李軌
涼(隋末)|在位 618–619年
- 諱(本名)
- 李軌
- 在位
- 618–619年
- 在位期間
- 1年120日365名中283位
- 即位経路
- 建国
- 死因
- 処刑
- 即位時年齢
- 不詳
- 没年齢
- 不詳
- 改元
- 1回332名中142位タイ
- 大赦
- 0回
- 立后
- 0回
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 0回
- 被反乱
- 1回289名中203位タイ
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
配下の推戴を機に「河西大凉王」を自称、建元「安楽」。武徳元年冬に正式に皇帝を自称(「大凉皇帝」)。挙兵当初は配下による推戴という擁立的側面もあったが、既存王朝からの継承なく新規に国号「大凉」を建てたため建国と判定。
出典: 旧唐書 巻五十五/新唐書 巻八十六
死因の経緯
安興貴・安脩仁のクーデターにより捕縛され長安に送られ斬首(「軌尋伏誅」)。唐朝の法に基づく公的処断。
出典: 旧唐書 巻五十五/新唐書 巻八十六
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
隋書本紀・旧唐書列伝・新唐書列伝を通読。李軌の在位中に確認できる建元は「安楽」の1回のみ(大業十三年/617年、王を称した時点)。武徳二年(619年)五月に安興貴・安脩仁のクーデターにより捕らえられ、まもなく長安で斬首されるまで、新たな改元の記録はない。
大赦回数
旧唐書卷五十五・新唐書卷八十六の李軌列伝を通読したが、「大赦」「大赦天下」等の記載は一切なし。降兵の処遇(捕虜を坑殺するか放還するかの議論)や飢饉時の倉粟放出の議論はあるが、いずれも大赦とは無関係。0回として明示。
立后回数
旧唐書・新唐書の李軌列伝に「皇后」冊立の記載なし。妻については「携妻子上玉女台」(旧唐書)「携妻子上玉女台」(新唐書)等、単に「妻子」としか言及されず、皇后として正式に冊立された記録は見当たらない。薛挙が妻の鞠氏を皇后に立てた記事(同巻列伝冒頭部分)とは対照的に、李軌についてはそのような記載が存在しない。0回として明示。
皇太子廃立回数
武徳元年(618年)冬、皇帝僭称と同時に子の李伯玉を皇太子に立てたとの記載があるが(旧唐書「以其子伯玉為皇太子」・新唐書「以其子伯玉為太子」)、廃立の記載は列伝中に一切なし。李軌は武徳二年(619年)五月に安興貴らのクーデターで捕らえられ、諸弟・諸子とともに長安で斬首されるまで皇太子廃立の記事なし。0回として明示。
親征回数
旧唐書卷五十五・李軌伝を通読。薛挙軍との昌松の戦いは「軌遣其将李賛撃敗於昌松」と明記され、配下の将軍李賛が指揮した戦闘であり李軌自身の出陣ではない。河西五郡(張掖・燉煌・西平・枹罕)の攻略についても「未幾、攻陥張掖・燉煌・西平・枹罕、尽有河西五郡之地」とあるのみで、李軌自身が親征したとの明記がなく、他の戦闘記事と同様に配下将軍による攻略と推定される(確度はやや低いためconfidence medium)。武徳2年の安興貴・安脩仁のクーデター時に「軌率歩騎千余出城拒戦」とあるが、これは自城を防衛する戦闘であり対外的な親征には該当しないため計上しない。0回として確定。
反乱鎮圧回数
旧唐書卷五十五・李軌伝を通読。李軌配下・治下で武装蜂起が発生し李軌側がこれを鎮圧した記録は見当たらない。薛挙の侵攻(昌松の戦い)は李軌が撃退に成功しているが、薛挙は李軌の統治下にない対等な独立群雄であり「服属勢力の反乱」に該当しないため除外。吏部尚書梁碩の誅殺(謀反容疑での鴆殺)は密告・讒言のみで実際の挙兵に至っていないため除外。武徳2年の安興貴・安脩仁のクーデターは李軌側が防戦に失敗し敗死した事案であり、鎮圧の主体が李軌側ではなく反乱者側だったため鎮圧回数には計上しない(rebellionSufferedCountにのみ計上)。0回として確定。
被反乱回数
旧唐書卷五十五・李軌伝を通読。薛挙による軍事侵攻(昌松の戦い等)は独立した対等群雄との抗争であり被反乱には含めない。梁碩の誅殺は安脩仁らの讒言による謀反容疑での毒殺であり、実際の挙兵・兵力行使を伴わないため被反乱には含めない。安興貴・安脩仁のクーデター(619年5月)のみを内部権力者による兵力を伴う政変として1件計上。
遷都回数
旧唐書李軌伝を通読。終始姑臧(武威)が都、遷都の記録なし。
即位時年齢・没年齢
旧唐書卷五十五・李軌伝を通読したが、「時年」「享年」等の年齢直接記載は見当たらず、生年・没年齢を示す記述もない。既存のdeathCause.note/accessionRoute.note/reigns[].noteにも年齢記載なし。調査済みだが原典(旧唐書列伝)に生年月日・享年の直接記載が見当たらなかったためnullのまま確定。
在位中の出来事(2件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
改元617年7月【皇帝即位前】大業十三年(617年)七月丙辰、李軌は武威で挙兵し「河西大凉王」(凉王)を自称すると同時に建元して「安楽」とした。
【皇帝即位前】大業十三年(617年)七月丙辰、李軌は武威で挙兵し「河西大凉王」(凉王)を自称すると同時に建元して「安楽」とした。隋書帝紀「丙辰、武威人李軌挙兵反、攻陥河西諸郡、自称凉王、建元安楽」、旧唐書列伝「軌自称河西大凉王、建元安楽、署置官属、並擬開皇故事」で一致。武徳元年(618年)冬に「僭称尊号」(皇帝を自称)した際には新たな建元の記載がなく、「安楽」の年号がそのまま皇帝在位中も継続使用されたとみられる(旧唐書「武徳元年冬、軌僭称尊号、以其子伯玉為皇太子、長史曹珍為左僕射」に建元の言及なし)。なお新唐書列伝は「会軌僭帝号、建元安楽」と記し、文面上は帝号僭称と建元を同時の出来事のように叙述するが、隋書帝紀・旧唐書列伝という独立した二史料が共に「凉王」自称時点での建元と明記しており、新唐書の記述は要約的な文飾と判断した。合計で建元は1回のみとカウント。
出典: 隋書帝紀第四/旧唐書列伝第五(巻五十五)
被反乱619年5月安興貴・安脩仁のクーデター
首謀者: 安興貴・安脩仁
結果: 李軌敗北・捕縛、長安で斬首、大凉政権崩壊
安脩仁の兄・安興貴が高祖の命で凉州に入り李軌配下(左右衛大将軍)として信任を得た上で、安脩仁ら諸胡・薛挙旧将の奚道宜らと結び兵を挙げて姑臧城を包囲。李軌は歩騎千余を率いて城外で防戦したが敗れて城内に籠り、最終的に投降・捕縛され長安に送られ斬首された(「軌率歩騎千余出城拒戦、軌敗入城…軌尋伏誅」)。政権中枢に取り込まれた内部権力者(左右衛大将軍)が兵力を用いて政権を打倒したクーデターであり、鎮圧主体が李軌側ではなく反乱者側だったためrebellionSuppressionCountには計上せず本項目のみに算入。