太宗
唐|在位 626–649年

- 諱(本名)
- 李世民
- 廟号
- 太宗
- 在位
- 626–649年
- 在位期間
- 22年315日365名中48位
- 即位経路
- 禅譲
- 死因
- 諸説あり
- 即位時年齢
- 29歳(数え年)172名中・若い順109位タイ
- 没年齢
- 52歳(数え年)269名中・長寿順74位タイ
- 改元
- 1回332名中142位タイ
- 大赦
- 6回267名中67位タイ
- 立后
- 1回204名中52位タイ
- 皇太子廃立
- 1回29名中5位タイ
- 親征
- 1回112名中62位タイ
- 反乱鎮圧
- 7回225名中58位タイ
- 被反乱
- 7回289名中71位タイ
- 遷都
- 0回
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順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
玄武門の変(武徳9年6月4日)で兄弟を殺害した後、父高祖から正式に譲位を受けた。形式上は禅譲だが実質は迫られた譲位。
出典: 旧唐書 巻一(高祖、武徳九年条)
死因の経緯
本紀は「崩」とのみ記すが、旧唐書列伝(郝処俊伝)に方士那羅邇娑婆の「延年之薬」を服用後「大漸」(急速に重体化)した記述があり、憲宗紀では宰相李藩が「文皇帝服胡僧長生薬,遂致暴疾不救」と明言している。正史内部(本紀外だが同一史書)に丹薬中毒による急死説の根拠があるため諸説ありとする。
出典: 旧唐書 巻二(太宗上)/旧唐書 巻八十四(郝処俊伝)/旧唐書 憲宗紀下(元和五年八月)
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
『旧唐書』太宗紀上下(巻二・巻三)を通読した限り、太宗の在位中に使用された年号は「貞観」のみであり、貞観元年正月の改元以降、貞観23年5月の崩御まで再度の改元は行われていない。したがって改元回数は1回。
大赦回数
『旧唐書』太宗紀上下(巻二・巻三)を通読し、「大赦」「大赦天下」と明記された全国規模の恩赦を6件確認した。「曲赦」(隴・岐二州、三原県、西州、涼州、并州など地域限定の恩赦)は複数回記録されているが、収録基準に従い全国規模の大赦のみをカウントし除外した。
立后回数
長孫皇后は貞観10年6月己卯に立政殿にて崩御した(旧唐書巻三、貞観10年条「皇后长孙氏崩于立政殿」)。太宗はその後、貞観23年5月の崩御まで新たな皇后を立てておらず、立后は生涯で1回のみである。
皇太子廃立回数
太宗の在位中に正式に立てられた皇太子は李承乾(武徳9年10月立太子、旧唐書巻二)のみであり、貞観17年4月に謀反関与により廃立された。これが唯一の廃立事例。その後継の晋王治(後の高宗)は太宗の崩御(貞観23年)まで廃されていない。立太子そのもの(承乾・晋王治いずれも)はカウント対象外。
親征回数
旧唐書巻二・巻三(太宗紀上下)を通読し、即位(武徳9年8月癸亥=626年9月4日)以降に皇帝自身が軍を率いて戦場に赴いた事例を確認した結果、貞観19年の高句麗親征1回のみを確認した。突厥(貞観4年)・吐谷渾(貞観8-9年)・高昌(貞観14年)・薛延陀(貞観15年・20年)・龜茲(貞観21-22年)への軍事行動はいずれも李靖・李勣・侯君集ら将軍への派遣によるもので、皇帝本人の出陣を示す記述がないため除外した。
反乱鎮圧回数
旧唐書巻二・巻三を通読し、即位後(626年9月以降)に朝廷側が鎮圧主体となった反乱7件を確認した。義安王孝常・劉德裕の謀反(貞観2年)、右衛将軍劉蘭の謀反(貞観17年)、皇太子承乾・漢王元昌・侯君集の謀反(貞観17年、crownPrinceDepositionCountで別途計上済み)、刑部尚書張亮の謀反(貞観20年)はいずれも「謀反、伏誅」の定型句のみで挙兵・武力衝突の記述がなく、密告・摘発のみで終わった謀反計画と判断し除外した。阿史那結社爾が御営を犯した事件(貞観13年)は「犯御营,伏诛」とのみ記され、組織的な兵力を伴う蜂起か単独犯行かを判断する情報が本紀の記述からは不十分なため除外した。吐谷渾王慕容順光が部下に弑逆された事件(貞観12年)は服属国内部の権力闘争であり、唐に対する明確な武装反乱と読み取れる記述がないため除外した。突厥・吐谷渾・高昌・薛延陀・龜茲への軍事行動は、いずれも唐に服属していない独立勢力への対外戦争であり鎮圧対象に含めていない。
被反乱回数
