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唐第24代()

哀帝李柷

在位 904–907年(2年248日)904年9月26日 〜 907年6月1日

日本は平安時代

父の昭宗を殺させた朱全忠に擁立され、朱全忠に位を譲って唐を終わらせ、翌年に殺された唐の最後の皇帝である。

哀帝の人物データ

生年
892年9月27日
在位
  • 904年9月26日〜907年6月1日
2年248日長い順234位/365人13歳で即位(数え年)907年に在位を終え、1年後の908年に没
没年
908年3月25日17歳(数え年)長生き順同率246位/266人
死因
同じ死因92人/365人
即位経路
先代
  • 昭宗唐哀帝は昭宗の子
次代
  • 太祖朱全忠後梁・五代十国太祖と哀帝に血縁はない
呼び名
姓李諱柷諡号哀皇帝呼び名の見方

出典

在位
旧唐書 巻二十下(哀帝紀)
死因
旧唐書 巻二十下(哀帝紀)/資治通鑑 巻266(後梁紀一・開平二年)
即位経路
旧唐書 巻二十下(哀帝紀)

生涯

どんな皇帝か

旧唐書のは、哀帝の時の政治は凶悪な一族から出たとし、譲位は後漢の献帝に似るが、追い詰めた権勢は侯景を超えたと述べる。

即位まで

昭宗の第九子で、母は何氏である。892年に生まれ、897年に輝王に封じられた。904年、朱全忠の命で昭宗が殺された夜、捕らえられた母の何皇后は命乞いをして蒋玄暉に放された。翌日、蒋玄暉が詔と令を偽って輝王を皇太子に立て、柩の前での即位を命じ、輝王は数日後に即位した。

史料について

偽ったのを、旧唐書のと資治通鑑は蒋玄暉とし、旧唐書の后妃伝は令を偽ったのを宰相の柳璨らとし、新唐書の本紀は朱全忠が詔を偽ったとする。令を、旧唐書の本紀は皇太后の令、資治通鑑は皇后の令と書く。

治世と最期

905年、九曲池の宴で徳王らが殺され、白馬駅では裴枢らが殺されて屍は黄河に投げられた。同じ年、哀帝が天を祀る予定だったが、蒋玄暉らが唐の命運を延ばそうとしていると朱全忠が怒っていると伝わり、翌年に延期された。朱全忠の怒りを憂えた哀帝は、位を譲るよう勧める柳璨に、今日の天下はわたしの天下ではないと答え、柳璨を大梁へ遣わした。

905年の暮れ、蒋玄暉が斬られると、何太后も朱全忠の命で殺された。翌日に哀帝の名で出た敕が太后をに落とし、のちの敕は宮中の内乱を理由に、哀帝がに参ることを取りやめた。907年、朱全忠にを勧めた薛貽矩が、全忠に受代の意があると奏すると、哀帝はかねての思いだと答えての詔を下し、全忠は偽って辞退した。哀帝は済陰王とされて曹州に移された。

908年、朱全忠に殺された。

史料について

九曲池で殺された王を、旧唐書は蒋玄暉が殺した九人とし、新唐書は朱全忠が殺した七人とする。柳璨を遣わした場面を、新唐書の柳璨伝は柳璨が帝を脅して自ら行ったとし、資治通鑑は帝の言葉を載せず、全忠が拒んだとする。殺し方を、旧唐書は記さず、資治通鑑は毒で殺したとする。

哀帝とつながる皇帝

唐の勢力図(904年)

勢力図

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904–906年の地図に、哀帝が治めた国が描かれています。

唐の歴代皇帝

歴代21人の一覧

年表

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唐が中国史のどこにあたるか、同じ時代の王朝と前後の時代を並べて見られます。

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