林士弘の人物データ
- 生年
- 不詳
- 在位
- 617年1月22日〜622年旧暦年だけを書く所は、教科書・辞典と同じく、元号の年に当たる西暦の年で書いています。旧暦の年末(11・12月)は西暦では翌年の1・2月に入るので、日付の年が1つ後ろになります。 年の書き方 616年12月10日から
- 没年
- 622年年齢不詳
- 死因
- 不詳死因を書いた記録が史書に見当たらない。同じ死因31人/365人
- 即位経路
- 自立先の君主から位を受けず、自ら皇帝を名乗った即位。帝号を新たに称した先の君主から皇帝の号を継いだのではなく、自分の代で新たに皇帝を名乗った(王などの位から皇帝になった場合を含む)。
- 先代
- 操師乞林士弘と操師乞に血縁はない
- 次代
- —
- 呼び名
- 姓林諱士弘呼び名の見方
出典
- 在位
- 旧唐書 巻五十六 列伝第六(林士弘伝)/新唐書 巻八十七 列伝第十二(林士弘伝)/資治通鑑 巻一百八十三・
巻一百九十 - 死因
- 旧唐書 巻五十六(林士弘伝)/新唐書 列伝第十二/資治通鑑 巻一九〇
- 即位経路
- 旧唐書 巻五十六(林士弘伝)/新唐書 列伝第十二
生涯
即位まで
饒州鄱陽の人で、616年に同郷の操師乞とともに群盗となった。操師乞が隋の劉子翊との戦いで矢に当たって死ぬと、林士弘がその衆を率いて彭蠡湖で劉子翊を破って戦死させ、兵は十余万に達した。やがて皇帝を称して国号を楚、元号を太平とし、北は九江から南は番禺までを領した。
史料について
隋書の劉子翊伝は、劉子翊が臨川城下で賊に殺されたとし、林士弘に触れない。称帝皇帝を名乗ることを、隋書と資治通鑑は616年の末に置き、旧唐書は翌年、虔州へ移った後とする。
治世と最期
配下の張善安が背いて豫章を襲い、林士弘はやがて豫章を失った。618年、馮盎が番禺などの地をもって林士弘に付いた。
621年に蕭銑が唐に敗れた。その散兵が林士弘のもとへ集まって勢いを盛り返したが、唐の招きで循・潮の二州が降った。622年、弟の林薬師に循州を囲ませたが、林薬師は敗れた。林士弘は唐に降伏を請い、のち安城の山洞に逃れた。唐に降った旧臣の王戎に匿われて再起を謀ったが、唐の兵が出たところで林士弘は死に、その衆は散った。
史料について
豫章を取ったのを、旧唐書の林士弘伝は張善安とし、新唐書の張善安伝と資治通鑑は、襲撃の後に豫章を取ったのは蕭銑の側だとする。馮盎の件は資治通鑑にあり、旧唐書の馮盎伝は、620年に林士弘に付いた広・新二州の賊を馮盎が破ったとする。林薬師を、旧唐書は大破されたとし、新唐書と資治通鑑は斬られたとする。降伏の請いは旧唐書の伝に無い。兵を出したのを、旧唐書と新唐書は張善安、資治通鑑は若干則とする。死因は確かめた書のどれも書かない。
林士弘とつながる皇帝

勢力図
隋末唐初の勢力図で見る
616–621年の地図に、林士弘が治めた国が描かれています。
在位中の出来事
反乱1・改元1
- 改元617年1月22日(旧暦年だけを書く所は、教科書・辞典と同じく、元号の年に当たる西暦の年で書いています。旧暦の年末(11・12月)は西暦では翌年の1・2月に入るので、日付の年が1つ後ろになります。 年の書き方 616年12月10日)元号を「太平」とする
- 反乱日付不詳張善安の離反・
豫章襲撃
年表
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楚・