本文へスキップ

高祖の肖像画

唐第1代

高祖李淵

在位 618–626年(8年77日)618年6月18日 〜 626年9月3日

日本は飛鳥時代

617年に太原で兵を挙げ、翌年に隋の恭帝から位を譲られて唐を建てた初代皇帝である。

高祖の人物データ

生年
566年
在位
  • 618年6月18日〜626年9月3日
8年77日長い順144位/365人53歳で即位(数え年)626年に太宗に位を譲り(内禅)、9年後の635年に没
没年
635年6月25日70歳(数え年)長生き順同率12位/266人
死因
同じ死因169人/365人
即位経路
(易姓)
先代
次代
  • 太宗唐太宗は高祖の子
呼び名
姓李諱淵字叔徳呼び名の見方

出典

在位
旧唐書 本紀第一 高祖
死因
旧唐書 巻一 本紀第一(高祖)
即位経路
旧唐書 巻一 本紀第一(高祖)

生涯

どんな皇帝か

旧唐書のは、度量が大きく闊達で飾らず、寛大で人を受け入れ、身分を問わず皆に好かれたと記す。同じ本紀のは、刑罰を軽くしたことを称えつつ、優柔で決断に欠け讒言が通ったと批判し、聖なる子がいなければ王業は危うかったと結ぶ。

即位まで

566年に長安で生まれ、7歳で唐国公を継いだ。隋の独孤皇后は母の姉妹で、特に目をかけられた。妻の竇氏の父は、屏風の孔雀の目を射当てた者に娘を嫁がせると決めており、数十人が外すなか、李淵は2本とも目に当てた。竇氏に駿馬を煬帝へ献じるよう勧められても決めかねて咎めを受け、竇氏の没後に鷹や犬を献じて将軍になると、早くお前たちの母に従っていればと子らに泣いて言った。617年、の李淵のもとで、子の李世民と晋陽令の劉文静が挙兵を謀った。晋陽宮の副監の裴寂が、を李淵に侍らせたうえで打ち明けると、李淵は、我が子の計が定まっているなら従ってよいと答えた。の王威らを斬って兵を挙げ、長安を攻め落として代王楊侑を天子に立て、その詔で唐王に進められた。618年、恭帝の譲位を辞退したのち受け、太極殿で即位して武徳とした。

史料について

打ち明けの場面は旧唐書の裴寂伝による。新唐書の本紀では、知らなかった李淵が大いに驚き、はじめは拒むふりをしたのちに許した。温大雅の唐創業起居注は逆に、李淵自身が太原留守となった時から挙兵を望んでいたと描く。資治通鑑考異は、この書の突厥への書や隋の使者の条を、事情に合わない、功を高祖に帰そうとしたものとして採らない。

治世と最期

即位後は裴寂を重んじ、劉文静を殺した。裴寂を朝政で必ず同じ座に着かせ、名を呼ばずに裴監と呼んだ。619年、酔って裴寂を斬ると言った劉文静が訴えられ、取り調べで恨みを認めると、李淵は謀反は明白だと言い、李世民らの弁護を退けて殺した。文静は、良い弓はしまわれるというのは本当だったと嘆いた。623年に裴寂が引退を願うと、涙を流し、公はに、自分はとなって気ままに過ごそうと引き留めた。

626年、李世民は兄の皇太子李建成と弟の李元吉を誅し、詔で皇太子に立てられた。海池で舟遊び中に変を知らされた李淵は、秦王を太子にとの勧めに、自分の宿願だと答えた。同じ年に位を譲って太上皇となった。

634年、宴で突厥の頡利可汗に舞わせ、南越の酋長に詩を詠ませて、胡と越が一家となるのは昔から無かったと笑った。前年の秋からを患い、635年に太安宮で没した。

史料について

海池の場面は資治通鑑による。旧唐書は、本紀にも尉遅敬徳伝にも、宿願だと答えたくだりを書かない。没した年齢は、旧唐書が70、新唐書が71とする。

高祖とつながる皇帝

隋末唐初の勢力図(618年)

勢力図

隋末唐初の勢力図で見る

618–626年の地図に、高祖が治めた国が描かれています。

在位中の出来事

反乱7・改元1・大赦4
  1. 改元618年6月18日元号を「武徳」とする
  2. 618年6月18日
  3. 反乱618年11月〜619年李軌(涼王)の反乱
  4. 反乱619年李密の反乱
  5. 反乱621年稽胡の反乱
  6. 反乱621–624年徐圓朗の反乱
  7. 反乱621–623年劉黒闥の反乱
  8. 反乱622–624年高開道の反乱
  9. 反乱623–624年輔公祏の反乱
  10. 日付不詳
  11. 日付不詳
  12. 日付不詳

唐の歴代皇帝

歴代21人の一覧

年表

唐の時代を年表で見る

唐が中国史のどこにあたるか、同じ時代の王朝と前後の時代を並べて見られます。

即位経路が「受禅(易姓)」の18名をデータベースで見る

収録基準・各項目の数え方・出典はこのサイトについてを、ほかの皇帝は皇帝一覧をご覧ください。