哀帝の人物データ
- 生年
- 892年9月27日
- 在位
- 904年9月26日〜907年6月1日
- 没年
- 908年3月25日17歳(数え年)長生き順同率246位/266人
- 死因
- 暗殺同じ政権の中の家臣・皇族・宦官などに殺された死。毒殺も含む。非業の死このサイトでは、暗殺・処刑・戦死・自害の4つをまとめて非業の死と呼んでいる。同じ死因92人/365人
- 即位経路
- 擁立同じ王朝の先代の跡を継いだが、誰を立てるかを決めたのは臣下・軍・宦官・外戚・皇太后・皇族など、先の皇帝以外だった即位。
- 先代
- 昭宗唐哀帝は昭宗の子
- 次代
- 太祖朱全忠後梁・
五代十国 太祖と哀帝に血縁はない
- 太祖朱全忠後梁・
- 呼び名
- 姓李諱柷諡号哀皇帝呼び名の見方
出典
- 在位
- 旧唐書 巻二十下(哀帝紀)
- 死因
- 旧唐書 巻二十下(哀帝紀)/資治通鑑 巻266(後梁紀一・
開平二年) - 即位経路
- 旧唐書 巻二十下(哀帝紀)
生涯
どんな皇帝か
旧唐書の史臣歴史書を編み、その中で評を述べた人は、哀帝の時の政治は凶悪な一族から出たとし、譲位は後漢の献帝に似るが、追い詰めた権勢は侯景を超えたと述べる。
即位まで
昭宗の第九子で、母は何氏である。892年に生まれ、897年に輝王に封じられた。904年、朱全忠の命で昭宗が殺された夜、捕らえられた母の何皇后は命乞いをして蒋玄暉に放された。翌日、蒋玄暉が詔と令を偽って輝王を皇太子に立て、柩の前での即位を命じ、輝王は数日後に即位した。
史料について
偽ったのを、旧唐書の本紀皇帝ごとの出来事を年代順に書いた記録やその部分と資治通鑑は蒋玄暉とし、旧唐書の后妃伝は令を偽ったのを宰相の柳璨らとし、新唐書の本紀は朱全忠が詔を偽ったとする。令を、旧唐書の本紀は皇太后の令、資治通鑑は皇后の令と書く。
治世と最期
905年、九曲池の宴で徳王ら諸王王に取り立てられた皇族たちが殺され、白馬駅では裴枢らが殺されて屍は黄河に投げられた。同じ年、哀帝が天を祀る予定だったが、蒋玄暉らが唐の命運を延ばそうとしていると朱全忠が怒っていると伝わり、翌年に延期された。朱全忠の怒りを憂えた哀帝は、位を譲るよう勧める柳璨に、今日の天下はわたしの天下ではないと答え、柳璨を大梁へ遣わした。
905年の暮れ、蒋玄暉が斬られると、何太后も朱全忠の命で殺された。翌日に哀帝の名で出た敕が太后を庶人官位や身分を持たない、ふつうの民に落とし、のちの敕は宮中の内乱を理由に、哀帝が郊廟天地の祭りと祖先の祭りを行う場に参ることを取りやめた。907年、朱全忠に禅代位を譲り受けて前の王朝に代わることを勧めた薛貽矩が、全忠に受代の意があると奏すると、哀帝はかねての思いだと答えて禅位皇帝が位をほかの人に譲ることの詔を下し、全忠は偽って辞退した。哀帝は済陰王とされて曹州に移された。
908年、朱全忠に殺された。
史料について
九曲池で殺された王を、旧唐書は蒋玄暉が殺した九人とし、新唐書は朱全忠が殺した七人とする。柳璨を遣わした場面を、新唐書の柳璨伝は柳璨が帝を脅して自ら行ったとし、資治通鑑は帝の言葉を載せず、全忠が拒んだとする。殺し方を、旧唐書は記さず、資治通鑑は毒で殺したとする。
哀帝とつながる皇帝

勢力図
唐の勢力図で見る
904–906年の地図に、哀帝が治めた国が描かれています。
唐の歴代皇帝
歴代21人の一覧- 第1代高祖李淵618–626年病死
- 第2代太宗626–649年諸説あり
- 第3代高宗649–683年病死
- 第4・6代中宗683–684年705–710年(復位)暗殺
- 第5・8代睿宗684–690年710–712年(復位)病死
- 周武則天690–705年病死
- 第7代殤帝710年不詳
- 第9代玄宗712–756年病死
- 第10代粛宗756–762年病死
- 第11代代宗762–779年病死
- 第12代徳宗779–805年病死
- 第13代順宗805年病死
- 第14代憲宗805–820年暗殺
- 第15代穆宗820–824年病死
- 第16代敬宗824–826年暗殺
- 第17代文宗826–840年病死
- 第18代武宗840–846年病死
- 第19代宣宗846–859年病死
- 第20代懿宗859–873年病死
- 第21代僖宗873–888年病死
- 第22・23代昭宗888–900年901–904年(復位)暗殺
- 第24代哀帝904–907年暗殺
- 歴代外李裕900–901年暗殺
- 歴代外李承宏763年不詳
- 歴代外襄王李熅886年処刑
年表
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