中国皇帝統計

高祖

唐|在位 618–626年

高祖の肖像
諱(本名)
李淵
廟号
高祖
在位
618–626年
在位期間
8年80日365名中145位
即位経路
禅譲
死因
病死
即位時年齢
53歳(数え年)172名中・若い順161位タイ
没年齢
70歳(数え年)269名中・長寿順12位タイ
改元
1332名中142位タイ
大赦
4267名中93位タイ
立后
0
皇太子廃立
0
親征
0
反乱鎮圧
7225名中58位タイ
被反乱
7289名中71位タイ
遷都
0

順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。

即位の経緯

隋恭帝侑からの禅譲。「高祖即皇帝位於太極殿…改隋義寧二年為唐武德元年」。

出典: 旧唐書 巻一 本紀第一(高祖)

死因の経緯

太上皇となった後、貞観9年5月に崩御。原文は「大漸」(重体化)から「崩」と記すのみで、不審な兆候の記述はない。

出典: 旧唐書 巻一 本紀第一(高祖)

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

高祖在位期間(武徳元年〜九年)を通じて年号は「武徳」のみで、途中の改元はない。

大赦回数

「大赦天下」と明記された全国規模の恩赦のみ計上。武徳元年即位前(義寧元年、代王侑を天子に立てた際)の「大赦」は高祖自身がまだ皇帝ではなかった(隋恭帝の治世)ため除外。武徳六年四月己未の「曲赦京城繫囚」は地域限定(曲赦)のため除外。

立后回数

本紀には「追謚妃竇氏為太穆皇后」とあるのみで、これは竇氏が隋代(高祖即位前)に既に死去した後の追諡・追封であり、存命中の正式な皇后冊立ではない。高祖在位中(618-626年)に新たに皇后を冊立した記載は本紀に見当たらないため0回とした。

皇太子廃立回数

武徳九年六月庚申(玄武門の変)で皇太子建成は秦王(太宗)により誅殺されたが、旧唐書本紀に「廢」の語を用いた正式な廃太子の記載はなく、建成は皇太子の地位のまま殺害されている(事後、貞觀十六年に至り「隱太子」と追諡)。よって存命中の皇太子を正式に廃した事例には該当しないため0回とした。他に高祖在位中に皇太子・皇太弟等を廃した記載は本紀に見当たらない。

親征回数

武徳元年五月甲子の即位から九年八月の譲位までの在位期間中、高祖自身が軍を率いて出征した記事は旧唐書本紀に見当たらない。対薛挙・対劉武周・対王世充・対竇建德・対劉黒闥・対輔公祏等の主要な軍事行動は、すべて太宗(秦王世民)・皇太子建成・斉王元吉・趙郡王孝恭・李靖・李世勣ら皇族・将軍に委任されており、高祖本人は長安周辺で祭祀・録囚・校猟等を行うのみで戦場に赴いていない。なお即位前(義寧元年、617年)の対隋挙兵時には「高祖率兵西図関中」「高祖引師趨霍邑、斬宋老生」「高祖親率衆囲河東」「高祖率軍済河」等、高祖自身が親率した記事が複数あるが、han-gaozu(劉邦)の楚漢戦争除外と同様の運用方針に従い、即位前の軍事行動は親征カウントの対象外とした。

反乱鎮圧回数

薛挙・劉武周・王世充・竇建德本人・李子通・沈法興・朱粲等、唐に一度も服属したことのない対等な群雄との抗争(統一戦争)は除外した。劉文静(武徳二年、密告により処刑)・独狐懐恩(武徳三年、「謀反、伏誅」で挙兵に至らず摘発のみ)は実際の兵力行使を伴わないため除外。玄武門の変(武徳九年六月)は秦王と皇太子建成・斉王元吉との皇族間抗争であり、高祖自身に対する武力行使ではないため除外(reigns[].noteに別途記載済み)。突厥の侵寇は服属していない外国勢力との対外戦争のため除外。

