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宋・隋末第1代

輔公祏

在位 623–624年(213日)623年9月 〜 624年4月

日本は飛鳥時代

輔公祏は隋末に杜伏威とともに群盗から身を起こし、唐に帰順したのちに丹楊で叛いて宋と号して位に即いたが、敗れて捕らえられ、斬られた皇帝である。

輔公祏の人物データ

生年
不詳
在位
  • 623年9月〜624年4月
213日長い順同率310位/365人即位の年齢は不詳
没年
624年年齢不詳
死因
同じ死因33人/365人
即位経路
先代
—
次代
—
呼び名
姓輔諱公祏呼び名の見方

出典

在位
旧唐書 巻五十六 列伝第六(輔公祏伝)/新唐書 巻八十七 列伝第十二(輔公祏伝)/資治通鑑 巻一百九十
死因
旧唐書 巻五十六(輔公祏伝)/新唐書 列伝第十二
即位経路
旧唐書 巻五十六(輔公祏伝)/新唐書 列伝第十二

生涯

どんな皇帝か

旧唐書のは、輔公祏は兵を盗み取って叛いたと評し、節を守って殺された王雄誕と対比する。

即位まで

斉州臨済の人で、杜伏威と生死を共にする交わりを結んでいた。おばの家の羊をたびたび盗んで杜伏威に贈り、追捕が厳しくなると、二人で逃げて群盗となった。杜伏威がを称するととなった。海陵の趙破陣を杜伏威が宴席で斬ったときは、外で兵を固めて変に備えた。杜伏威の命で精兵を率いて長江を渡り李子通を討ち、長刀を持たせた甲士千人を先頭に立てて、退く者は斬ると令した。杜伏威とともに唐に帰順し、淮南道・舒国公とされた。杜伏威は年長の輔公祏を兄として遇し、軍中では伯と呼ばれたが、杜伏威はこれを忌んで養子の闞稜・王雄誕に兵を握らせた。輔公祏は不満を抱き、左遊仙と道を学んで穀断ちを装った。622年、杜伏威は長安へ入朝するとき輔公祏を留守とし、王雄誕に兵を握らせて、輔公祏に変を起こさせるなとひそかに言い含めた。

史料について

李子通との戦いを、輔公祏伝は輔公祏が大敗させたとし、王雄誕伝と資治通鑑は、追った輔公祏がかえって破られ、王雄誕が私兵で夜襲して勝ったとする。杜伏威の入朝を、新唐書は623年とする。

治世と最期

左遊仙が謀反を説くと、輔公祏は王雄誕の兵を奪い、杜伏威から挙兵せよとの書が来たと偽った。誘いを拒んだ王雄誕を、屈しないと見て縊り殺した。623年、丹楊で背いて位に即き、国号を宋とした。陳の故宮を修めて住み、を置いて左遊仙をとした。

唐は李孝恭・李靖を遣わした。博望山・青林山の軍が破られ、李靖の兵が先に丹楊に至ると、輔公祏は城を棄てて会稽の左遊仙のもとへ逃げようとした。常州で部将に捕らえられかけ、妻子を棄てて数十人で関を斬って逃れた。624年、武康で土地の者に捕らえられて丹楊に送られた。捕らえられると、闞稜が自分と通謀していたと誣告した。輔公祏は李孝恭に斬られ、首は長安へ送られた。

輔公祏が杜伏威の命を偽っていたため、平定後に李孝恭がその反書を奏上し、長安で急死していた杜伏威は名を除かれ、妻子を没収された。627年、太宗が冤罪と知ってを戻した。

史料について

兵を奪った経緯を、両唐書の輔公祏伝は王雄誕がたまたま病で家にいたとし、新唐書の王雄誕伝と資治通鑑は、輔公祏が偽って王雄誕に二心ありと責め、王雄誕が病と称して退いたとする。称号を、旧唐書の伝と資治通鑑は帝位とし、旧唐書の高祖本紀は宋王をしたとする。捕らえ方を、旧唐書の高祖本紀は李孝恭が大破して捕らえたとする。

輔公祏とつながる皇帝

隋末唐初の勢力図(623年)

勢力図

隋末唐初の勢力図で見る

623年の地図に、輔公祏が治めた国が描かれています。

在位中の出来事

改元1
  1. 改元623年9月皇帝即位(改元同時)。

年表

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宋・隋末が中国史のどこにあたるか、同じ時代の王朝と前後の時代を並べて見られます。

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