蕭銑
梁・隋末|在位 618–621年
- 諱(本名)
- 蕭銑
- 在位
- 618–621年
- 在位期間
- 3年270日365名中203位タイ
- 即位経路
- 建国
- 死因
- 処刑
- 即位時年齢
- 不詳
- 没年齢
- 39歳(数え年)269名中・長寿順137位タイ
- 改元
- 1回332名中142位タイ
- 大赦
- 0回
- 立后
- 0回
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 0回
- 被反乱
- 0回
- 遷都
- 1回45名中12位タイ
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
岳州の反乱指導者董景珍らに南朝梁の後裔として推戴されたのが発端だが、隋の開皇7年(587年)に既に滅亡していた南朝梁からの直接の継承関係はなく、隋末の群雄割拠の中で新たに政権を樹立し自ら皇帝を称したため建国と判定(王朝創始者は建国に統一する既定方針に従う)。
出典: 旧唐書 巻五十六(蕭銑伝)/新唐書 巻八十七
死因の経緯
唐軍(李孝恭・李靖)の江陵包囲に自ら開城降伏。長安に護送され、高祖の詔により都の市中で公開斬首された(「帝怒其不屈,詔斬都市」)。
出典: 旧唐書 巻五十六(蕭銑伝)/新唐書 巻八十七
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
在位を通じて確認できる建元(改元)は「鳳鳴(鳴鳳)」の1回のみ。皇帝即位時の新規改元の記録はなし。
大赦回数
『旧唐書』巻56、『新唐書』巻87の蕭銑伝、および『資治通鑑』の蕭銑関連記事(挙兵〜梁王即位〜皇帝即位〜滅亡まで)を通読したが、「大赦」「大赦天下」等の明記は確認できなかった。同時代の他の群雄(李淵・王世充・宇文化及・皇泰主・薛挙・李軌等)は建元・即位に際して「大赦」を発したことが明記される例が多いのに対し、蕭銑の梁王即位(建元鳳鳴)記事にも皇帝即位記事(『資治通鑑』巻185「蕭銑即皇帝位,置百官,準梁室故事」)にも大赦の記述が伴わず、実際に行っていない可能性が高い。ただし列伝の記述自体が簡略であり記録漏れの可能性を完全には排除できないためconfidenceはmediumとした。
立后回数
『旧唐書』巻56、『新唐書』巻87の蕭銑伝に皇后・妃に関する記載は一切ない。皇帝即位時の論功行賞記事(従父琮を孝靖皇帝と追諡、祖父岩を河間忠烈王、父璿(璇)を文宮王と追封、董景珍ら功臣7名を各王に封じた等)にも皇后冊立への言及はなく、正室・後宮に関する記述自体が両伝ともに存在しない。列伝が簡略なため記録が単に欠落している可能性は排除できずconfidenceはmedium。
皇太子廃立回数
『旧唐書』巻56、『新唐書』巻87の蕭銑伝には皇太子や子息に関する記載が一切なく、皇太子を立てた事実自体が確認できない。挙兵(大業13年/617年)から江陵開城・処刑(武徳4年/621年)まで実質約4年、皇帝在位も義寧2年/618年頃から621年までの約3年強と短く、立太子・廃太子を行う契機・記録は見当たらない。
親征回数
『旧唐書』巻56蕭銑伝を通読したが、皇帝(梁公/梁王/皇帝)即位後に蕭銑本人が軍を率いて出征した記事は確認できない。硖州攻撃は「銑又遣楊道生攻硖州」と将軍派遣であり本人不出征のため対象外。唯一本人が戦闘に関与したのは挙兵直後・梁公自称の直前に「潁川賊帥沈柳生来寇羅川県、銑撃之、不利」とある一件のみだが、これは隋の羅川県令としての防衛戦であり、後に成立する自身の政権(梁)の軍としての出征とは言えず、かつ敗北した局地的な防戦であるため親征には計上しなかった。武徳4年の唐軍侵攻時も銑は籠城の末に開城降伏しており、自ら出陣して戦った記録はない。
反乱鎮圧回数