被反乱回数

反乱鎮圧回数7件と同一の反乱をすべて計上(未鎮圧のまま在位終了した例外パターンは該当なし)。玄武門の変(武徳九年六月、秦王による皇太子建成・斉王元吉の誅殺)は皇族間の抗争であり高祖自身への武力行使を伴わないため含めていない。

遷都回数

旧唐書・新唐書を通読。該当在位期間中に新たな遷都の記録なし(684年洛陽遷都は睿宗期、705年長安復都は中宗復位期、904年洛陽強制遷都は昭宗期の出来事として各々計上済み)。

即位時年齢・没年齢

既存レコードをそのまま再利用。旧唐書巻一本紀「高祖以周天和元年生於長安」(生年のみ直接記載)。同巻末「(貞観)九年五月庚子…年七十」と没年齢は直接記載。即位時年齢53歳は生年(566)と即位年(618)からの逆算値。

在位中の出来事(19件)

改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。

改元618年6月18日武徳元年五月甲子、皇帝に即位すると同時に「改隋義寧二年為唐武德元年」と建元。

武徳元年五月甲子、皇帝に即位すると同時に「改隋義寧二年為唐武德元年」と建元。即位に伴う最初の建元。以後、武徳九年に太宗へ譲位するまで改元なし(義寧年号は高祖が代王侑を天子に擁立した際の隋恭帝の年号であり、高祖自身が皇帝であった期間の改元ではないため計上しない)。

出典: 旧唐書 巻一 本紀第一(高祖)

大赦618年6月18日武徳元年五月甲子、太極殿にて即位、南郊に告げ「大赦天下、改隋義寧二年為唐武德元年」。

武徳元年五月甲子、太極殿にて即位、南郊に告げ「大赦天下、改隋義寧二年為唐武德元年」。即位に伴う大赦。

出典: 旧唐書 巻一 本紀第一(高祖)

反乱鎮圧618年11月〜619年4月李軌(涼王)の反乱

首謀者: 李軌

結果: 鎮圧成功(配下に捕縛され降伏・河右平定)

武徳元年八月「涼州賊帥李軌以其地来降、拝涼州総管、封涼王」で帰順・唐の官爵を受けたが、同年(義寧改元後の武徳元年)十一月「涼王李軌僭称天子於涼州」と離反。武徳二年四月辛亥「李軌為其偽尚書安興貴所執以降、河右平」で配下に捕らえられ降伏、鎮圧完了。

被反乱618年11月〜619年4月李軌(涼王)の反乱

首謀者: 李軌

結果: 鎮圧成功(配下に捕縛され降伏・河右平定)

鎮圧回数の同事例参照。

反乱鎮圧618年12月李密の反乱

首謀者: 李密

結果: 鎮圧成功(斬殺)

旧唐書本紀:武徳元年十月に李密は衆を率いて来降していたが、十二月庚子「李密反於桃林、行軍総管盛彦師追討斬之」。帰順後まもなく離反し、盛彦師に討たれた。

被反乱618年12月李密の反乱

首謀者: 李密

結果: 鎮圧成功(斬殺)

鎮圧回数の同事例参照。

反乱鎮圧621年1月稽胡の反乱

首謀者: 不明(稽胡諸部、首謀者名の記載なし)

結果: 不詳(原文に鎮圧完了・戦果の記載なし。皇太子建成が諸軍を統率して討伐に赴いたことのみ記録)

武徳四年正月辛巳「命皇太子総統諸軍討稽胡」。北周武帝期にも同種の「稽胡反」記事があり(beizhou-wudiで既計上)、山西・陝西境の服属異民族集団による蜂起とみて計上した。

被反乱621年1月稽胡の反乱

首謀者: 不明(稽胡諸部、首謀者名の記載なし)

結果: 不詳(原文に鎮圧完了・戦果の記載なし)

