薛挙
秦・西秦(隋末)|在位 617–618年
- 諱(本名)
- 薛挙
- 在位
- 617–618年
- 在位期間
- 1年30日365名中291位タイ
- 即位経路
- 建国
- 死因
- 病死
- 即位時年齢
- 不詳
- 没年齢
- 不詳
- 改元
- 1回332名中142位タイ
- 大赦
- 0回
- 立后
- 1回204名中52位タイ
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 2回112名中41位タイ
- 反乱鎮圧
- 0回
- 被反乱
- 0回
- 遷都
- 1回45名中12位タイ
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
金城で挙兵し「自称西秦覇王」を称した後、蘭州で正式に皇帝を僭称。妻を皇后、母を皇太后に立て、陵邑・宗廟を築くなど帝制を整備した純粋な自立建国。
出典: 旧唐書 巻五十五(薛挙・李軌・劉武周列伝)
死因の経緯
唐軍を破り長安進撃を決した直後、出発前に発病。巫に占わせ「唐兵為祟」との言に不快感を示し、まもなく死去。具体的な病名の記載はない。
出典: 旧唐書 巻五十五(薛挙・李軌・劉武周列伝)
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
薛擧は大業十三年四月に「西秦霸王」を称して挙兵すると同時に「秦興」と建元し(『隋書』煬帝紀下)、同年七月に蘭州で皇帝を僭称した(『旧唐書』巻五十五、『新唐書』薛擧伝)。しかし皇帝即位の際に別の年号へ改元したとの記述はいずれの原典にもなく、「秦興」がそのまま用いられ続けたと判断されるため、改元回数は建元1回のみとする。武德元年(618年)八月に病死するまで在位。
大赦回数
『旧唐書』巻五十五(薛擧・李軌・劉武周列傳)の薛擧伝本文、『新唐書』薛擧伝、『隋書』煬帝紀の薛擧関連記事のいずれにも「大赦」「大赦天下」等の全国規模恩赦の記述は見当たらない。ただし薛擧は皇帝を僭称してから武徳元年8月の病死までわずか1年程度と在位期間が短く、また薛擧自身は列傳(本紀ではなく他者の伝の一部)としてしか記録されないため、行政記事(大赦等)が省略されている可能性があり、史料の記述密度自体が低い点には留意が必要。現存する原典の範囲では大赦の記録は確認できないため0回とする。
立后回数
『旧唐書』巻五十五・『新唐書』薛擧伝ともに、皇帝僭称と同時(大業十三年七月)の一度きりの立后記事のみで、他に立后関連の記述はない。
皇太子廃立回数
『新唐書』薛擧伝に「十三年、僭帝号於蘭州、以妻鞠為后、仁杲為太子」とあり、皇帝僭称と同時に長子の薛仁杲を皇太子に立てたことが確認できる(『旧唐書』本文には仁杲=太子の明記はないが、仁杲が薛擧の死後そのまま後を継ぎ「代董其衆」「立於折墌城」と続いていることと符合する)。薛擧の在位中(大業十三年七月頃〜武德元年八月病死まで)に仁杲が廃されたとする記述は『旧唐書』『新唐書』のいずれにも存在せず、仁杲は薛擧の死後そのまま後を継承している。したがって皇太子廃立は0回。
親征回数
皇帝自身(覇王僭称後を含む)が軍を率いて出陣した事例のみを親征としてカウント。将軍への派遣のみ(常仲興の李軌討伐、仁杲による秦州・扶風・寧州方面の作戦等)は薛挙自身の出陣ではないため含めない。
反乱鎮圧回数
『旧唐書』巻五十五(薛挙伝)本文には、薛挙の政権内部で発生した武装反乱・離反の記述は見当たらない。汧源の賊帥唐弼は薛挙に帰順した後に仁杲に急襲され滅ぼされているが、これは薛挙側からの一方的な奇襲であり唐弼が薛挙に反旗を翻したわけではないため反乱鎮圧には該当しない。
被反乱回数
