林士弘
楚・隋末|在位 617–622年
- 諱(本名)
- 林士弘
- 在位
- 617–622年
- 在位期間
- 5年365名中192位
- 即位経路
- 建国
- 死因
- 不詳
- 即位時年齢
- 不詳
- 没年齢
- 不詳
- 改元
- 1回332名中142位タイ
- 大赦
- 0回
- 立后
- 0回
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 1回225名中179位タイ
- 被反乱
- 1回289名中203位タイ
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
操師乞の敗死後にその衆を統べ、虔州で「南越王」を自称後、間もなく国号「楚」・元号「太平」で皇帝を僭称。他者推戴ではなく自立建国。
出典: 旧唐書 巻五十六(林士弘伝)/新唐書 列伝第十二
死因の経緯
旧唐書・新唐書・資治通鑑いずれも「会士弘死」(ちょうど士弘が死んだ)とのみ記し、死因(病・戦・処刑)への言及が一切ない。討伐軍との交戦記録もないため自然死の可能性は示唆されるが、原典に直接の根拠はなく不詳とする。
出典: 旧唐書 巻五十六(林士弘伝)/新唐書 列伝第十二/資治通鑑 巻一九〇
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
唯一の年号「太平」建元のみ確認。南越王を称した時点では独自年号の記載がなく、皇帝僭称と同時の建元と判断した。二段階即位パターンに該当するが、eraChangeとして数えられる事象は皇帝即位時の1回のみ。
大赦回数
旧唐書列傳巻五十六・新唐書列傳第十二・資治通鑑巻一九〇の林士弘関連記事を通読したが、「大赦」「大赦天下」等の記載は一切見当たらない。在位期間が短く(617-622年)、史料も簡潔なため、大赦の実施が確認できない。
立后回数
皇后冊立の記載は旧唐書・新唐書・資治通鑑いずれにも見当たらない。虔州で皇帝を僭称した後も王戎を司空に任じた等、官職任命の記事はあるが、后妃関係の記事は存在しない。
皇太子廃立回数
皇太子(またはそれに類する法定推定継承者)を立てた記載自体が見当たらず、廃立の記録もない。史料には弟の鄱陽王薬師(林薬師)が武将として登場するのみで、皇太子冊立の記載はない。
親征回数
『旧唐書』巻56林士弘伝を通読。大業十二年、操師乞の敗死後に林士弘が代わってその衆を統べ、劉子翊と彭蠡湖で交戦した記事(『士弘代董其眾、復與子翊大戰於彭蠡湖、隋師敗績』)があるが、この時点では士弘はまだ独自の国号・帝号を称しておらず(皇帝僭称・国号「楚」・建元「太平」は大業十三年の徙拠虔州以降)、自身の政権の軍としての出征とは言えないため親征には算入しなかった(reignsのstartYear=617=称帝年と整合)。即位後(617-622年)の記事では『攻陷臨川、廬陵、南康、宜春等諸郡』等の領土拡大が見えるが、士弘自身が親征したことを示す明記(『自將』等)がなく、将帥主導の可能性を排除できないため計上しなかった。武徳五年の循州攻撃は弟の鄱陽王藥師が率兵しており士弘自身の出征ではない。
反乱鎮圧回数
在位中(617-622年)に確認できる服属勢力の離反は張善安の一件のみ。武徳5年の循州攻撃(藥師率兵)は既に唐領となっていた地域への外征であり服属民の反乱鎮圧ではないため対象外、王戎の謀反(士弘死没時期)は唐に対するものであり士弘自身が鎮圧の主体ではないため対象外とした。
被反乱回数
在位中(617-622年)に武力反抗を伴う反乱として確認できるのは張善安の離反1件のみ。武徳5年の循州攻撃は既に唐領となっていた地域への士弘側からの外征でありTangとの対外戦争に該当するため対象外、王戎の謀反(士弘死没と同時期)は唐に対する挙兵(士弘復権を企図)であり士弘自身への反乱ではないため対象外とした。
遷都回数
旧唐書林士弘伝を通読。虔州での即位(建国時の定都)以後は山中避難のみで新首都樹立の記録なし。
即位時年齢・没年齢
『旧唐書』巻56(列伝第六)林士弘伝を通読したが、即位時年齢・没年齢・生年月日に関する直接記載(「時年」「年◯◯」「享年」等)は見当たらない。死去記事も「其年、洪州總管張善安密知其事、發兵討之、會士弘死」とのみで年齢情報を欠く。既存のdeathCause/accessionRouteのnoteにも年齢記載はない。関連する萧铣伝(同巻)には没年齢「年三十九」の記載があるが林士弘には対応する記載がない。
在位中の出来事(3件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
改元617年12月大業十三年(617年)、虔州に拠って自ら南越王を称した後、まもなく国号を「楚」とし皇帝を僭称、私年号「太平」を建元した(皇帝即位(改元同時))。
大業十三年(617年)、虔州に拠って自ら南越王を称した後、まもなく国号を「楚」とし皇帝を僭称、私年号「太平」を建元した(皇帝即位(改元同時))。新唐書は「遂大振、衆十余万、據虔州、自號南越王。俄僭號楚:稱皇帝、建元為太平」とし南越王→皇帝の二段階即位を明記するが、南越王在位中に独自の年号を建てた記載はなく、確認できる建元は「太平」の一度のみ。資治通鑑は「十二月、壬辰、士弘自稱皇帝、國號楚、建元太平」とし、旧唐書も「大業十三年、徙據虔州、自稱皇帝、國號楚、建元太平」とほぼ同内容。武徳5年(622年)の死去まで「太平」年号が継続使用されたとみられ、途中での再改元の記載はない。
出典: 旧唐書列傳第六(巻五十六)/新唐書列傳第十二/資治通鑑巻一九〇
反乱鎮圧日付不詳張善安の離反・豫章襲撃
首謀者: 張善安
結果: 失敗。張善安は当初林士弘に帰属していたが、士弘に不信を持たれ南塘に駐屯させられたことを恨み豫章を襲撃・城郭を焼き討ち。士弘は後に豫章を放棄し、善安がこれを占拠、唐に帰順して洪州総管に任じられた。
『旧唐書』巻56林士弘伝・張善安伝に基づく(rebellionSufferedCountと同一事象、詳細はそちらのnote参照)。
被反乱日付不詳張善安の離反・豫章襲撃
首謀者: 張善安
結果: 士弘は最終的に豫章を放棄・失陥。張善安がこれを占拠し唐に帰順して洪州総管に任じられた。
『旧唐書』巻56林士弘伝『其黨張善安保南康郡、懷貳於士弘…擊破豫章』、同巻張善安伝『因渡江、附林士弘於豫章…士弘不信之、營於南塘上。善安憾之、襲擊士弘、焚其郛郭。而士弘後去豫章、善安復來據之、仍以其地歸國、授洪州總管』に基づく。張善安は当初士弘に帰属(服属)した後に離反したため服属民の反乱として算入。正確な年月日の記載はないが、張善安伝の記述配置(王世充・輔公祏の乱の間)から武徳2-3年(619-620年)頃と推定される。suppressionCountと完全に一致(同一反乱を両面集計)。