梁師都
梁・隋末|在位 618–628年
- 諱(本名)
- 梁師都
- 在位
- 618–628年
- 在位期間
- 10年90日365名中133位
- 即位経路
- 建国
- 死因
- 暗殺
- 即位時年齢
- 不詳
- 没年齢
- 不詳
- 改元
- 1回332名中142位タイ
- 大赦
- 0回
- 立后
- 0回
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 3回112名中24位タイ
- 反乱鎮圧
- 0回
- 被反乱
- 0回
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
郡丞を殺して挙兵、大丞相を自称し突厥と連兵後「僭即皇帝位」、国号「梁」、元号「永隆」を建てた。即位後に突厥から「大度毗伽可汗・解事天子」の号を追加で受けている。
出典: 旧唐書 巻五十六(蕭銑・杜伏威等列伝)
死因の経緯
唐軍(柴紹)の攻勢で劣勢の中、従父弟の梁洛仁が師都を斬殺し、その首を持って柴紹に降伏。同一政権内部の血縁者による謀殺。洛仁は殺害の功により唐から右驍衛将軍・朔方郡公に任ぜられた。
出典: 旧唐書 巻五十六(蕭銑・杜伏威等列伝)/新唐書 太宗本紀 貞観二年四月条
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
梁師都は挙兵時(大業末)はまだ「大丞相」を称するのみで独自の年号は立てず、皇帝僭称と同時に「永隆」を建元しているため、2段階即位パターンではなく単一の改元とみなした。在位中(618年頃〜628年3月)に別の年号へ改元した記事は原典に見られないため、改元回数は1回のみ。ただし即位の正確な年月日は原典に明記されておらず、confidenceはmediumとした。
大赦回数
旧唐書巻五十六(列伝六)・新唐書巻八十七(列伝十三)の梁師都伝を通読したが、梁師都政権による「大赦」「大赦天下」の記事は見当たらない。旧唐書太宗本紀貞観二年三月庚午条に「以旱蝗責躬、大赦」とあるが、これは唐朝廷(太宗)による大赦であり梁師都自身の治世の出来事ではないため対象外とした。
立后回数
梁師都伝に皇后冊立に関する記載は一切ない。妻の存在自体も原典に言及がない。
皇太子廃立回数
梁師都伝に皇太子(太子)冊立・廃立に関する記載は一切ない。梁師都は12年間の在位中、後継者を立てた形跡が原典に見られない。
親征回数
旧唐書巻五十六梁師都伝を通読。皇帝僭称・建元(618年頃)の直後に「師都乃引突厥居河南之地、攻破塩川郡」とあり師都自ら突厥兵を率いて塩川郡(隋領)を攻略しており親征1回目とした(それ以前の「遣兵掠定雕陰・弘化・延安等郡」は『遣兵』であり本人不出陣のため対象外)。武徳2年(619年)に「師都與突厥之衆数千騎来寇延安、営於野猪嶺」「師都與礼酣戦久之」と師都自身が突厥兵を率いて唐の延安を攻めたが唐将段徳操に大敗(親征2回目)。その数ヶ月後「師都又以歩騎五千来寇、徳操撃之、俘斬略尽」と再度(別機会に)師都主語のまま延安方面へ来寇した記事があり、文脈上師都自身の再出陣とみなし親征3回目とした(ただし3回目は『師都親率』と明記されていないため確度はmediumとした)。以後の頡利可汗による渭橋侵寇等は師都の献策によるものだが師都自身が出陣した記載はなく対象外。
反乱鎮圧回数
旧唐書巻五十六梁師都伝を通読。師都政権内部で武装蜂起が発生した記事は見当たらない。稽胡大帥劉仚成は師都に投降していた人物であり(『稽胡大帥劉仚成率衆降師都』)、師都が讒言を信じて先制的に誅殺した事例(皇帝側が攻撃主体で相手はまだ反乱していない、除外パターン3に該当)であり反乱鎮圧には該当しない。李正宝・辛獠児による師都捕縛の謀議も『事泄不果』(発覚のみで挙兵に至らず)のため対象外。
被反乱回数
同伝を通読。劉仚成誅殺後『群情疑懼、多叛師都来降』とあるが、これは唐側への投降・離反(人心離反)であり師都に対する武装反乱ではないため対象外。李正宝・辛獠児の捕縛謀議は挙兵前に発覚し不発(除外規定:兵力行使に至らない謀反計画)。最終的に従父弟の梁洛仁が師都を斬殺し柴紹に降伏した件(deathCauseで『暗殺』認定済み)は、単独の血縁者による謀殺であり、組織的な兵力を伴う集団蜂起・クーデターの記述が原文になく、朝廷内クーデター(除外パターン4)の要件を満たさない単独犯行に近いため被反乱としては計上しなかった。
遷都回数
旧唐書梁師都伝を通読。終始朔方(夏州)が都、遷都の記録なし。
即位時年齢・没年齢
旧唐書巻五十六(列伝六)梁師都伝を通読したが、生年・即位時年齢・崩御時年齢について「時年」「年◯◯」「享年」等の直接記載は見当たらなかった(同巻の萧铣伝には「年三十九」の記載があるが別人物)。deathCause/reignsで既に確定済みの崩御日(貞観二年三月二十八日=628年4月26日、堂弟梁洛仁による斬殺)をdeathDateとして転記したが、年齢自体は不明のため調査済み・判明せずとして確定する。
在位中の出来事(4件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
改元618年大業末(617年)に郡丞唐世宗を殺して挙兵し「大丞相」を自称(この段階では独自の年号は確認できない)、その後雕陰・弘化・延安等を略定した上で「僭即皇帝位、稱梁國、建元為永隆」と皇帝を僭称すると同時に建元。
大業末(617年)に郡丞唐世宗を殺して挙兵し「大丞相」を自称(この段階では独自の年号は確認できない)、その後雕陰・弘化・延安等を略定した上で「僭即皇帝位、稱梁國、建元為永隆」と皇帝を僭称すると同時に建元。突厥始畢可汗より「大度毗伽可汗・解事天子」の号も贈られた。【皇帝即位(改元同時)】。旧唐書・新唐書列伝とも即位・建元の具体的な年月日は明記していないため、ユーザー提供の既知情報(618年)に基づき年のみ記載。
出典: 旧唐書巻五十六(列伝六)梁師都伝/新唐書巻八十七(列伝十三)梁師都伝
親征618年塩川郡(隋領、対外拡張)
対象: 塩川郡(隋領、対外拡張)
結果: 攻略成功
皇帝僭称・建元直後、突厥兵を率いて河南地に進出し塩川郡を攻破。
親征619年唐・延安(段徳操軍)
対象: 唐・延安(段徳操軍)
結果: 大敗(逐北二百余里、虜男女二百余口)
武徳2年、突厥数千騎と共に延安に来寇し野猪嶺に営したが、段徳操の伏兵に大敗。
親征619年〜620年唐・延安方面(段徳操軍)
対象: 唐・延安方面(段徳操軍)
結果: 大敗(俘斬略尽)
前回敗戦の数ヶ月後、歩騎五千を率いて再度来寇したが段徳操に撃破され、ほぼ全滅。