中国皇帝統計

王世充

鄭(隋末)|在位 619–621年

王世充の肖像
諱(本名)
王世充
在位
619–621年
在位期間
2年30日365名中256位
即位経路
禅譲
死因
暗殺
即位時年齢
不詳
没年齢
不詳
改元
1332名中142位タイ
大赦
2267名中152位タイ
立后
0
皇太子廃立
0
親征
2112名中41位タイ
反乱鎮圧
0
被反乱
0
遷都
0

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順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。

即位の経緯

世充は「復子明辟」(後で位を返す)を偽って恭帝侗を懐柔した上で、侗の禅位の詔を偽造させ(「仮為侗詔策禅位」)、皇帝に即位(国号「鄭」、元号「開明」)。形式は禅譲だが詔自体が偽造されており実質は簒奪。

出典: 旧唐書 巻五十四(王世充・竇建徳伝)

死因の経緯

洛陽陥落後、高祖は罪を問うたが秦王の「不死」の約束に従い庶人として蜀への流刑に処した。出発前、羽林将軍・独孤修徳(世充にかつて父を誅殺された仇討ち)に殺害された。旧唐書史臣曰も「出降秦王,不致顕戮」と公的処刑ではなかったと明記し、高祖は修徳を免官としたのみで厳罰していない。政権交代後の私怨による内部殺害のため暗殺と判定(境界事例)。

出典: 新唐書 王世充伝/旧唐書 巻五十四(王世充・竇建徳伝)/旧唐書 高祖本紀 武徳四年七月条

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

『旧唐書』『新唐書』『資治通鑑』いずれも即位と改元開明を同時期の出来事として記す。二段階即位(王→皇帝で別の年号を用いた期間)には該当しない。

大赦回数

武徳四年七月丁卯(620/621年)の『大赦天下』(旧唐書高祖本紀)は唐高祖が窦建徳・王世充討平後に発した唐朝自身の大赦であり、王世充自身が発した恩赦ではないため対象外とした。

立后回数

『旧唐書』巻五十四・『新唐書』巻八十五の王世充伝を通読したが、皇后冊立に関する記載は見当たらない。王世充の妻についての記述自体が乏しく、皇后として正式冊立された事実は確認できない。

皇太子廃立回数

即位当日の皇泰2年(619年)四月戊申、子の玄応を皇太子に立てたが(『資治通鑑』巻一百八十七)、在位中に皇太子を廃立した記録は『旧唐書』『新唐書』『資治通鑑』のいずれにも見当たらない。玄応は世充が唐に降伏し蜀へ護送される途上、世充が独孤修徳に殺害された後、謀反を企てて誅殺されたのみで、正式な廃立手続きは確認できない。

親征回数

対象は王世充自身の政権(鄭、619年4月即位〜621年6月降伏)としての軍事行動に限定し、隋の将軍だった即位以前の軍功(孟譲・格謙・盧明月・李密との戦い等)は除外した。

反乱鎮圧回数

在位中(619年4月即位〜621年6月降伏)に政権側が武力鎮圧の主体となった反乱事例は見当たらなかった。619年5月の礼部尚書裴仁基・その子行儼・尚書左丞宇文儒童ら数十人による「謀誅世充,復尊立侗」の陰謀は、実際の挙兵に至る前に「事泄」(密告により発覚)し関係者が誅殺された事案であり、兵力行使を伴う反乱には該当しないため鎮圧・被反乱いずれの集計にも含めなかった。竇建德の侵攻(619年11月・殷州攻撃)や唐(秦王李世民)による洛陽包囲(620〜621年)は、いずれも王世充政権に服属しない対等・優勢な独立勢力との抗争であり、服属民の反乱ではないため対象外とした。

被反乱回数

rebellionSuppressionCountと同一の理由により0件。619年5月の裴仁基らの陰謀は挙兵前に露見・鎮圧された謀反計画であり、実際の武力反抗(挙兵)に至っていないため被反乱としても不算入。竇建德・唐軍との抗争は対等な群雄・征服勢力との戦争であり服属勢力の反乱ではないため除外。

