輔公祏
宋・隋末|在位 623–624年
- 諱(本名)
- 輔公祏
- 在位
- 623–624年
- 在位期間
- 215日365名中318位
- 即位経路
- 建国
- 死因
- 処刑
- 即位時年齢
- 不詳
- 没年齢
- 不詳
- 改元
- 1回332名中142位タイ
- 大赦
- 0回
- 立后
- 0回
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 1回112名中62位タイ
- 反乱鎮圧
- 0回
- 被反乱
- 0回
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
杜伏威入朝後、その命と偽って挙兵。降伏を拒否した王雄誕を殺害した上で「僭即偽位」、国号「宋」を建てた。杜伏威政権からの離反という側面はあるが、独自に国号・元号を立て皇帝を自称したため建国。
出典: 旧唐書 巻五十六(輔公祏伝)/新唐書 列伝第十二
死因の経緯
討伐軍に敗れ丹陽を放棄して逃走中、武康で村人に捕らえられ丹陽に送られ、李孝恭により斬首、首級は長安に送られた。
出典: 旧唐書 巻五十六(輔公祏伝)/新唐書 列伝第十二
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
在位が武徳6年8月〜7年3月の一区間のみで再改元の余地はない。即位に伴う建元1回のみカウントしたが、年号名自体(「天明」)の原典的裏付けは取れていない。
大赦回数
旧唐書巻五十六輔公祏伝、新唐書列伝、資治通鑑唐紀六の該当箇所(武徳6年8月挙兵〜7年3月討伐まで)を通読したが、「大赦」「大赦天下」等の記述は見当たらない。在位期間が約8ヶ月と短く逃亡・戦闘に終始したため大赦を行う機会がなかったと考えられる。
立后回数
皇后冊立の記録は旧唐書・新唐書・資治通鑑いずれにも見当たらない。在位期間の短さ(約8ヶ月、常に戦闘・逃亡中)から皇后不在と判断。
皇太子廃立回数
皇太子(皇太弟等含む)を立てた記録自体が原典に見当たらないため、廃立も発生していない。
反乱鎮圧回数
同伝を通読したが、公祏政権に服属していた者が離反・挙兵し、公祏側がそれを鎮圧したという記録は見当たらない。沈法興は公祏の統治下にない独立の賊帥(対等な群雄)であり、鎮圧・被反乱いずれの対象にもならないため personalCampaignCount のみに計上し、こちらには含めない。
被反乱回数
旧唐書巻五十六輔公祏伝を通読。在位期間(武徳6年8月〜7年3月)中に彼自身の政権(宋)内部で武装反乱を起こした者の記録は見当たらない。唐(李孝恭率いる討伐軍)による最終的な討伐・処刑は、輔公祏政権にとって服属していない外部勢力(統一戦争の主体である唐王朝)との対外戦であり、本設問の対象(自政権への服属民等による武力反抗)には該当しないため計上しない。
遷都回数
旧唐書輔公祏伝を通読。陳の故都(建康、建国時の定都)から敗走・逃亡のみで新首都樹立の記録なし。
即位時年齢・没年齢
旧唐書巻五十六(絶対巻56)輔公祏伝を通読したが、輔公祏自身の生年・没年齢に関する直接記載(「時年」「享年」等)は見当たらなかった。同伝中に「時年十六」の記載があるが、これは杜伏威が公祏と刎頸の交わりを結んだ当時の杜伏威自身の年齢であり、公祏の年齢ではない。調査済みだが不明として確定。
在位中の出来事(2件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
改元623年8月皇帝即位(改元同時)。
皇帝即位(改元同時)。武徳6年8月、王雄誕殺害後に丹陽で挙兵し、資治通鑑は「寻称帝於丹楊、国号宋」、新唐書列伝は「遂僭位、国称宋」、旧唐書列伝は「因僭即偽位、自称宋国」と記す。皇帝僭称と建国自体は原典で確認できるが、具体的な年号名(「天明」)そのものへの直接言及は旧唐書・新唐書・資治通鑑・隋書のいずれの該当箇所にも見当たらなかった(当該調査で悉皆確認済み)。既知の経緯欄記載の元号名は他の年表資料に基づくと推測されるため、慣行上の即位建元1回としてカウントしつつconfidenceをmediumとした。
出典: 資治通鑑 唐紀六(巻百九十)
親征日付不詳呉興の賊帥・沈法興(毗陵に拠る)
対象: 呉興の賊帥・沈法興(毗陵に拠る)
結果: 撃破し毗陵から駆逐した
旧唐書巻五十六輔公祏伝「時呉興賊帥沈法興拠毗陵、公祏撃破之」。武徳6年8月の即位・大修兵甲の直後に位置する記述で、公祏自身の在位期間中の出来事と読める。直後の文で他の武将派遣は「又遣其将冯惠亮屯於博望山…」と明示的に「遣」の語で区別されているのに対し、この一文では公祏自身を主語として「撃破之」としており、本人が軍を率いた親征と解釈した(ただし「自将」「親征」等の直接的な文言はなく、確度は中程度に留める)。