中国皇帝統計

哀帝

唐|在位 904–907年

諱(本名)
李柷
在位
904–907年
在位期間
2年248日365名中236位
即位経路
擁立
死因
暗殺
即位時年齢
13歳(数え年)172名中・若い順40位タイ
没年齢
17歳(数え年)269名中・長寿順249位タイ
改元
0
大赦
0
立后
0
皇太子廃立
0
親征
0
反乱鎮圧
0
被反乱
0
遷都
0

順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。諡号:哀皇帝

即位の経緯

天祐元年八月十二日、父昭宗が朱全忠配下の蒋玄暉らに弑殺された翌日、蒋玄暉が矯詔(偽の遺詔)により当時13歳の輝王祚を皇太子に立て柷と改名、同月十五日(丙午)柩前で即位させた。本人の主体的な行為ではなく、父を弑逆した朱全忠一派による擁立即位のため擁立と判定(後漢献帝・唐李裕等の先例と同型)。

出典: 旧唐書 巻二十下(哀帝紀)

死因の経緯

禅譲後、済陰王に降封され曹州(氏叔琮の旧邸)に幽閉された。開平二年(908年)二月、朱全忠の命により鴆殺(毒殺)された。『資治通鑑』巻266(後梁紀一、開平二年二月)に「癸亥,鴆殺済陰王于曹州,追諡曰唐哀皇帝」と明記。『旧唐書』哀帝紀も「帝為全忠所害、時年十七」とし、天祐五年(旧臣が唐の年号で表記)二月二十一日と日付を記す。唐朝は既に滅亡し済陰王という降封身分での密殺であり、同様の先例(東晋恭帝・劉宋順帝・東魏孝静帝)に倣い暗殺に分類した。

出典: 旧唐書 巻二十下(哀帝紀)/資治通鑑 巻266(後梁紀一・開平二年)

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

在位中(天祐元年八月〜四年四月)、父昭宗の代から続く「天祐」の元号をそのまま継続使用し、自身による新たな建元は行っていない(禅譲の詔でも改元の宣言はなし)。開平(後梁太祖の年号)への改元は退位後、朱全忠自身の即位に伴うものであり哀帝自身の治世には該当しない。

大赦回数

『旧唐書』哀帝紀(巻二十下)を通読したが、即位に伴う大赦を含め在位中に「大赦」「大赦天下」と明記される記事は見当たらない。天祐二年五月辛亥条に彗星出現に伴う「徳音」(京畿の軍鎮諸司禁囚を対象にした限定的な減刑)はあるが、全国規模の大赦ではないため対象外。父昭宗弑殺後の混乱と朱全忠一派による政治的統制下、慣例的な即位恩赦すら発せられなかった。

立后回数

哀帝紀を通読したが皇后冊立の記事はない。即位時13歳、崩御時17歳という短い在位・生涯であり、在位中を通じて皇后は不在であったとみられる。

皇太子廃立回数

哀帝紀を通読したが在位中(3年弱)に皇太子が立てられた記事自体が存在せず、廃立の記録もない。哀帝自身も嗣子を残さぬまま17歳で没した。

親征回数

哀帝紀を通読したが、皇帝自身が軍を率いて出征した記事はない。在位中の軍事行動(荊襄への出兵等)はすべて朱全忠が元帥として指揮しており、哀帝本人の親征は皆無。

反乱鎮圧回数

哀帝紀を通読したが、哀帝側(朝廷)が主体となって反乱を鎮圧した記事はない。荊襄の趙匡凝討伐等はいずれも朱全忠が独自に指揮した勢力争いであり、哀帝の朝廷による鎮圧行動とは言えない。

被反乱回数

哀帝紀を通読したが、哀帝の朝廷に対する武装反乱・クーデターの記事はない。在位中の唯一の弑逆的暴力(父昭宗の弑殺)は即位前の出来事であり本人の在位中には該当しない。柳璨・裴枢ら朝臣の粛清(白馬の禍)は朱全忠一派による一方的な処断であり、朝廷への武力反乱ではないため対象外。

遷都回数

長安から洛陽への強制遷都は即位前年の天祐元年正月、父昭宗の代に朱全忠の主導で完了しており(tang-zhaozongのcapitalRelocationCountに計上済み)、哀帝自身の在位中(洛陽奠都後)に新たな遷都は発生していない。

即位時年齢・没年齢

『旧唐書』哀帝紀冒頭「景福元年九月三日、生於大内」、即位記事「帝時年十三」、崩御記事「帝為全忠所害、時年十七」といずれも直接記載があり、数え年の記載として採用。生年月日・崩御日はsxtwlによる旧暦→新暦換算(景福元年九月三日→892-09-27、天祐五年二月二十一日→908-03-25)。

収録基準・各項目の数え方・出典はこのサイトについてを、時代の中での位置は通史年表をご覧ください。