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梁・蕭銑(隋末)第1代

蕭銑

在位 618–621年(3年194日)618年5月 〜 621年11月10日

日本は飛鳥時代

蕭銑は後梁の宣帝の曾孫で、隋末に梁を再興して皇帝を称し、江陵を都としたが、唐に降って長安で斬られた皇帝である。

蕭銑の人物データ

生年
不詳年齢は史書に記された年齢から数えた
在位
  • 梁王617年〜618年
  • 皇帝618年5月〜621年11月10日
3年194日長い順211位/365人皇帝になった年齢は不詳
没年
621年39歳(数え年)長生き順同率135位/266人
死因
同じ死因33人/365人
即位経路
先代
—
次代
—
呼び名
姓蕭諱銑呼び名の見方
目立つ記録
  • 遷都 1回多い順同率9位

出典

在位
旧唐書 巻五十六 蕭銑・杜伏威等列傳(蕭銑)/資治通鑑 巻一百八十五(唐紀一・武德元年)・巻一百八十九(唐紀五・武德四年)
死因
旧唐書 巻五十六(蕭銑伝)/新唐書 巻八十七
即位経路
旧唐書 巻五十六(蕭銑伝)/新唐書 巻八十七

生涯

どんな皇帝か

旧唐書のは、将の権を奪い旧臣を殺し、大軍が来て手をつかねて降ったのも当然だと評する。新唐書の賛は、武は足りなかったが文は余りあったとし、斬った高祖を聖と讃える。

即位まで

後梁の宣帝の曾孫で、幼くして孤児となり、筆写の賃仕事で暮らして孝行で知られた。煬帝のとき、として羅川令に抜擢された。617年、岳州で隋に背こうとした董景珍は、主に推されたが、寒賤だと辞し、梁の後裔の蕭銑を推した。蕭銑は大いに喜び、隋に本国を滅ぼされた恥を雪ぎたいと返書した。梁公を称すると、攻めてきた賊帥の沈柳生も帰順した。沈柳生が董景珍の使者を殺すと、蕭銑は、仲間同士で殺し合うなら主にはなれないと言って軍門を出たが、沈柳生が罪を請うと赦した。城に入ると、董景珍の進言で沈柳生は斬られた。梁王を称して鳳鳴とし、618年に皇帝を称して江陵に都を移した。

史料について

沈柳生を斬ったのを、旧唐書は董景珍、新唐書は蕭銑とする。元号を、資治通鑑は鳴鳳と書く。

治世と最期

諸将の専横を抑えようと、兵を罷めて農に就かせると称して将帥のを奪った。これを恨んだ董景珍の弟が謀叛を企てて誅されると、董景珍は召し戻されるのを恐れて唐に降り、蕭銑の遣わした張綉に攻められて、配下に殺された。蕭銑は張綉をに進めたが、張綉が功を恃んで驕ると、これも殺した。大臣が相次いで誅されたため旧臣は疑い恐れて多くが背き、兵勢は弱まった。

621年、唐軍が長江を下って攻め、文士弘を破って江陵に迫った。援軍が来ないと見た蕭銑は、民を傷つけぬよう城が落ちる前に降ると群臣に告げ、唐に降った。長安で高祖に罪を数えられると、隋が鹿を失い英雄が競って追った、自分に天命が無かっただけで、田横と同じく漢に背いたのではないと答え、都の市で斬られた。

史料について

新唐書と資治通鑑は、蕭銑を猜疑が深い人物とする。唐軍が勝った経過を、旧唐書の李靖伝と資治通鑑は、李孝恭が敗れたあと李靖が破ったとする。降り方を、蕭銑伝は喪服で軍門に詣でて死ぬべきは自分だけだと述べたとし、李靖伝は使者を送って降ったとする。

蕭銑とつながる皇帝

隋末唐初の勢力図(618年)

勢力図

隋末唐初の勢力図で見る

618–620年の地図に、蕭銑が治めた国が描かれています。

在位中の出来事

遷都1
  1. 遷都618年巴陵(岳州) → 江陵

年表

隋末の時代を年表で見る

梁・蕭銑が中国史のどこにあたるか、同じ時代の王朝と前後の時代を並べて見られます。

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