梁師都は隋末に朔方で挙兵して梁の皇帝を名乗り、突厥に頼って唐に抗い続けたが、最後は従弟に斬られた皇帝である。
梁師都の人物データ
- 生年
- 不詳
- 在位
- 617年4月〜628年6月3日
- 没年
- 628年6月3日年齢不詳
- 死因
- 暗殺同じ政権の中の家臣・皇族・宦官などに殺された死。毒殺も含む。非業の死このサイトでは、暗殺・処刑・戦死・自害の4つをまとめて非業の死と呼んでいる。同じ死因92人/365人
- 即位経路
- 自立先の君主から位を受けず、自ら皇帝を名乗った即位。帝号を新たに称した先の君主から皇帝の号を継いだのではなく、自分の代で新たに皇帝を名乗った(王などの位から皇帝になった場合を含む)。
- 先代
- —
- 次代
- —
- 呼び名
- 姓梁諱師都呼び名の見方
出典
- 在位
- 旧唐書 巻五十六 蕭銑・
杜伏威等列傳(梁師都)/資治通鑑 巻一百八十三(隋紀七・ 義寧元年)・ 巻一百九十二(唐紀八・ 貞觀二年) - 死因
- 旧唐書 巻五十六(蕭銑・
杜伏威等列伝)/新唐書 太宗本紀 貞観二年四月条 - 即位経路
- 旧唐書 巻五十六(蕭銑・
杜伏威等列伝)
生涯
どんな皇帝か
旧唐書の史臣歴史書を編み、その中で評を述べた人は、梁師都を凶人と呼び、滅亡に至るまでまったく悔い改めなかったと評する。
即位まで
代々朔方の豪族で、隋に仕えて鷹揚郎将隋の兵の部隊を率いた武官となったが、大業の末に職を退いて帰郷した。盗賊の蜂起に乗じて数千人を集め、617年、節を守って従わない郡丞の唐宗を殺して郡に拠り、北の突厥と結んだ。周りの郡を攻め取って皇帝の位に即き、国を梁と称した。突厥の始畢可汗は狼頭の旗を贈って可汗北方の遊牧民の君主の称号の号を与え、解事天子と呼んだ。
史料について
郡丞を、資治通鑑と新唐書は唐世宗と書く。新唐書は、天を祭り、地に穴を掘って玉を埋め、印を得て瑞祥良いことが起こる前ぶれとされたしるしとしたと書く。解事天子の語は旧唐書の伝に無い。
治世と最期
突厥を引き入れて塩川郡を破った。619年、唐の使者の靳孝謨を捕らえ、罵られると殺した。同じ年、突厥とともに延安を攻めたが、唐の段徳操に大敗した。劉武周が敗れ、自らの大将の張挙・劉旻が相次いで唐に降ると恐れ、使者に、次は可汗に及ぶ、師都が先導すると突厥の処羅可汗を説かせたが、処羅の死で出兵はやんだ。
降ってきた稽胡の大帥劉仚成を讒言を信じて殺し、そのため多くの者が背いて唐に降った。勢いが衰えると、自ら頡利可汗に朝して入寇の計を説き、以後突厥の寇が続いた。
太宗は書簡で諭したが梁師都は従わず、太宗は夏州の劉旻らを遣わし、反間敵の中に仲たがいを起こさせる計略で君臣を疑わせ、作物を踏み荒らさせた。628年、頡利可汗が梁師都と契丹の交換を求めると、太宗は、久しからず捕らえ滅ぼせる、契丹と交換は決してしないと拒んだ。同じ年、唐の柴紹が援軍の突厥を破って城下に進み、城中の食が尽きると、従父弟の梁洛仁が梁師都を殺して降った。
史料について
梁洛仁を、旧唐書と新唐書の李道宗伝は弟と書く。
梁師都とつながる皇帝

勢力図
隋末唐初の勢力図で見る
617–627年の地図に、梁師都が治めた国が描かれています。
在位中の出来事
親征3・改元1
- 改元617年元号を「永隆」とする
- 親征皇帝が自ら軍を率いて戦場に出ること。617年塩川郡(隋領、対外拡張)
- 親征皇帝が自ら軍を率いて戦場に出ること。619年唐・
延安(段徳操軍) - 親征皇帝が自ら軍を率いて戦場に出ること。619–620年唐・
延安方面(段徳操軍)
年表
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梁・