李子通
呉・隋末|在位 619–622年
- 諱(本名)
- 李子通
- 在位
- 619–622年
- 在位期間
- 3年180日365名中214位
- 即位経路
- 建国
- 死因
- 処刑
- 即位時年齢
- 不詳
- 没年齢
- 不詳
- 改元
- 1回332名中142位タイ
- 大赦
- 0回
- 立后
- 0回
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 5回112名中12位タイ
- 反乱鎮圧
- 0回
- 被反乱
- 0回
- 遷都
- 1回45名中12位タイ
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
江都を陥落させ「僭即皇帝位」、国号「呉」、元号「明政」を建てた。他者からの擁立や世襲ではなく武力による自立建国。
出典: 旧唐書 巻五十六(李子通伝)/新唐書 列伝第十二
死因の経緯
武徳4年、蘇州で敗れ余杭で降伏。高祖に厚遇されたが、杜伏威の入朝を機に再挙兵を企図し逃亡。藍田関で捕縛され左僕射の楽伯通とともに「伏誅」。
出典: 旧唐書 巻五十六(李子通伝)/新唐書 列伝第十二
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
元号名「明政」は在位期間(自称楚王期を含めれば大業十二年頃~武徳5年)を通じて一貫しており、確認できる別元号への切替は見られない。史料間の即位経緯記述の相違(楚王僭称時建元か皇帝即位時建元か)により、建元の正確な発生時点・回数の解釈にはやや不確実性がある。
大赦回数
旧唐書巻五十六・新唐書列傳第十二の李子通伝に「大赦」「大赦天下」等の記載なし。武徳5年に伏誅されるまでの記述を通読したが該当なし。
立后回数
李子通伝に皇后冊立に関する記載なし。皇后不在と判断。
皇太子廃立回数
李子通伝に皇太子・皇太弟等の冊立・廃立に関する記載なし(在位期間が短く、後継者を立てた記録自体が見られない)。
親征回数
即位前の1回(対陳棱)を含め計5回。沈法興・杜伏威(輔公祏/王雄誕)はいずれも李子通に服属しない独立群雄であり、これらとの抗争は反乱鎮圧・被反乱ではなく親征(対外戦争)として計上した。同一相手(杜伏威・沈法興)への複数回の出征は、間に敗走・体制再建・別目標への出征が挟まる分断された軍事行動として個別カウントした。
反乱鎮圧回数
旧唐書巻56李子通伝を通読したが、自身の政権(呉)内部からの武装反乱を鎮圧した記載は見当たらない。対抗した沈法興・杜伏威(輔公祏・王雄誕)はいずれも服属しない独立群雄でありpersonalCampaignCountに計上した。
被反乱回数
旧唐書巻56李子通伝を通読したが、自身の政権(呉)内部・服属民からの武装反乱に関する記載は見当たらない。対抗した沈法興・杜伏威(輔公祏・王雄誕)はいずれも服属しない独立群雄でありpersonalCampaignCountに計上した。降伏後に再挙兵を企図し藍田関で捕縛・処刑された件(deathCause参照)は唐に対する反抗であり、呉政権在位中の被反乱には該当しない。
遷都回数
在位中に遷都1回(0620年 江都→余杭)。
即位時年齢・没年齢
指定ソース(旧唐書 巻56 李子通伝)を通読したが、生年月日・即位時年齢・享年についての直接記載(「時年」「年◯◯」「享年」等)は見当たらなかった。同伝の他の記述(deathCause.note等)にも年齢情報は含まれていない。追加列伝への探索は指示により実施せず、調査済みだが不明として確定する。
在位中の出来事(7件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
親征619年〜620年沈法興
対象: 沈法興
結果: 庱亭で沈法興配下の尚書左僕射蒋元超を斬り、法興は城を捨てて敗走。晋陵の地を得た。
