李裕・李縝
唐|在位 900–901年
- 諱(本名)
- 李裕
- 在位
- 900–901年
- 在位期間
- 51日365名中351位
- 即位経路
- 擁立
- 死因
- 暗殺
- 即位時年齢
- 不詳
- 没年齢
- 不詳
- 改元
- 0回
- 大赦
- 0回
- 立后
- 0回
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 0回
- 被反乱
- 1回289名中203位タイ
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
乾寧4年に皇太子に冊立。光化3年11月、宦官劉季述・王仲先が昭宗を幽閉するクーデターを起こし、皇太子裕を擁立して即位させた。本人の主体的簒奪行為はなく宦官主導の傀儡的即位のため擁立。天復元年正月の反クーデターで廃位、徳王に降格。
出典: 旧唐書 巻二十上(昭宗)
死因の経緯
天祐2年2月、枢密使蒋玄暉が徳王裕以下九王を九曲池の宴に招き、泥酔させた上で全員絞殺し遺体を隠匿した。哀帝のもとで唐朝は名目上存続しており、朱全忠配下による欺瞞的な宴席での秘密裏の謀殺のため暗殺と判定。
出典: 旧唐書 巻二十上(昭宗)/新唐書 巻82(十一宗諸子・徳王裕伝)
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
傀儡皇帝としての在位期間(光化3年〔900〕11月庚寅、劉季述らにより擁立〜天復元年〔901〕正月甲申、孫徳昭らの反正により廃位)を通じて、独自の建元・改元は行われていない。旧唐書本紀(巻二十上・昭宗紀)は「甲午,宣上皇制,太子登皇帝位」(光化3年11月)とし、その後も「十二月乙卯朔」と光化3年の紀年のまま記述が続き、廃位後の「天復元年春正月甲申朔,昭宗反正」で初めて改元後の年号(天復)が用いられている。新唐書本紀(巻十)も同様に「辛卯,季述以皇太子裕為皇帝」(光化3年11月、光化の紀年下)とし、天復への改元は昭宗復位後の「四月甲戌…大赦天下,改元天復」の記事として別途記載されている。旧唐書列伝(巻一百二十五・徳王裕伝)も「光化末,枢密使刘季述、王仲先等幽昭宗於東門,冊裕為帝」とあるのみで新元号制定の記載はなく、在位中は光化年号がそのまま継続使用されたことが確認できる(傀儡皇帝であり、そもそも新元号を立てる主体性も期間もなかったと考えられる)。
大赦回数
光化3年11月庚寅の擁立から12月癸未の孫徳昭らによる反正までの在位約1ヶ月間、旧唐書・新唐書の本紀・列伝いずれにも「大赦」「大赦天下」の記載はない。擁立時には「賜百僚銀一千五百両、絹千匹、綿万両」という恩賜の記録があるのみで、全国規模の大赦ではない。なお乾寧4年(897)の立太子時に「太赦」の記事があるが(新唐書本紀)、これは昭宗在位下・皇太子時代の出来事であり、本人が皇帝として在位した期間外のため対象外とした。
立后回数
在位期間中に皇后を冊立した記載は旧唐書・新唐書のいずれにも見当たらない。
皇太子廃立回数
在位期間が約1ヶ月と極めて短く、自身の皇太子を立てた記録も廃した記録も原典に見当たらない。
親征回数
在位期間(光化3年〔900〕11月庚寅の擁立〜天復元年〔901〕正月の廃位まで約51日間)を通じ、旧唐書(巻二十上・昭宗紀)・新唐書(巻82・徳王裕伝)のいずれにも李裕(皇太子裕)自身が軍を率いて出征した記録はない。宦官劉季述・王仲先に擁立された傀儡皇帝であり、軍事行動の主体となる立場になかった。
反乱鎮圧回数
在位約51日間、李裕(皇太子裕)の政権側が主体となって反乱・離反を鎮圧した記録は旧唐書・新唐書のいずれにも見当たらない。天復元年正月の孫徳昭らによる反正クーデターの際も、新唐書列伝に『季述誅せらるるや、裕は右軍に匿る』とあるように受動的に身を隠す立場であり、鎮圧の主体ではなかった。
被反乱回数
唯一の該当事象は孫徳昭らによる反クーデター(上記events参照)。それ以外に李裕自身の政権に対する武装反抗行動の記録は在位約51日間の中に見当たらない。
遷都回数
旧唐書・新唐書を通読。該当在位期間中に新たな遷都の記録なし(684年洛陽遷都は睿宗期、705年長安復都は中宗復位期、904年洛陽強制遷都は昭宗期の出来事として各々計上済み)。
即位時年齢・没年齢
旧唐書(巻二十上・昭宗紀)・新唐書(巻82・十一宗諸子・徳王裕伝)を確認したが、李裕(皇太子裕、徳王裕)本人の生年月日・即位時年齢・没時年齢の直接記載(「時年」等)は見当たらなかった。新唐書列伝に『昭宗十七子:積善皇后生裕及哀皇帝』とあり、同母弟哀帝(李柷、892年生、天祐5年〔908〕2月21日没・時年17と明記)より年長であることは分かるが、具体的な生年は不明。死亡年月は既存deathCauseの記載(天祐2年〔905〕2月、九曲池の宴で蒋玄暉により絞殺)を月精度で転記した。
在位中の出来事(1件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
被反乱901年1月24日孫徳昭の反正(劉季述傀儡政権打倒のクーデター)
首謀者: 孫徳昭・周承誨・董彦弼(護駕の禁軍将領。当時盐州都将ら)
結果: 光化3年(900)12月癸未夜、孫徳昭ら禁軍将領が兵を率いて劉季述・王仲先を襲撃し王仲先を殺害、東内に幽閉されていた昭宗を救出・復位させた。翌天復元年正月、劉季述も撲殺され、皇太子裕(当時の在位皇帝)は皇帝位を追われて徳王に降格・改名(祐)となった。旧唐書巻二十上に『護駕盐州都将孫徳昭、周承誨、董彦弼以兵攻刘季述、王仲先,杀仲先』、新唐書巻82に『刘季述等幽帝东内,奉裕即皇帝位。季述诛,裕匿右军,或请杀之』とある。
禁軍将領(近衛兵等)が兵力を伴って擁立政権を打倒し、在位中の皇帝(李裕)を武力によって廃位に追い込んだ事例のため、判定基準の類型4(朝廷内部の権力者による兵力を伴う弑逆・クーデター)に該当するとしてrebellionSufferedCountに算入した。李裕側がこれを鎮圧した事実はないためrebellionSuppressionCountには計上していない(クーデター成功により廃位・降格となった側であるため)。日付は既存reigns[].endDate(0901-01-24)と同一の政変前後の時点を採用した。