鎮圧回数の同事例参照。

反乱鎮圧621年7月〜622年12月劉黒闥の反乱

首謀者: 劉黒闥

結果: 鎮圧成功(斬殺・山東平定)

武徳四年七月甲戌「建德余党劉黒闥拠漳南反」(竇建德の勢力圏=既に唐が「河北悉平」と宣言した直後の離反)。五年三月に一時撃破され突厥に奔るも六月に再挙、最終的に十二月「皇太子破劉黒闥於魏州、斬之、山東平」で鎮圧完了。竇建德本人との戦い(独立政権との統一戦争)とは別に、唐領内での離反として別件計上。

被反乱621年7月〜622年12月劉黒闥の反乱

首謀者: 劉黒闥

結果: 鎮圧成功(斬殺・山東平定)

鎮圧回数の同事例参照。

反乱鎮圧621年8月〜624年5月徐圓朗の反乱

首謀者: 徐圓朗

結果: 鎮圧成功(平定)

唐の官職「兗州総管」を帯びていた徐円朗が武徳四年八月「挙兵反、以応劉黒闥、僭称魯王」と離反。武徳七年五月「李世勣討徐圓朗、平之」で鎮圧完了。

被反乱621年8月〜624年5月徐圓朗の反乱

首謀者: 徐圓朗

結果: 鎮圧成功(平定)

鎮圧回数の同事例参照。

反乱鎮圧622年3月〜624年2月高開道の反乱

首謀者: 高開道

結果: 鎮圧成功(配下に殺害され、その地が唐に降る)

武徳三年十月に帰順し「蔚州総管」「北平郡王」等唐の官爵を受けていたが、武徳五年三月「蔚州総管、北平王高開道叛、寇易州」と離反、突厥と結んで幽州等を侵寇。武徳七年二月「高開道為部将張金樹所殺、以其地降」で実質的に鎮圧完了。

被反乱622年3月〜624年2月高開道の反乱

首謀者: 高開道

結果: 鎮圧成功(配下に殺害され、その地が唐に降る)

鎮圧回数の同事例参照。

反乱鎮圧623年8月〜624年3月輔公祏の反乱

首謀者: 輔公祏

結果: 鎮圧成功(捕縛・丹陽平定)

杜伏威配下で唐の官職「東南道行台僕射」にあった輔公祏が武徳六年八月壬子「拠丹陽反、僭称宋王」と離反。武徳七年三月戊戌「趙郡王孝恭大破輔公祏、擒之、丹陽平」(李靖も討伐に参加)で鎮圧完了。

被反乱623年8月〜624年3月輔公祏の反乱

首謀者: 輔公祏

結果: 鎮圧成功(捕縛・丹陽平定)

鎮圧回数の同事例参照。

大赦日付不詳武徳四年秋七月甲子、秦王(太宗)が王世充を降し凱旋・献俘於太廟した直後、「丁卯、大赦天下。

武徳四年秋七月甲子、秦王(太宗)が王世充を降し凱旋・献俘於太廟した直後、「丁卯、大赦天下。廢五銖錢、行開元通寶錢」と記載。乙丑=甲子の翌々日丁卯の大赦。

出典: 旧唐書 巻一 本紀第一(高祖)

大赦日付不詳武徳七年夏四月庚子、「大赦天下、頒行新律令」。

武徳七年夏四月庚子、「大赦天下、頒行新律令」。新律令頒布に伴う大赦。

出典: 旧唐書 巻一 本紀第一(高祖)

大赦日付不詳武徳九年六月庚申(玄武門の変当日)、「詔立秦王為皇太子、繼統萬機、大赦天下」。

武徳九年六月庚申(玄武門の変当日)、「詔立秦王為皇太子、繼統萬機、大赦天下」。高祖在位中の発布。八月に譲位する前の出来事。

出典: 旧唐書 巻一 本紀第一(高祖)

収録基準・各項目の数え方・出典はこのサイトについてを、時代の中での位置は通史年表をご覧ください。