
劉武周は隋末に馬邑で挙兵し、突厥に定楊可汗とされて皇帝を称し、一時は太原を取ったが、唐に敗れて逃げた突厥で殺された皇帝である。
劉武周の人物データ
- 生年
- 不詳
- 在位
- 617年〜622年8月28日
- 没年
- 622年年齢不詳
- 死因
- 処刑敵や次の政権などに、公に処断された死。非業の死このサイトでは、暗殺・処刑・戦死・自害の4つをまとめて非業の死と呼んでいる。同じ死因33人/365人
- 即位経路
- 自立先の君主から位を受けず、自ら皇帝を名乗った即位。帝号を新たに称した先の君主から皇帝の号を継いだのではなく、自分の代で新たに皇帝を名乗った(王などの位から皇帝になった場合を含む)。
- 先代
- —
- 次代
- —
- 呼び名
- 姓劉諱武周呼び名の見方
出典
- 在位
- 旧唐書 巻五十五 薛挙・
李軌・ 劉武周列傳(劉武周)/新唐書 巻一 本紀第一(高祖)/旧唐書 巻一 高祖本紀 - 死因
- 旧唐書 巻五十五(薛挙・
李軌・ 劉武周列伝)/新唐書 劉武周伝 - 即位経路
- 旧唐書 巻五十五(薛挙・
李軌・ 劉武周列伝)
生涯
どんな皇帝か
旧唐書の史臣歴史書を編み、その中で評を述べた人は、はじめは鼠のようなこそ泥で、たまたま勢いを振るったが、ついに突厥に殺されたと評する。
即位まで
河間景城の人で、父が馬邑に移り住んだ。勇猛で弓が巧く、侠客と交わった。兄の山伯は、付き合う相手を選ばない武周をたびたび罵り、いずれ一族を滅ぼすと戒めた。武周は家を出て隋の遼東遠征に応募し、建節校尉隋の武官の位の一つを授かった。馬邑太守郡を治める長官の王仁恭に厚遇されたが、その侍女と私通して発覚を恐れ、天下の乱れを見て異心を抱いた。太守は倉を閉じて民を救わないと言いふらして、衆を怒らせた。617年、武周が謁見した隙に、仲間の張萬歳が後ろから入って王仁恭を斬った。武周は倉を開いて窮民に施し、太守を名乗って突厥に従った。突厥とともに隋の王智辯を破り、さらに汾陽宮を取った。突厥から定楊可汗とされると、皇帝を称して天興と建元元号を新しく立てること。またその名の元号した。
史料について
怒ったのを、新唐書は軍とする。資治通鑑は地の文でも、王仁恭が賄賂を取って民を救えなかったとする。
治世と最期
妹の夫の苑君璋を内史令皇帝の命令の文を作る役所の長官とした。敗れて身を寄せた宋金剛を宋王として軍事を委ね、家産を半分分け与えた。苑君璋は南へ出ず突厥とも唐とも結ぶよう説いたが、武周は聞かなかった。619年、宋金剛が唐軍を破り、斉王元吉が晋陽を棄てて逃げると、武周が太原に拠った。
620年、宋金剛は雀鼠谷で李世民に敗れ、介州でも敗れて、尉遅敬徳らが唐に降った。武周は大いに恐れて并州を棄て、突厥に逃げ込んだ。敗れてから、苑君璋の言を用いなかったことが恨めしいと泣いた。馬邑へ帰ろうと謀って発覚し、突厥に殺された。
史料について
太原を取った経過を、資治通鑑は、元吉が夜に長安へ逃げ、晋陽の土豪薛深が城を明け渡したとする。死んだ年を、旧唐書の高祖本紀は620年とし、新唐書の高祖本紀は622年とする。旧唐書の伝が挙兵から死までとする6年は、622年と合う。

勢力図
隋末唐初の勢力図で見る
617–619年の地図に、劉武周が治めた国が描かれています。
在位中の出来事
親征2・皇后1・改元1
- 改元617年元号を「天興」とする
- 皇后617年皇后を立てる
- 親征皇帝が自ら軍を率いて戦場に出ること。617年陳孝意・
王智辯(隋、桑乾鎮〜楼煩郡・ 汾陽宮・ 定襄) - 親征皇帝が自ら軍を率いて戦場に出ること。620年李仲文(浩州)
年表
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定楊が