薛挙は隋末に金城で挙兵して西秦霸王を称し、のち皇帝を名乗って唐の軍を破ったが、長安へ向かう直前に病んで死んだ皇帝である。
薛挙の人物データ
- 生年
- 不詳
- 在位
- 617年8月〜618年9月4日
- 没年
- 618年9月4日年齢不詳
- 死因
- 病死病気や老衰による死。同じ死因169人/365人
- 即位経路
- 自立先の君主から位を受けず、自ら皇帝を名乗った即位。帝号を新たに称した先の君主から皇帝の号を継いだのではなく、自分の代で新たに皇帝を名乗った(王などの位から皇帝になった場合を含む)。
- 先代
- —
- 次代
- 薛仁杲秦・
西秦 薛仁杲は薛挙の子
- 薛仁杲秦・
- 呼び名
- 姓薛諱挙諡号武皇帝呼び名の見方
- 目立つ記録
- 遷都 1回多い順同率9位
出典
- 在位
- 旧唐書 巻五十五 薛挙・
李軌・ 劉武周列傳(薛挙)/旧唐書 巻一 高祖本紀 - 死因
- 旧唐書 巻五十五(薛挙・
李軌・ 劉武周列伝) - 即位経路
- 旧唐書 巻五十五(薛挙・
李軌・ 劉武周列伝)
生涯
どんな皇帝か
旧唐書の史臣歴史書を編み、その中で評を述べた人は、薛挙父子は勇悍絶倫で殺を好み、仁杲がとりわけ甚だしかったとして、恩が無く衆に背かれては猛くても何になろうと評する。
即位まで
河東汾陰の人で、父が金城に移り住み、家産は巨万で、辺境の顔役たちと交わり、金城府校尉軍の部隊や護衛に就く武官の呼び名となった。容貌が堂々として弓に長じ、武勇は並ぶ者がなかった。617年、金城令の郝瑗から討伐の兵を委ねられると、子の薛仁杲らと酒宴の席で郝瑗を捕らえ、官吏を囚えて倉を開き、西秦霸王と称して秦興と建元元号を新しく立てること。またその名の元号した。隋将の皇甫綰と赤岸で対陣し、風向きが変わって相手の陣が乱れると、真っ先に馬を駆って突入して大破した。やがて帝号皇帝という称号を称し、妻の鞠氏を皇后とした。
史料について
帝号を称した時期を、旧唐書の伝は617年の秋、隋書の恭帝紀はその年の暮れとし、資治通鑑の考異は唐高祖実録の618年とする説を退ける。
治世と最期
扶風で李世民に敗れると、群臣に天子が降った例はあるかと問い、郝瑗が一度の敗北で亡国の計を立てるなと諫めると悔いて、試しただけだと答え、郝瑗を謀主とした。捕らえた唐の劉世讓に城へ偽りの降伏勧告をさせると、劉世讓は承知したふりをして城に守りを固めよと告げたが、薛挙はその節義を重んじて殺さなかった。捕虜を皆殺しにし、舌を断ち鼻を割き、妻も酷暴だったので人心が付かなかった。子の仁杲には、才略は家の事を成すに足るが、苛酷で恩が無く、やがて宗廟君主や王家が祖先をまつるところを覆すだろうと常に戒めていた。
618年、李世民が病んでいたとき、備えを怠った劉文静らの唐軍を背後から突いて大きな損害を与えた。郝瑗の勧めで勝ちに乗じて長安を取ろうとしたが、出発の直前に病み、巫が唐兵の祟りだと言うのを嫌ううちに、まもなく死んだ。
史料について
新唐書は、舌と鼻の件と妻の凶暴を子の仁杲の段に置き、薛挙自身も残猛だったが仁杲の虐を憎んで戒めたとする。資治通鑑は巫の話を載せず、新唐書の高祖本紀とともに死んだ日を旧唐書の高祖本紀より一日早く置く。旧唐書の太宗本紀はさらに後に置く。
薛挙とつながる皇帝

勢力図
隋末唐初の勢力図で見る
617年の地図に、薛挙が治めた国が描かれています。
在位中の出来事
遷都1・親征2・皇后1
- 親征皇帝が自ら軍を率いて戦場に出ること。617年隋将・
皇甫綰(枹罕方面の隋軍) - 遷都617年蘭州 → 秦州
- 皇后617年8月薛擧が蘭州で皇帝を僭称した際、妻の鞠氏を皇后に、母を皇太后に立てた。
- 親征皇帝が自ら軍を率いて戦場に出ること。618年唐(豊州総管張長遜・
太宗配下の劉文静ら、高墌方面)
秦・西秦の歴代皇帝
歴代2人の一覧- 第1代薛挙617–618年病死
- 第2代薛仁杲618年処刑
年表
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秦・