺し、魏県にて自ら「僭皇帝位」(自称皇帝への即位)、国号を「許」、元号を「天寿」と建元した。
楊浩を鴆殺し、魏県にて自ら「僭皇帝位」(自称皇帝への即位)、国号を「許」、元号を「天寿」と建元した。即位と同時の建元であり、これが唯一の改元。武徳元年(618)九月の出来事(資治通鑑・旧唐書本紀いずれも同年九月辛未「追諡隋太上皇為煬帝」の記事の直後に配置、正確な日付(干支日)は明記されず月単位で確定)。以後、武徳二年閏二月に聊城で竇建德に敗れ捕らえられ大陸県(一部史料では襄国)で処刑されるまで改元の記録はない。
出典: 隋書巻八十五 列伝第五十(宇文化及伝)/資治通鑑巻一百八十六