輔公祏は隋末に杜伏威とともに群盗から身を起こし、唐に帰順したのちに丹楊で叛いて宋と号して位に即いたが、敗れて捕らえられ、斬られた皇帝である。
輔公祏の人物データ
- 生年
- 不詳
- 在位
- 623年9月〜624年4月
- 没年
- 624年年齢不詳
- 死因
- 処刑敵や次の政権などに、公に処断された死。非業の死このサイトでは、暗殺・処刑・戦死・自害の4つをまとめて非業の死と呼んでいる。同じ死因33人/365人
- 即位経路
- 自立先の君主から位を受けず、自ら皇帝を名乗った即位。帝号を新たに称した先の君主から皇帝の号を継いだのではなく、自分の代で新たに皇帝を名乗った(王などの位から皇帝になった場合を含む)。
- 先代
- —
- 次代
- —
- 呼び名
- 姓輔諱公祏呼び名の見方
出典
- 在位
- 旧唐書 巻五十六 列伝第六(輔公祏伝)/新唐書 巻八十七 列伝第十二(輔公祏伝)/資治通鑑 巻一百九十
- 死因
- 旧唐書 巻五十六(輔公祏伝)/新唐書 列伝第十二
- 即位経路
- 旧唐書 巻五十六(輔公祏伝)/新唐書 列伝第十二
生涯
どんな皇帝か
旧唐書の史臣歴史書を編み、その中で評を述べた人は、輔公祏は兵を盗み取って叛いたと評し、節を守って殺された王雄誕と対比する。
即位まで
斉州臨済の人で、杜伏威と生死を共にする交わりを結んでいた。おばの家の羊をたびたび盗んで杜伏威に贈り、追捕が厳しくなると、二人で逃げて群盗となった。杜伏威が総管地方の軍などをまとめる長官を称すると長史長官を補佐する役人となった。海陵の趙破陣を杜伏威が宴席で斬ったときは、外で兵を固めて変に備えた。杜伏威の命で精兵を率いて長江を渡り李子通を討ち、長刀を持たせた甲士千人を先頭に立てて、退く者は斬ると令した。杜伏威とともに唐に帰順し、淮南道行台地方に置かれた朝廷の出先の役所、その長官尚書左僕射政務を執る役所の次官で、宰相にあたる高い官・舒国公とされた。杜伏威は年長の輔公祏を兄として遇し、軍中では伯と呼ばれたが、杜伏威はこれを忌んで養子の闞稜・王雄誕に兵を握らせた。輔公祏は不満を抱き、左遊仙と道を学んで穀断ちを装った。622年、杜伏威は長安へ入朝するとき輔公祏を留守とし、王雄誕に兵を握らせて、輔公祏に変を起こさせるなとひそかに言い含めた。
史料について
李子通との戦いを、輔公祏伝は輔公祏が大敗させたとし、王雄誕伝と資治通鑑は、追った輔公祏がかえって破られ、王雄誕が私兵で夜襲して勝ったとする。杜伏威の入朝を、新唐書は623年とする。
治世と最期
左遊仙が謀反を説くと、輔公祏は王雄誕の兵を奪い、杜伏威から挙兵せよとの書が来たと偽った。誘いを拒んだ王雄誕を、屈しないと見て縊り殺した。623年、丹楊で背いて位に即き、国号を宋とした。陳の故宮を修めて住み、百官朝廷のすべての役人を置いて左遊仙を兵部尚書軍事を受け持つ役所の長官とした。
唐は李孝恭・李靖を遣わした。博望山・青林山の軍が破られ、李靖の兵が先に丹楊に至ると、輔公祏は城を棄てて会稽の左遊仙のもとへ逃げようとした。常州で部将に捕らえられかけ、妻子を棄てて数十人で関を斬って逃れた。624年、武康で土地の者に捕らえられて丹楊に送られた。捕らえられると、闞稜が自分と通謀していたと誣告した。輔公祏は李孝恭に斬られ、首は長安へ送られた。
輔公祏が杜伏威の命を偽っていたため、平定後に李孝恭がその反書を奏上し、長安で急死していた杜伏威は名を除かれ、妻子を没収された。627年、太宗が冤罪と知って官爵官職と爵位を戻した。
史料について
兵を奪った経緯を、両唐書の輔公祏伝は王雄誕がたまたま病で家にいたとし、新唐書の王雄誕伝と資治通鑑は、輔公祏が偽って王雄誕に二心ありと責め、王雄誕が病と称して退いたとする。称号を、旧唐書の伝と資治通鑑は帝位とし、旧唐書の高祖本紀は宋王を僭称身分を越えて勝手に王や帝を名乗ることしたとする。捕らえ方を、旧唐書の高祖本紀は李孝恭が大破して捕らえたとする。
輔公祏とつながる皇帝

勢力図
隋末唐初の勢力図で見る
623年の地図に、輔公祏が治めた国が描かれています。
在位中の出来事
改元1
- 改元623年9月皇帝即位(改元同時)。
年表
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宋・