rebellionSuppressionCountで確認した7件の反乱は、いずれも朝廷(皇帝側)が鎮圧主体であった服属地域・服属官人による武装反抗であり、被反乱としても同一の7件をそのまま計上した(両者が完全一致するケース)。除外理由はrebellionSuppressionCount.noteに記載した内容と同じ(謀反計画のみで挙兵に至らなかった事例、組織的武力行使が不明確な事例、服属国内部の権力闘争、独立外国勢力との対外戦争は被反乱にも含めていない)。
遷都回数
旧唐書・新唐書を通読。該当在位期間中に新たな遷都の記録なし(684年洛陽遷都は睿宗期、705年長安復都は中宗復位期、904年洛陽強制遷都は昭宗期の出来事として各々計上済み)。
即位時年齢・没年齢
既存データを継承。旧唐書巻二冒頭に「隋开皇十八年十二月戊午,生于武功之别馆」、巻三末尾の貞観二十三年五月己巳条に「上崩于含风殿,年五十二」と明記。accessionAgeは本紀に直接記載がないため、崩御時の数え年52歳(貞観23年=649年時点)から即位年(武徳9年=626年)までの年号年差分(649-626=23年)を減算して逆算した(52-23=29)。生年の干支(開皇十八年十二月戊午=陰暦上は598年扱い)と没年の数え年から算出した29という値は、即位記事付近を含む本紀を通読しても矛盾する記載がなく、確度は高いと判断した。
在位中の出来事(24件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
大赦626年9月4日武徳9年8月癸亥、高祖より譲位を受けて太宗が東宮顕徳殿にて即位した当日に「大赦天下」。
武徳9年8月癸亥、高祖より譲位を受けて太宗が東宮顕徳殿にて即位した当日に「大赦天下」。武徳元年以来の責情流配者を放還、文武官五品以上で無爵の者に爵位を1級加え、六品以下は加勲1転、天下に給復1年を付す等の付随措置あり。
出典: 旧唐書 巻二(太宗上)
立后626年9月17日武徳9年8月丙子(即位から13日後)、「立妃長孫氏為皇后」。
武徳9年8月丙子(即位から13日後)、「立妃長孫氏為皇后」。太宗の正妃・長孫氏(後の文徳皇后)を正式に皇后として冊立。
出典: 旧唐書 巻二(太宗上)
改元627年1月貞観元年正月乙酉、「改元」により武徳から貞観へ改元。
貞観元年正月乙酉、「改元」により武徳から貞観へ改元。太宗は武徳9年8月癸亥(626年9月4日)に即位したが、その年の残りは先帝高祖の年号「武徳」を継続使用し、踰年改元の慣行に従い翌年正月に「貞観」へ改元した。太宗即位に伴う最初かつ唯一の建元にあたる。
出典: 旧唐書 巻二(太宗上)
反乱鎮圧627年1月泾州の反乱
首謀者: 李艺(罗艺、燕郡王)
結果: 挙兵直後に部下に殺害され、首は京師に送られた(実質的な鎮圧完了として扱う)
旧唐書巻三、貞観元年正月辛丑「燕郡王李艺据泾州反,寻为左右所斩,传首京师」。
被反乱627年1月泾州の反乱
首謀者: 李艺(罗艺、燕郡王)
結果: 挙兵直後に部下に殺害され鎮圧に至った
旧唐書巻三、貞観元年正月辛丑。rebellionSuppressionCountと同一事件。
大赦628年3月貞観2年3月庚午、「大赦天下」。
出典: 旧唐書 巻二(太宗上)
大赦630年2月貞観4年2月甲寅、「大赦、賜酺五日」。
貞観4年2月甲寅、「大赦、賜酺五日」。東突厥の頡利可汗平定直後の時期。
出典: 旧唐書 巻三(太宗下)
反乱鎮圧634年1月東西五洞の反獠
首謀者: (記載なし、東西五洞の反獠)
結果: 右屯衛大将軍張士貴が討伐・平定
旧唐書巻三、貞観八年正月辛丑「右屯卫大将军张士贵讨东、西五洞反獠,平之」。服属地域の獠族による蜂起。
被反乱634年1月東西五洞の反獠
首謀者: (記載なし、東西五洞の反獠)
結果: 張士貴により鎮圧
旧唐書巻三、貞観八年正月辛丑。服属地域の獠族による蜂起。rebellionSuppressionCountと同一事件。
大赦635年3月貞観9年3月壬午、「大赦」。
貞観9年3月壬午、「大赦」。洮州の羌族反乱鎮圧に前後する時期の記事。
出典: 旧唐書 巻三(太宗下)
反乱鎮圧635年3月洮州羌の反乱
首謀者: (記載なし、洮州の羌族)
結果: 盐泽道総管高甑生が撃破
旧唐書巻三、貞観九年三月「洮州羌叛,杀刺史孔长秀」、同月乙酉「盐泽道总管高甑生大破叛羌之众」。刺史殺害を伴う服属地域の反乱。
被反乱635年3月洮州羌の反乱
首謀者: (記載なし、洮州の羌族)