遷都回数

旧唐書王世充伝を通読。一貫して洛陽(東都)が都、遷都の記録なし。

即位時年齢・没年齢

調査対象の『旧唐書』巻五十四(王世充・竇建德列伝)を通読したが、王世充自身の生年・没時の年齢に関する直接記載(「時年」「享年」等)は見当たらなかった(同列伝内で年齢記載があるのは竇建德の「斬於長安市,年四十九」のみで、王世充本人には該当なし)。既存レコードのdeathCause.note/accessionRoute.note/reigns[].noteにも年齢記載はない。逆算可能な確定情報(生年に紐づく年号年)も見当たらないため、accessionAge/deathAgeともnullとした。

在位中の出来事(5件)

改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。

改元619年4月皇泰2年(619年)四月乙巳、楊侗(皇泰主)から禅譲を受けて皇帝に即位し、翌丙午、建元して「開明」とし、国号を鄭とした。

皇泰2年(619年)四月乙巳、楊侗(皇泰主)から禅譲を受けて皇帝に即位し、翌丙午、建元して「開明」とし、国号を鄭とした。皇帝即位と同時の建元(最初の建元)であり、これ以前に王世充自身の年号は存在しない(それ以前は郑王・相国として皇泰主の「皇泰」年号を奉じていた)。在位中(619〜621年)に他の改元記録は見当たらない。

出典: 旧唐書 巻五十四 王世充竇建德列伝

大赦619年4月皇泰二年(619年)四月乙巳、王世充が法駕を備え洛陽宮に入り皇帝に即位。

皇泰二年(619年)四月乙巳、王世充が法駕を備え洛陽宮に入り皇帝に即位。翌丙午、大赦を行うと同時に建元して「開明」とし、国号を鄭とした。即位・改元と同日の大赦。

出典: 資治通鑑 巻一百八十七(唐紀三)

親征619年10月滑州・黎陽(東方への領土拡大)

対象: 滑州・黎陽(東方への領土拡大)

結果: 黎陽に兵を臨ませ東方の地を平定。これに対し竇建德が報復として鄭の殷州を攻撃する遠因となった。

開明元年(皇泰2年/619年)十月、「世充率衆東徇地,至於滑州,仍以兵臨黎陽」(旧唐書巻五十四)。世充自身が軍を率いて東方へ出征した明確な記事。

親征620年8月〜621年3月秦王李世民(唐軍、洛陽包囲)

対象: 秦王李世民(唐軍、洛陽包囲)

結果: 敗北。8月の対陣・2月の出撃戦いずれも不利に終わり、以後城に籠って出撃せず、最終的に洛陽陥落・世充降伏(三月)に至った。

同一の相手(秦王李世民率いる唐軍)による洛陽包囲戦線として一連の防衛行動を1回にまとめた。八月「秦王陳兵於青城宮,世充悉兵來拒」(世充自ら全軍を率いて出て対陣・応酬)、翌年二月「世充率兵出方諸門,與王師相抗,世充軍敗」(世充自ら兵を率いて城門から出撃し敗北)のいずれも世充本人が親しく軍を率いた記事。防衛戦であり典型的な遠征型の「親征」とは性質が異なるため、判定基準の解釈に幅がある境界事例として確度を中とした。

大赦日付不詳『新唐書』王世充伝に「三年、下書大赦」とあり、開明三年(本紀・列伝の記事順から武徳三〜四年頃、620〜621年、秦王李世民による洛陽包囲の最中)に大赦を発したとする記載がある。

『新唐書』王世充伝に「三年、下書大赦」とあり、開明三年(本紀・列伝の記事順から武徳三〜四年頃、620〜621年、秦王李世民による洛陽包囲の最中)に大赦を発したとする記載がある。『旧唐書』には対応する記述は見当たらず、単独史料(新唐書)のみに拠る。

出典: 新唐書 巻八十五 王世充竇建德列伝

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