『旧唐書』巻五十五本文の範囲では、薛挙の在位中(大業十三年七月の皇帝僭称〜武徳元年八月の病死まで)に自身の政権に対して武装反乱が起こされた記述は確認できない。将の常仲興が李軌に敗れ全軍が李軌に降ったという記事はあるが、これは薛挙配下の対外遠征軍の敗北・投降であり、薛挙政権内部からの反乱ではない。仁杲即位後の内部不和(「与诸将帅素多有隙」)は薛挙死後の出来事であり本人には該当しない。
遷都回数
在位中に遷都1回(0617年 蘭州→秦州)。
即位時年齢・没年齢
『旧唐書』巻五十五(薛挙・李軌・劉武周列伝)本文には薛挙の生年・享年・即位時年齢の直接記載は見当たらない。死亡時期は既存reignsデータで武徳元年(618年)八月と月精度まで確定しているためdeathDateとして転記したが、年齢(deathAge)は原典に記載がなく不明。調査したが原典に生年月日・享年の直接記載が見当たらなかった。
在位中の出来事(5件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
親征617年隋将・皇甫綰(枹罕方面の隋軍)
対象: 隋将・皇甫綰(枹罕方面の隋軍)
結果: 薛挙自ら精鋭2千を率いて赤岸で皇甫綰の軍と対峙し、「挙策馬先登」と自ら先陣を切って隋軍を大破、枹罕を陥落させた
「西秦霸王」自称・建元「秦興」の直後の戦い。旧唐書巻五十五本文に基づく。
遷都617年蘭州 → 秦州
薛舉は大業十三年秋七月に蘭州で皇帝を僭称し(皇后・皇太后を立て、城南に陵邑・廟を築く)、蘭州を都とした。その後、子の薛仁杲が秦州を攻略すると「及仁杲克秦州、举自兰州迁都之」と明記され、薛舉自ら蘭州から秦州へ正式に遷都したことが確認できる。武德元年(618)に薛舉が病没し子の仁杲が継いだ後、唐軍に敗れ折墌城で降伏し西秦は滅亡した(折墌城は決戦時の軍営であり新たな正式遷都を示す記述はない)。(出典: 旧唐書 巻五十五 列傳第五(薛舉・薛仁杲傳))
改元617年4月【皇帝即位前】大業十三年(617年)四月癸未、金城で挙兵し「西秦霸王」を自称した際に「秦興」と建元。
【皇帝即位前】大業十三年(617年)四月癸未、金城で挙兵し「西秦霸王」を自称した際に「秦興」と建元。『隋書』煬帝紀下:「夏四月癸未、金城校尉薛擧率衆反、自稱西秦霸王、建元秦興」。同年七月頃(旧唐書・新唐書の記述順)に蘭州で皇帝を僭称した際には、両史書とも新たな建元(改元)の記事はなく、そのまま「秦興」の年号が用いられ続けたとみられる(皇帝即位に伴う別建元は確認できず)。したがって、この人物が実際に用いた年号は「秦興」の1つのみであり、これを即位(覇王僭称)に伴う最初の建元として1回とカウントする。
出典: 隋書 巻四 帝紀第四(煬帝紀下)
立后617年7月大業十三年(617年)七月、薛擧が蘭州で皇帝を僭称した際、妻の鞠氏を皇后に、母を皇太后に立てた。
大業十三年(617年)七月、薛擧が蘭州で皇帝を僭称した際、妻の鞠氏を皇后に、母を皇太后に立てた。『旧唐書』巻五十五:「十三年秋七月、擧僭號於蘭州、以妻鞠氏為皇后、母為皇太后」。『新唐書』薛擧伝にも「僭帝號於蘭州、以妻鞠為后」とあり同内容を確認。薛擧の在位期間中に他の立后・廃后・再冊立の記述はなく、この1回のみ。
出典: 旧唐書 巻五十五(薛擧・李軌・劉武周列傳)
親征618年唐(丰州総管張長逊・太宗配下の劉文静ら、高墌方面)
対象: 唐(丰州総管張長逊・太宗配下の劉文静ら、高墌方面)
結果: 宗羅救援のため薛挙自ら全軍を率いて高墌に出陣し豳・岐の地まで略奪、唐の劉文静・殷開山軍を高墌で撃破し高墌を奪取(浅水原の戦いの前段階)。その後長安進撃を企図するも出発前に発病し死去したため、それ以上の親征には至らなかった
武徳元年、旧唐書巻五十五本文に基づく。長安進撃計画は出発前に薛挙が病死したため実行されず、この親征カウントには含めない。