李軌は隋末に武威で挙兵して河西大涼王を称し、のち皇帝を名乗ったが、部下に捕らえられて唐に降り、誅された皇帝である。
李軌の人物データ
- 生年
- 不詳
- 在位
- 河西大涼王617年〜618年
- 皇帝618年11月26日〜619年5月31日
- 没年
- 619年年齢不詳
- 死因
- 処刑敵や次の政権などに、公に処断された死。非業の死このサイトでは、暗殺・処刑・戦死・自害の4つをまとめて非業の死と呼んでいる。同じ死因33人/365人
- 即位経路
- 自立先の君主から位を受けず、自ら皇帝を名乗った即位。帝号を新たに称した先の君主から皇帝の号を継いだのではなく、自分の代で新たに皇帝を名乗った(王などの位から皇帝になった場合を含む)。
- 先代
- —
- 次代
- —
- 呼び名
- 姓李諱軌字処則呼び名の見方
出典
- 在位
- 旧唐書 巻五十五 薛挙・
李軌・ 劉武周列傳(李軌)/旧唐書 巻一 高祖本紀/資治通鑑(唐紀二・ 三) - 死因
- 旧唐書 巻五十五/新唐書 巻八十六
- 即位経路
- 旧唐書 巻五十五/新唐書 巻八十六
生涯
どんな皇帝か
旧唐書の史臣歴史書を編み、その中で評を述べた人は、隋の官属を安んじて財を奪わず、捕虜を放したことを興った理由とし、謀主を殺し妖巫を信じて衆が背いたので、その滅亡は当然だと評する。
即位まで
武威姑臧の人で、弁が立ち、書物も多少は読んだ。家が富んで貧者を救い、大業の末に鷹揚府隋で兵を管理した地方の軍の役所司馬だった。617年、曹珍が李氏が王となるという図讖未来を予言するとされた図や文書を引いて李軌を推したので、李軌が主となって挙兵し、隋の官を捕らえて河西大涼王を称した。関謹らが隋の官吏を殺して家産を分けようとすると、義兵は焼かれる者を救うためで、人を殺して物を取れば狂賊だと退け、謝統師らを官に任じた。618年に皇帝の位に即いた。薛挙の兵を破って得た捕虜を、天命があれば自ずと我がものになると言って帰した。
治世と最期
讒言を信じて吏部尚書役人の任免を扱う役所の長官の梁碩に毒を送って殺させたので、旧友たちは疑い恐れて離れた。唐の高祖は李軌を従弟と呼んで涼王に冊したが、李軌は曹珍に従って帝号皇帝という称号を去らず、619年に皇従弟大涼皇帝と称する表を送って官を受けなかった。胡の巫に、上帝が玉女を降らせると惑わされて台を築き、費えを重ねた。飢饉で人が相食むと家財を傾けて民を救ったが行き渡らず、隋の旧官の言に従って倉は開かなかったので、士庶は怨んだ。
安修仁の兄の安興貴が唐への帰順を説くと、李軌は呉王濞の東帝を引いて、自分も西帝たりえないかと退けた。安興貴が弟の安修仁と兵を挙げると、李軌は出て戦ったが敗れて城に入り、人心が去った、天が我を亡ぼすのかと嘆いて、妻子と玉女台に上って別れの酒を置いた。捕らえられて唐に送られ、誅された。
史料について
両唐書の本紀皇帝ごとの出来事を年代順に書いた記録やその部分は、618年に李軌が唐に降ったと記し、同じ年のうちに、新唐書の本紀は李軌が反したと、旧唐書の本紀は涼州で天子を僭称身分を越えて勝手に王や帝を名乗ることしたと記す。捕らえたのを、両唐書の李軌伝と新唐書の本紀は安修仁、旧唐書の本紀と資治通鑑は安興貴とし、両唐書の建成伝は安興貴が李軌を殺して降ったとする。誅された所を、新唐書の伝は長安とし、資治通鑑は長安に着いて子弟とともに誅されたとする。旧唐書の伝は場所を書かない。
李軌とつながる皇帝

勢力図
隋末唐初の勢力図で見る
618年の地図に、李軌が治めた国が描かれています。
在位中の出来事
反乱1
- 反乱619年5月安興貴・
安脩仁のクーデター
年表
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涼が