劉武周
定楊(隋末)|在位 617–622年

- 諱(本名)
- 劉武周
- 在位
- 617–622年
- 在位期間
- 5年210日365名中178位
- 即位経路
- 建国
- 死因
- 処刑
- 即位時年齢
- 不詳
- 没年齢
- 不詳
- 改元
- 1回332名中142位タイ
- 大赦
- 0回
- 立后
- 1回204名中52位タイ
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 2回112名中41位タイ
- 反乱鎮圧
- 0回
- 被反乱
- 0回
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
突厥・始畢可汗から先に「定楊可汗」の号を受け、その上で「因僭称皇帝」。国号「大漢」、元号「天興」を建て百官を置いた。
出典: 旧唐書 巻五十五(薛挙・李軌・劉武周列伝)
死因の経緯
宋金剛敗北後、并州を放棄し突厥へ亡命。その後「又欲謀帰馬邑」を図るも発覚し、庇護元の突厥に殺害された(「為突厥所殺」)。実行主体は唐ではなく突厥。服属先権力による、発覚した離反企図への公的な処断のため処刑と判定。
出典: 旧唐書 巻五十五(薛挙・李軌・劉武周列伝)/新唐書 劉武周伝
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
確認できる元号は「天興」の一度のみ。可汗号授与自体は改元を伴わないため、皇帝即位に伴う建元1回のみをカウント。
大赦回数
旧唐書・新唐書いずれの劉武周伝にも「大赦」「大赦天下」等の記載は見当たらない。定楊政権下での恩赦の記録は確認できなかった。
立后回数
再冊立・廃后の記載はなく、皇后は沮氏の一度のみ確認。
皇太子廃立回数
劉武周伝中に皇太子(皇太弟等を含む)を立てた記載自体がなく、廃立の記載も存在しない。子への言及もない。
親征回数
皇帝僭称前後を通じ、武周自身が軍を率いて戦場に赴いたと明記される事例は2件。それ以外(宋金剛への并州侵攻の委任「武周授金剛西南道大行台,令率兵二万人侵并州」、太宗対宋金剛の柏壁・美良川・雀鼠谷・介州の一連の戦い)はいずれも武周本人ではなく将軍宋金剛が主体であり、本人不出陣のため除外した。最終的な突厥への敗走(「率五百騎棄并州北走」)は退却行動であり親征に該当しない。
反乱鎮圧回数
旧唐書劉武周伝を通読したが、武周自身の政権内部で発生した反乱を武周側が鎮圧した事例は見当たらない。対隋・対唐の軍事衝突はいずれも独立政権間の抗争(統一戦争)であり、鎮圧の定義(皇帝統治下の勢力による蜂起への対応)には該当しない。
被反乱回数
旧唐書劉武周伝を通読したが、武周自身の政権(定楊/大漢)内部の臣下・服属民による武装反乱の記述は見当たらない。武周が直面した軍事的脅威(隋の陳孝意・王智辯、唐の太宗)はいずれも対等・上位の独立政権(隋朝廷・唐朝)との統一戦争・服属先政権への抗争であり、被反乱の定義(皇帝統治下の勢力による蜂起)に該当しない。将領(尉遅敬德・尋相・張萬歳ら)の唐への投降は敗戦に伴う離反・降伏であり、武装蜂起(挙兵)を伴う反乱には当たらないため計上しない。最終的な突厥による処刑は謀反企図の摘発による処断であり、組織的な兵力を伴う弑逆・クーデターではないため対象外(deathCauseで別途「処刑」として記録済み)。
遷都回数
旧唐書劉武周伝を通読。馬邑で即位、太原占拠も正式な定都の明記なし、遷都に該当せず。
即位時年齢・没年齢
旧唐書巻五十五(薛挙・李軌・劉武周列伝)の劉武周伝を精読したが、生年月日・即位時年齢・享年の直接記載(「時年」「享年」等)は見当たらなかった。「武周自初起至死,凡六載」(挙兵から死まで6年)という在位期間の記述はあるが、年齢に関する情報ではない。関連する誕生譚(父匡の逸話)にも年齢の記載はない。無関係な列伝への探索は行わず、調査済みだが不明として確定する。
在位中の出来事(4件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
改元617年【皇帝即位(改元同時)】突厥から冊封された「定楊可汗」号(可汗号であり漢式の元号を伴わない)とは別に、自ら皇帝を僭称した際に初めて建元し「天興」とした。
【皇帝即位(改元同時)】突厥から冊封された「定楊可汗」号(可汗号であり漢式の元号を伴わない)とは別に、自ら皇帝を僭称した際に初めて建元し「天興」とした。旧唐書「因僭稱皇帝,以妻沮氏為皇后,建元為天興」、新唐書「僭稱皇帝,以妻沮為后,建元天興」、資治通鑑(義寧元年三月条)「武周即皇帝位,立妻沮氏為皇后,改元天興」で一致。在位期間中(皇帝即位後)に別の元号への改元があった記載はない。
出典: 旧唐書列傳第五(巻五十五・薛舉李軌劉武周列伝)
立后617年突厥の始畢可汗から「定楊可汗」に冊封された後、自ら皇帝を僭称すると同時に妻沮氏を皇后に立てた。
突厥の始畢可汗から「定楊可汗」に冊封された後、自ら皇帝を僭称すると同時に妻沮氏を皇后に立てた。旧唐書「因僭称皇帝,以妻沮氏為皇后,建元為天興」、新唐書「僭称皇帝,以妻沮為后,建元天興」、資治通鑑(義寧元年三月条)「武周即皇帝位,立妻沮氏為皇后,改元天興」といずれも即位・立后・建元がほぼ同時の記事として一致して記載。日付は年精度まで(義寧元年三月頃)。
出典: 旧唐書列傳第五(巻五十五・薛舉李軌劉武周列伝)
親征617年陳孝意・王智辯(隋、桑乾鎮〜楼煩郡・汾陽宮・定襄)
対象: 陳孝意・王智辯(隋、桑乾鎮〜楼煩郡・汾陽宮・定襄)
結果: 勝利。隋の雁門郡丞陳孝意・虎賁将王智辯が桑乾鎮を包囲した際、突厥の援軍と共に武周自身が智辯を撃破し隋軍を敗走させた(「与武周共撃智辯、隋師敗績」)。孝意は雁門に逃げ帰るも部下に殺され城は武周に降伏。続けて一連の攻勢として楼煩郡を破り汾陽宮を奪取、定襄も攻略した上で馬邑に帰還。この直後、突厥より定楊可汗に冊封され、自ら皇帝を僭称した。
旧唐書列傳第五(巻五十五)に基づく。即位(皇帝僭称)前の挙兵直後の一連の軍事行動だが、reigns.startYear=617に含まれる期間であり、他の隋末群雄(例: 劉淵)の判定同様、自立過程の軍事行動として親征に算入した。
親征620年李仲文(浩州)
対象: 李仲文(浩州)
結果: 敗北。「武周復攻李仲文於浩州,頻戦皆敗」とあり、武周自身が再度浩州の李仲文を攻めたが度重なる交戦にことごとく敗れ、加えて糧秣輸送が続かず軍中が飢餓に陥り、これが宋金剛の退却(雀鼠谷での太宗による追撃・大敗につながる)の一因となった。
旧唐書列傳第五(巻五十五)。この場面の主力戦線は宋金剛が太宗と柏壁で対峙していたが、当該一文は主語が明示的に「武周」であり宋金剛ではないため、武周自身が別働で浩州の李仲文を攻めたものと解した(確度medium)。