結果: 刺史を殺害後、高甑生に撃破された
旧唐書巻三、貞観九年三月。rebellionSuppressionCountと同一事件。
反乱鎮圧638年2月夜郎の反獠
首謀者: (記載なし、夜郎の獠族)
結果: 夔州都督斉善行が討伐・平定
旧唐書巻三、貞観十二年二月甲子「夜郎獠反,夔州都督齐善行讨平之」。
被反乱638年2月夜郎の反獠
首謀者: (記載なし、夜郎の獠族)
結果: 斉善行に鎮圧された
旧唐書巻三、貞観十二年二月甲子。rebellionSuppressionCountと同一事件。
反乱鎮圧638年12月壁州の山獠反乱
首謀者: (記載なし、壁州の山獠)
結果: 右武候将軍上官懐仁が撃破
旧唐書巻三、貞観十二年十二月辛巳「右武候将军上官怀仁大破山獠于壁州」。夜郎の反獠(同年二月)とは時期・地域が異なるため別件として計上。
被反乱638年12月壁州の山獠反乱
首謀者: (記載なし、壁州の山獠)
結果: 上官懐仁に撃破された
旧唐書巻三、貞観十二年十二月辛巳。rebellionSuppressionCountと同一事件。
反乱鎮圧643年3月斉州の反乱
首謀者: 李祐(斉王祐)
結果: 討伐軍(李勣・劉徳威)派遣も到着前に部下の杜行敏に捕縛され降伏、内侍省で賜死
旧唐書巻三、貞観十七年三月丙辰「齐州都督齐王祐杀长史权万纪、典军韦文振,据齐州自守,诏兵部尚书李勣、刑部尚书刘德威发兵讨之。兵未至,兵曹杜行敏执之而降,遂赐死于内侍省」。皇帝の実子による武装反乱。
被反乱643年3月斉州の反乱
首謀者: 李祐(斉王祐)
結果: 皇帝の実子による武装蜂起。討伐軍到着前に部下に捕縛され降伏、賜死
旧唐書巻三、貞観十七年三月丙辰。rebellionSuppressionCountと同一事件。
大赦643年4月貞観17年4月丙戌(皇太子承乾廃立の6日後)、「立晋王治為皇太子、大赦、賜酺三日」。
貞観17年4月丙戌(皇太子承乾廃立の6日後)、「立晋王治為皇太子、大赦、賜酺三日」。新皇太子(晋王治、後の高宗)冊立に伴う大赦。
出典: 旧唐書 巻三(太宗下)
皇太子廃立643年4月貞観17年4月庚辰朔、「皇太子有罪、廃為庶人」。
貞観17年4月庚辰朔、「皇太子有罪、廃為庶人」。武徳9年10月癸亥に立てられた皇太子・李承乾(中山王承乾)が、汉王元昌・侯君集らと結んだ謀反関与の疑いにより廃されて庶人となった。同月丙戌(6日後)に晋王治が新たな皇太子に立てられている。承乾はその後、貞観17年9月に黔州へ流され、貞観19年12月に死去(同巻)。
出典: 旧唐書 巻三(太宗下)
親征645年2月〜645年11月高句麗
対象: 高句麗
結果: 蓋牟城・遼東城を攻略し、安市城救援に来た高句麗の援軍15万を撃破(駐蹕山の戦い)したが、安市城自体は9月まで攻めても陥落させられず、班師撤退した。高句麗征服には至らず、実質的には未完遂に終わった。
旧唐書巻三、貞観十九年条。「上亲统六军发洛阳」(二月庚戌)に始まり、「上亲率铁骑与李勣会围辽东城」(五月甲申)、「上自高峰引军临之」(六月丁巳、安市城下での高延寿・高惠真15万来援軍撃破=駐蹕山の戦い)と、皇帝自身が終始軍を率いて戦場に赴いたことが明記されている。安市城は「至九月不克,乃班师」と落とせず撤退。十月丙辰に臨渝関から帰還、十一月に幽州で「大飨,还师」として正式に軍を解いた。太宗の在位中(626〜649年)で皇帝本人が親率した軍事行動はこの高句麗遠征のみ。渭水便橋の対峙(貞観元年、突厥頡利可汗との会見)は皇帝自ら渭水岸まで出向いたが交戦を伴わない外交的示威・盟約であり、遠征・戦闘に該当しないため親征回数には含めない。即位前(武徳年間、秦王時代)の薛挙・王世充・竇建德・劉黑闥らへの親征は皇帝としての在位期間外(即位は武徳9年8月癸亥)のためカウント対象外とした。
反乱鎮圧648年11月眉・邛・雅三州の反獠
首謀者: (記載なし、眉・邛・雅三州の獠族)
結果: 右衛将軍梁建方が討伐・平定
旧唐書巻三、貞観二十二年十一月戊戌「眉、邛、雅三州獠反,右卫将军梁建方讨平之」。
被反乱648年11月眉・邛・雅三州の反獠
首謀者: (記載なし、眉・邛・雅三州の獠族)
結果: 梁建方に鎮圧された
旧唐書巻三、貞観二十二年十一月戊戌。rebellionSuppressionCountと同一事件。
大赦649年3月貞観23年3月辛酉、「大赦」。
貞観23年3月辛酉、「大赦」。太宗崩御(同年5月己巳)の約2ヶ月前。
出典: 旧唐書 巻三(太宗下)