薛仁杲の人物データ
- 生年
- 不詳
- 在位
- 618年9月4日〜618年11月30日
- 没年
- 618年年齢不詳
- 死因
- 処刑敵や次の政権などに、公に処断された死。非業の死このサイトでは、暗殺・処刑・戦死・自害の4つをまとめて非業の死と呼んでいる。同じ死因33人/365人
- 即位経路
- 継承同じ王朝の先代の跡を継いだが、誰が決めたかを史書が書いていない即位。(経緯記載なし)
- 先代
- 薛挙秦・
西秦 薛仁杲は薛挙の子
- 薛挙秦・
- 次代
- —
- 呼び名
- 姓薛諱仁杲呼び名の見方
出典
- 在位
- 旧唐書 巻五十五 薛挙・
李軌・ 劉武周列傳(薛仁杲)/旧唐書 巻一 高祖本紀/資治通鑑(唐紀二) - 死因
- 旧唐書 巻五十五(薛挙・
仁杲伝)/新唐書 巻八十六 - 即位経路
- 旧唐書 巻五十五/新唐書 巻八十六
生涯
どんな皇帝か
旧唐書の史臣歴史書を編み、その中で評を述べた人は、薛挙父子はともに勇猛で殺を好み、仁杲がとりわけ甚だしかったと評する。
即位まで
薛挙の長子で、力が強く騎射に長け、軍中で万人敵と呼ばれた。617年、父とともに挙兵して斉公、のち斉王とされた。行く先々で人を殺してその妻妾を奪い、秦州を落とすと富人を逆さ吊りにし鼻に酢を注いで金宝を求めた。父は、知略は家の事を成すに足るが、苛虐で恩が無く、いずれ宗社祖先と土地の神の祭り。転じて国家そのものを覆すだろうと常に戒めた。降らない庾立に怒って火の上で磔にし、肉を割いて兵に食わせた。618年に父が死ぬと折墌城で立った。もとから諸将と仲が悪かったので、即位すると皆が疑い恐れ、郝瑗も病に臥して兵勢は衰えた。
史料について
父が帝号皇帝という称号を称すると太子に立てられたと新唐書と資治通鑑は書くが、旧唐書の伝にこの記事は無い。捕虜の舌を断ち鼻を削いだのを、新唐書は仁杲の所業とし、旧唐書は父の薛挙のこととする。
治世と最期
出撃した涇州の劉感を捕らえて城に降伏を勧めさせると、劉感は秦王の大軍が来ると叫んだので、怒って膝まで埋めて射殺させた。部将の仵士政に偽って降らせて隴州刺史州という地方の区画を治めた長官の常達を捕らえたが、屈しないのを壮として釈放した。
李世民は高墌で塁を固めた。仁杲の軍は兵糧が続かなくなり、内史令皇帝の命令の文を作る役所の長官の翟長孫や妹婿の鍾倶仇が唐に降った。李世民が浅水原で仁杲の将の宗羅睺を破って折墌城に迫ると、仁杲は百官朝廷のすべての役人を率いて門を開いて降った。長安へ送られ、首帥数十人とともに斬られた。
史料について
劉感の件を、旧唐書の叔良伝は相手を薛挙とし、劉感は陣に没したとだけ書く。常達の件を、両唐書の常達伝は相手を父の薛挙とする。資治通鑑によれば、高祖は党を尽く誅せと命じたが、李密に諫められて謀首だけを戮した。
薛仁杲とつながる皇帝
秦・西秦の歴代皇帝
歴代2人の一覧- 第1代薛挙617–618年病死
- 第2代薛仁杲618年処刑
年表
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