蕭銑は後梁の宣帝の曾孫で、隋末に梁を再興して皇帝を称し、江陵を都としたが、唐に降って長安で斬られた皇帝である。
蕭銑の人物データ
- 生年
- 不詳年齢は
史書に 記された 年齢から 数えた - 在位
- 梁王617年〜618年
- 皇帝618年5月〜621年11月10日
- 没年
- 621年39歳(数え年)長生き順同率135位/266人
- 死因
- 処刑敵や次の政権などに、公に処断された死。非業の死このサイトでは、暗殺・処刑・戦死・自害の4つをまとめて非業の死と呼んでいる。同じ死因33人/365人
- 即位経路
- 自立先の君主から位を受けず、自ら皇帝を名乗った即位。帝号を新たに称した先の君主から皇帝の号を継いだのではなく、自分の代で新たに皇帝を名乗った(王などの位から皇帝になった場合を含む)。
- 先代
- —
- 次代
- —
- 呼び名
- 姓蕭諱銑呼び名の見方
- 目立つ記録
- 遷都 1回多い順同率9位
出典
- 在位
- 旧唐書 巻五十六 蕭銑・
杜伏威等列傳(蕭銑)/資治通鑑 巻一百八十五(唐紀一・ 武德元年)・ 巻一百八十九(唐紀五・ 武德四年) - 死因
- 旧唐書 巻五十六(蕭銑伝)/新唐書 巻八十七
- 即位経路
- 旧唐書 巻五十六(蕭銑伝)/新唐書 巻八十七
生涯
どんな皇帝か
旧唐書の史臣歴史書を編み、その中で評を述べた人は、将の権を奪い旧臣を殺し、大軍が来て手をつかねて降ったのも当然だと評する。新唐書の賛は、武は足りなかったが文は余りあったとし、斬った高祖を聖と讃える。
即位まで
後梁の宣帝の曾孫で、幼くして孤児となり、筆写の賃仕事で暮らして孝行で知られた。煬帝のとき、外戚皇帝の母や皇后の実家の一族として羅川令に抜擢された。617年、岳州で隋に背こうとした董景珍は、主に推されたが、寒賤だと辞し、梁の後裔の蕭銑を推した。蕭銑は大いに喜び、隋に本国を滅ぼされた恥を雪ぎたいと返書した。梁公を称すると、攻めてきた賊帥の沈柳生も帰順した。沈柳生が董景珍の使者を殺すと、蕭銑は、仲間同士で殺し合うなら主にはなれないと言って軍門を出たが、沈柳生が罪を請うと赦した。城に入ると、董景珍の進言で沈柳生は斬られた。梁王を称して鳳鳴と建元元号を新しく立てること。またその名の元号し、618年に皇帝を称して江陵に都を移した。
史料について
沈柳生を斬ったのを、旧唐書は董景珍、新唐書は蕭銑とする。元号を、資治通鑑は鳴鳳と書く。
治世と最期
諸将の専横を抑えようと、兵を罷めて農に就かせると称して将帥の兵権軍隊を指揮する権限を奪った。これを恨んだ董景珍の弟が謀叛を企てて誅されると、董景珍は召し戻されるのを恐れて唐に降り、蕭銑の遣わした張綉に攻められて、配下に殺された。蕭銑は張綉を尚書令国の政務を執り行う役所の長官に進めたが、張綉が功を恃んで驕ると、これも殺した。大臣が相次いで誅されたため旧臣は疑い恐れて多くが背き、兵勢は弱まった。
621年、唐軍が長江を下って攻め、文士弘を破って江陵に迫った。援軍が来ないと見た蕭銑は、民を傷つけぬよう城が落ちる前に降ると群臣に告げ、唐に降った。長安で高祖に罪を数えられると、隋が鹿を失い英雄が競って追った、自分に天命が無かっただけで、田横と同じく漢に背いたのではないと答え、都の市で斬られた。
史料について
新唐書と資治通鑑は、蕭銑を猜疑が深い人物とする。唐軍が勝った経過を、旧唐書の李靖伝と資治通鑑は、李孝恭が敗れたあと李靖が破ったとする。降り方を、蕭銑伝は喪服で軍門に詣でて死ぬべきは自分だけだと述べたとし、李靖伝は使者を送って降ったとする。
蕭銑とつながる皇帝

勢力図
隋末唐初の勢力図で見る
618–620年の地図に、蕭銑が治めた国が描かれています。
在位中の出来事
遷都1
- 遷都618年巴陵(岳州) → 江陵
年表
隋末の時代を年表で見る
梁・