朱粲
楚・隋末|在位 618–621年

- 諱(本名)
- 朱粲
- 在位
- 618–621年
- 在位期間
- 2年245日365名中237位
- 即位経路
- 建国
- 死因
- 処刑
- 即位時年齢
- 不詳
- 没年齢
- 不詳
- 改元
- 1回332名中142位タイ
- 大赦
- 0回
- 立后
- 0回
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 1回112名中62位タイ
- 反乱鎮圧
- 1回225名中179位タイ
- 被反乱
- 1回289名中203位タイ
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
亳州で挙兵し「自称迦楼羅王」(皇帝ではない称号)を経て、義寧年間の勢力再建後「僭称楚帝於冠軍」、元号「昌達」を建てた。純粋な自立建国。
出典: 旧唐書 巻五十六(硃粲伝)/新唐書 列伝第十二
死因の経緯
王世充のもとへ出奔し龍驤大将軍を拝命していたが、洛陽平定に伴い捕らえられ、洛水のほとりで斬首された(「東都平,獲之,斬於洛水之上」)。
出典: 旧唐書 巻五十六(硃粲伝)/新唐書 列伝第十二
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
旧唐書列傳第六(巻五十六)・新唐書列傳第十二とも同内容の記述で一致。硃粲の在位期間中に確認できる建元は「昌達」への1回のみ。
大赦回数
旧唐書・新唐書の硃粲伝を通読したが、「大赦」「大赦天下」等の記載は見当たらない。短期間の割拠政権で恩赦記事自体が存在しない。
立后回数
硃粲伝に皇后冊立の記載はない。楚帝僭称後も皇后に関する記述は一切見られない。
皇太子廃立回数
硃粲伝に皇太子(皇太弟・皇太孫を含む)を立てた記載自体がなく、廃立の記載もない。
親征回数
旧唐書巻五十六(硃粲伝)を通読。楚帝僭称後の鄧州攻略のみを、皇帝自身が率いたと解釈できる親征として確認した。僭称迦楼羅王期(即位前、618年以前。淮水渡河・竟陵沔陽屠殺・山南掠奪等)は、reignsのstartYear(618年、楚帝僭称時点)より前の出来事であり、この人物の「皇帝としての在位」に含まれないため対象外とした。
反乱鎮圧回数
楊士林・田瓚らの離反・挙兵1件のみ確認。服属していた顕州等の首領による蜂起で、硃粲側(政権側)が防戦・鎮圧を試みたが失敗した唯一の事例。
被反乱回数
楊士林・田瓚らによる離反・挙兵1件のみ確認。鎮圧回数と同一の反乱を両面計上(原則通り)。
遷都回数
旧唐書朱粲伝を通読。冠軍での即位(建国時の定都)以後は敗走・投降のみで遷都の記録なし。
即位時年齢・没年齢
旧唐書巻五十六(硃粲伝)を通読したが、生年月日・即位時年齢・享年の直接記載(「時年」「享年」等)は見当たらなかった。既存のdeathCause/accessionRoute調査(新唐書列伝第十二も参照済み)でも年齢記載は確認されていない。調査済みだが不明として確定。
在位中の出来事(4件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
改元日付不詳冠軍県にて再挙兵し「楚帝」を僭称すると同時に「昌達」に建元。
冠軍県にて再挙兵し「楚帝」を僭称すると同時に「昌達」に建元。【皇帝即位(改元同時)】原文は「俄而収輯余衆,兵又大盛,僭称楚帝於冠軍,建元為昌達」(旧唐書)/「僭号楚帝,建元為昌達」(新唐書)。なお大業11年末に起兵し「迦楼羅王」を自称していた期間について、独自の年号を建てたとの記載は原典になく、この期間の建元はカウントしない。
出典: 旧唐書列傳第六(巻五十六・硃粲伝)
親征日付不詳鄧州
対象: 鄧州
結果: 勝利(攻略・占拠、これにより衆二十万を有するに至る)
「僭称楚帝于冠军,建元为昌达,攻陷邓州,有众二十万」(旧唐書巻五十六)。楚帝を称した直後に鄧州を攻略した記事で、主語は一貫して硃粲本人であり別の将軍名は登場しないため、本人が率いた軍事行動と判断した。
反乱鎮圧日付不詳顕州首領楊士林・田瓚の離反(諸州響応)
首謀者: 楊士林・田瓚
結果: 鎮圧失敗(淮源の戦いで敗北、菊潭県へ敗走後、政権崩壊)
「诸城惧税,皆相携逃散。显州首领杨士林、田瓚率兵以背粲,诸州响应,相聚而攻之,大战于淮源。粲败,以数千兵奔于菊潭县」(旧唐書巻五十六)。硃粲自身が敗走した経緯から本人が交戦の当事者であったと判断。鎮圧を試みたが失敗し、そのまま政権崩壊(唐への降伏申し出、のち王世充へ出奔)に至ったケースとして鎮圧側にも計上した。
被反乱日付不詳顕州首領楊士林・田瓚の離反(諸州響応)
首謀者: 楊士林・田瓚
結果: 淮源の戦いで敗北、菊潭県へ敗走し唐へ降伏を申し出るも段確に侮辱され、王世充へ出奔(実質的に政権崩壊)
服属していた顕州等の首領が離反・挙兵し、周辺諸州もこれに呼応、淮源で大規模な戦闘となった。鎮圧側と同一の反乱1件のみを計上。義寧中の馬元規による討伐は、硃粲が皇帝を称する以前(迦楼羅王僭称期)の出来事であり、かつ隋朝の官軍による討伐(服属民の反乱ではなく硃粲側が反乱者にあたる)のため対象外とした。