即位直後、丹陽賊帥楽伯通の投降を受けて尚書左僕射に任じた記事の直後に続く記述。正確な月日は原文に明記されない。
親征619年1月〜619年9月陳棱(宇文化及配下の江都太守)
対象: 陳棱(宇文化及配下の江都太守)
結果: 毛文深の離間の計で杜伏威・沈法興の援軍を牽制しつつ全軍を挙げて江都を攻略、陳棱は伏威のもとへ敗走。この勝利を受け江都に入り「僭即皇帝位」、国号「呉」・元号「明政」を建てた。
即位(619年9月)前、来整に敗れて海陵に逃れた後2万人を集めて自ら「将軍」を称した独立指揮官としての時期の軍事行動。他人の命令によらず自ら兵を率いた出征であり、本ブロックの先例(例:前秦苻健の即位前軍事行動の算入)に準じて計上した。
改元619年9月旧唐書・新唐書の李子通伝では、江都を陥落させ皇帝を僭称した際に「国称吴、建元為明政」と、皇帝即位と同時に建元したと記す(【皇帝即位(改元同時)】)。
旧唐書・新唐書の李子通伝では、江都を陥落させ皇帝を僭称した際に「国称吴、建元為明政」と、皇帝即位と同時に建元したと記す(【皇帝即位(改元同時)】)。日付は旧唐書本紀に見える「(武徳二年)九月辛未、賊帥李子通拠江都、僭称天子、国号吴」に基づく(辛未の干支日は特定せず月まで)。なお隋書本紀(煬帝紀下・大業十二年冬十月条)には即位前、江都攻撃時点で既に「(李子通)自号楚王、建元明政」との記事があり、新唐書列傳第十二にも「大業十一年僭号楚王」との記述がある。両系統の史料間で建元の時期(楚王僭称時か皇帝即位時か)に食い違いがあるが、確認できる限り元号名は終始「明政」の一つのみで、別の元号への改元(複数の異なる年号)は確認できないため、実質的な建元は1回として計上した。
出典: 旧唐書 巻五十六(李子通伝)/新唐書 列傳第十二(李子通伝)/隋書 本紀 巻四(煬帝紀下)
親征620年杜伏威(配下の輔公祏)
対象: 杜伏威(配下の輔公祏)
結果: 杜伏威配下の輔公祏が丹陽を陥落させ溧水に進駐したのに対し自ら迎撃したが敗れ、さらに糧食が尽きたため江都を放棄して京口へ退いた(江都以西の地は伏威に帰した)。
capitalRelocationCountの遷都年推定(武徳3年頃=620年)と同時期の出来事。正確な月日は原文に明記されない。
親征620年沈法興
対象: 沈法興
結果: 京口放棄後、太湖方面へ東走して残兵を集め2万人を得たうえで呉郡の沈法興を襲撃・撃破(法興はその後逃亡の末に投江自殺)。その官属を率いて余杭に都を定めた。
輔公祏に敗れて江都を失った後、体制を立て直しての再度の沈法興討伐であり、庱亭での1回目の対沈法興戦とは時期・文脈が分断されるため別カウントとした。
遷都620年江都 → 余杭
李子通は江都を陥落させて占拠し「因僭即皇帝位、国称吴、建元为明政」と江都で建国・即位した。その後、輔公祏に丹陽・溧水で敗れて「弃江都、保于京口」(京口へ避難)、さらに東走して太湖方面へ逃れ、沈法興を吳郡で破った後「率其官属都于余杭」と明記されており、余杭を正式な首都として再建したことが確認できる(「都於」の語で明確に新首都と位置づけている点で単なる一時避難とは異なる)。武德四年(621)杜伏威配下の王雄誕に余杭で敗れ降伏するまで余杭が首都であった。正確な遷都年月は原文に明記されないため、江都陥落(武德二年九月即位)と武德四年の余杭陥落の間(武德三年頃)と推定。(出典: 旧唐書 巻五十六 列傳第六(李子通傳)/新唐書 列傳(李子通傳、daizhigev20所収))
親征621年1月〜621年11月杜伏威(配下の王雄誕)
対象: 杜伏威(配下の王雄誕)
結果: 蘇州で王雄誕と大戦して敗れ余杭に退き、城下の戦いにも敗れて窮した末に降伏。伏威に捕らえられ左僕射楽伯通とともに京師へ送られた。旧唐書本紀武徳四年十一月条に「会稽賊帥李子通以其地来降」とある。
王雄誕伝(旧唐書巻56)によれば李子通は独松嶺に精兵を率いて自ら守り、敗れて杭州(余杭)へ逃げ込んだ末に陣中で捕らえられたとあり、本人が戦場に在ったことが確認できる。