本文へスキップ

朱粲の肖像画

楚・朱粲(隋末)第1代

朱粲

在位 618–619年(201日)618年11月 〜 619年5月21日

日本は飛鳥時代

朱粲は隋末の群盗から楚帝を称し、人を食う軍を率いて各地を荒らした末、洛水のほとりで斬られた人物である。

朱粲の人物データ

生年
不詳
在位
  • 迦楼羅王615年〜618年
  • 皇帝618年11月〜619年5月21日
201日長い順313位/365人皇帝になった年齢は不詳619年に在位を終え、2年後の621年に没
没年
621年6月5日年齢不詳
死因
同じ死因33人/365人
即位経路
先代
—
次代
—
呼び名
姓朱諱粲呼び名の見方

出典

在位
旧唐書 巻五十六 列伝第六(硃粲伝)/新唐書 巻八十七 列伝第十二(硃粲伝)/資治通鑑 巻一百八十六・巻一百八十七・巻一百八十九
死因
旧唐書 巻五十六(硃粲伝)/新唐書 列伝第十二
即位経路
旧唐書 巻五十六(硃粲伝)/新唐書 列伝第十二

生涯

即位まで

亳州城父の人で、はじめ県の佐史だった。大業の末に長白山の賊の討伐に従軍したが、そのまま群盗となって可達寒賊と号し、迦楼羅王を自称して衆は十余万に至った。のちの馬元規に破られたが、衆を集め直して冠軍で楚帝を称し、昌達とした。

史料について

楚帝の称号を、資治通鑑は618年に置き、隋書の煬帝紀は大業十一年の末に記す。新唐書は、楚帝を称したのを馬元規に敗れる前とする。

治世と最期

続いて鄧州を攻めた。南陽を守る呂子臧は降伏を拒んで敵中に突入して死に、城は陥って馬元規も殺された。朱粲の軍は州県の蓄えを食い尽くしては移り、農耕をせず略奪を業としたので、民は飢えて人が相食んだ。奪う物が尽きると、婦人や子を煮て兵に食わせ、人肉ほど美味なものは無いと言い、諸城から幼い男女を税として取り立てた。賓客に迎えた隋の陸従典と顔愍楚も、のちに飢えると一家ごと食われた。

顕州の首領の楊士林らが背くと、朱粲は敗れて菊潭へ逃れ、唐に使者を送って降伏を請うた。619年、慰労に来た唐の段確が酔って人の味を問うと、朱粲は、酒好きの人なら糟漬けの豚のようだと答えた。段確が、お前など入朝すればただの奴僕だと罵ると、朱粲は懼れて段確と従者数十人を捕らえ、王世充のもとへ奔った。621年、唐が洛陽を平定すると捕らえられ、洛水のほとりで斬られた。人々はその残忍を憎んで屍に瓦礫を投げつけ、たちまち塚のようになった。

史料について

人を食わせた場面を、旧唐書の伝は朱粲が自ら嬰児を蒸して食ったとし、資治通鑑は士卒に教えて煮て食わせたとする。降伏を請うた朱粲を、資治通鑑は唐が楚王としたとし、旧唐書の伝は書かない。段確らを、新唐書と資治通鑑は煮て左右に食わせたとし、旧唐書の伝は殺したとは書かないが、高祖本紀は殺したとする。

朱粲とつながる皇帝

隋末唐初の勢力図(618年)

勢力図

隋末唐初の勢力図で見る

618年の地図に、朱粲が治めた国が描かれています。

在位中の出来事

反乱1・親征1・改元1
  1. 改元日付不詳元号を「昌達」とする
  2. 日付不詳鄧州
  3. 反乱日付不詳顕州首領楊士林・田瓚の離反(諸州響応)

年表

隋末の時代を年表で見る

楚・朱粲が中国史のどこにあたるか、同じ時代の王朝と前後の時代を並べて見られます。

即位経路が「自立」の48名をデータベースで見る

収録基準・各項目の数え方・出典はこのサイトについてを、ほかの皇帝は皇帝一覧をご覧ください。