李裕の人物データ
- 生年
- 不詳
- 在位
- 900年12月4日〜901年1月23日
- 没年
- 905年3月年齢不詳
- 死因
- 暗殺同じ政権の中の家臣・皇族・宦官などに殺された死。毒殺も含む。非業の死このサイトでは、暗殺・処刑・戦死・自害の4つをまとめて非業の死と呼んでいる。同じ死因92人/365人
- 即位経路
- 擁立同じ王朝の先代の跡を継いだが、誰を立てるかを決めたのは臣下・軍・宦官・外戚・皇太后・皇族など、先の皇帝以外だった即位。対立・僭称の皇帝同じ国号のまま、歴代の皇帝の系統の外で皇帝を名乗った人(多くは歴代の皇帝と並び立った)。その王朝の正史は、この人の本紀(皇帝としての伝)を立てていない。
- 先代
- 昭宗唐李裕は昭宗の子
- 次代
- 昭宗唐復位による継承・
昭宗は李裕の父
- 昭宗唐復位による継承・
- 呼び名
- 姓李諱裕別称李縝呼び名の見方
出典
- 在位
- 旧唐書 本紀第二十上 昭宗(在位年月日の典拠)/新唐書 列傳(徳王裕、身分確認)
- 死因
- 旧唐書 巻二十上(昭宗)/新唐書 巻82(十一宗諸子・
徳王裕伝) - 即位経路
- 旧唐書 巻二十上(昭宗)
生涯
どんな皇帝か
昭宗が復位すると徳王に降され、両唐書の本紀皇帝ごとの出来事を年代順に書いた記録やその部分と資治通鑑によれば905年に殺された。調べた範囲の正史国が正式なものと認めた、王朝ごとの歴史書と資治通鑑に、本人の言葉は見当たらない。
即位まで
昭宗の長子で、891年に王に封じられ、897年、華州にいた昭宗に韓建が請うて皇太子とされた。900年、宦官の劉季述と王仲先が昭宗を廃して幽閉し、詔を偽って太子に位を嗣がせ、名を縝と改めさせた。
史料について
太子が宮中に入った経緯を、新唐書の后妃伝は邸へ帰る途中で劉季述に留められ、翌日に担がれたとし、劉季述伝は宮監が夜にひそかに連れて入ったとする。
治世と最期
901年、孫徳昭らが王仲先を殺して昭宗が復位すると、李裕は宦官に匿われたのち、徳王に降された。殺すべきだという声に、昭宗は、李裕は幼く賊に立てられたのだと答えて許した。
成長していく李裕を朱全忠は憎み、崔胤を通じて殺害を求めたが、昭宗は聞き入れず、のちに問われた朱全忠は崔胤のせいにして否んだ。長安を離れたのち、昭宗は蒋玄暉に、徳王は朕の愛子なのになぜ全忠は殺そうとするのかと泣いて語った。905年、朱全忠の意を受けた蒋玄暉が、李裕ら諸王王に取り立てられた皇族たちを九曲池の宴に招き、酔ったところを縊り殺して池に投げ入れた。
史料について
匿われた先を、資治通鑑と新唐書の劉季述伝は左軍、両唐書の皇子の伝は右軍とする。殺された王を、旧唐書の本紀と資治通鑑は九人、新唐書の本紀は七人とし、新唐書の本紀は殺したのを朱全忠とする。旧唐書の列伝は六王とし、日を昭宗が弑された日とする。確かめた史書のどれにも、李裕本人の言葉は残っていない。
李裕とつながる皇帝
在位中の出来事
反乱1
- 反乱901年1月22日(旧暦年だけを書く所は、教科書・辞典と同じく、元号の年に当たる西暦の年で書いています。旧暦の年末(11・12月)は西暦では翌年の1・2月に入るので、日付の年が1つ後ろになります。 年の書き方 900年12月29日)孫徳昭の反正(劉季述傀儡政権打倒のクーデター)
唐の歴代皇帝
歴代21人の一覧- 第1代高祖李淵618–626年病死
- 第2代太宗626–649年諸説あり
- 第3代高宗649–683年病死
- 第4・6代中宗683–684年705–710年(復位)暗殺
- 第5・8代睿宗684–690年710–712年(復位)病死
- 周武則天690–705年病死
- 第7代殤帝710年不詳
- 第9代玄宗712–756年病死
- 第10代粛宗756–762年病死
- 第11代代宗762–779年病死
- 第12代徳宗779–805年病死
- 第13代順宗805年病死
- 第14代憲宗805–820年暗殺
- 第15代穆宗820–824年病死
- 第16代敬宗824–826年暗殺
- 第17代文宗826–840年病死
- 第18代武宗840–846年病死
- 第19代宣宗846–859年病死
- 第20代懿宗859–873年病死
- 第21代僖宗873–888年病死
- 第22・23代昭宗888–900年901–904年(復位)暗殺
- 第24代哀帝904–907年暗殺
- 歴代外李裕900–901年暗殺
- 歴代外李承宏763年不詳
- 歴代外襄王李熅886年処刑
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