『旧唐書』巻56蕭銑伝を通読。挙兵直後の沈柳生殺害(徐徳基を擅殺したことへの処罰として董景珍の進言により誅殺)は独断専行への内部処分であり、銑への武装反乱ではないため対象外。大司馬董景珍の弟(偽将軍)による謀反計画は「事泄、為銑所誅」と密告・摘発のみで挙兵に至らず対象外。董景珍本人については、密使を送り唐の趙郡王孝恭に内応を図った(実際の挙兵はまだ行っていない)段階で銑が齊王張繍を派遣して先制攻撃・殺害しており、相手がまだ武力反乱を起こしていない先制攻撃のパターン(判定基準の例外3)に該当するため鎮圧回数には計上しなかった。尚書令張繍の誅殺も専権への処罰であり反乱鎮圧には該当しない。武徳4年の唐軍による江陵包囲・滅亡は、蕭銑政権にとって服属関係にない対等な外部勢力(唐)との統一戦争にあたり、鎮圧・被反乱いずれの対象にもならない。
被反乱回数
rebellionSuppressionCountと同一史料に基づき判定。董景珍の内応企図は挙兵前に銑側が先制攻撃したパターン(例外3)に該当するため被反乱にも計上しない。大司馬董景珍弟の謀反計画も密告・摘発のみで実際の兵力行使に至っていないため対象外。『既大臣相次誅戮、故人辺将皆疑懼、多有叛者』という記述はあるが、具体的な首謀者名・蜂起地点・鎮圧結末が特定できない一般的な離反傾向の記述にとどまり、独立した反乱イベントとして計上できるだけの情報がないため対象外とした。唐軍による最終的な江陵陥落・滅亡は服属関係にない外部勢力(唐)による征服戦であり、被反乱には該当しない。
遷都回数
在位中に遷都1回(0618年 巴陵(岳州)→江陵)。
即位時年齢・没年齢
『旧唐書』巻56蕭銑伝「竟斬於都市,年三十九」、『新唐書』巻87蕭銑伝「詔斬都市,年三十九」で没年齢39歳が原文に直接記載される(既存確定データを転記、再訪読でも新情報なし)。生年月日・即位時年齢は両伝ともに記載がなく、正確な処刑年月日(降伏日=武徳4年10月21日とは別)も本調査で確認した範囲の原典に見当たらないためaccessionAgeはnullのまま。
在位中の出来事(2件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
改元617年10月大業十三年(617年)十月丙申、岳州の董景珍らに推戴された蕭銑が城南に壇を築いて天を祀り「梁王」を称し、異鳥出現の瑞祥により「鳳鳴」(『資治通鑑』は「鳴鳳」と表記、旧唐書・新唐書は「鳳鳴」)と建元した。
大業十三年(617年)十月丙申、岳州の董景珍らに推戴された蕭銑が城南に壇を築いて天を祀り「梁王」を称し、異鳥出現の瑞祥により「鳳鳴」(『資治通鑑』は「鳴鳳」と表記、旧唐書・新唐書は「鳳鳴」)と建元した。この時点ではまだ皇帝ではなく諸侯王(梁王)の身分であったため【皇帝即位前】の建元として1回カウント。翌年(義寧2年/618年、data/emperors.json既存verification.notesによれば5月頃と推定・月精度)に皇帝を称した(『資治通鑑』巻185「蕭銑即皇帝位,置百官,準梁室故事」、『旧唐書』巻56「僭稱皇帝」)が、その際に新たな年号を建てた記録は『旧唐書』『新唐書』『資治通鑑』いずれにも見当たらず、即位後も引き続き「鳳鳴(鳴鳳)」の年号を用いたとみられるため、皇帝即位に伴う別途の改元イベントは計上しない。在位終了(武徳4年/621年、江陵開城降伏)まで年号の変更は他に確認できない。なお、data/emperors.json中の既存reign note(大業13年10月19日「梁公」、12月20日「王」を称し改元、との記述)と、本調査で確認した一次史料(『隋書』煬帝紀下「冬十月…丙申,羅令蕭銑以縣反…號爲梁王」/『資治通鑑』巻184/『北史』隋本紀)が示す「十月丙申」との間に日付の齟齬がある(本調査で確認した範囲の一次史料はいずれも十月説を支持)。改元の回数(1回)そのものへの影響はないが、日付精度について要再確認の余地がある。
出典: 隋書 帝紀第四(煬帝下)/資治通鑑 巻一百八十四・巻一百八十五/旧唐書 巻五十六(蕭銑伝)/新唐書 巻八十七(蕭銑伝)
遷都618年巴陵(岳州) → 江陵
蕭銑は罗川で挙兵後、董景珍らに推されて巴陵に入城し「筑坛于城南、燔燎告天、自称梁王」、義寧二年に巴陵で皇帝を称した。その後「武德元年、迁都江陵、修复园庙」と明記されており、巴陵から江陵への正式な遷都が確認できる。武德四年(621)に唐軍に敗れ江陵で降伏するまで江陵が首都であり続けた。(出典: 旧唐書 巻五十六 列傳第六(蕭銑傳))