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敬宗の肖像画

唐第16代

敬宗李湛

在位 824–826年(2年317日)824年2月26日 〜 827年1月9日 ( 826年12月8日まで)

日本は平安時代

李湛は唐の穆宗の長子で、年若く即位するとにふけって夜の狩りを好み、や軍将らに殺された皇帝である。

敬宗の人物データ

生年
809年7月22日
在位
  • 824年2月26日〜827年1月9日 826年12月8日まで
2年317日長い順同率228位/365人16歳で即位(数え年)
没年
827年1月9日( 826年12月8日)18歳(数え年)長生き順同率243位/266人
死因
同じ死因92人/365人
即位経路
先代
  • 穆宗唐敬宗は穆宗の子
次代
  • 文宗唐文宗は敬宗の弟
呼び名
姓李諱湛呼び名の見方

出典

在位
旧唐書 本紀第十七上 敬宗
死因
旧唐書 本紀第十七上(敬宗)/資治通鑑 巻243(唐紀59・宝暦二年)
即位経路
旧唐書 本紀第十七上(敬宗)

生涯

どんな皇帝か

旧唐書の李徳裕伝は、遊幸に常がなく群小にし、朝廷に出ることもまれと記し、献じた箴は、言葉をすべては用いられずとも心は嘉納されたとする。旧唐書のは、驕った穆宗の後を李湛が継いだのは当然とし、論ずるに足りない狡童と切り捨てる。

即位まで

穆宗の長子で、母は王氏である。822年に皇太子に立てられ、824年に穆宗が没すると即位した。

史料について

即位を、旧唐書のは穆宗が没した翌日に柩の前でとし、新唐書の本紀と資治通鑑はその3日後に太極殿でとする。

治世と最期

即位の年から撃毬にふけった。群臣が参内しても日が高くなるまで座に着かず、の劉栖楚が頭を打ちつけ血を流して諫めた。同じ年、張韶ら百余人が宮中に入って玉座に上がり、李湛は左軍へ逃れた。沈香の亭子の材木を献じられ、これを諫めた李漢を、怒りつつも寛容に扱った。

825年、と知らずに捕らえたの崔発が宦官らに打たれても、崔発だけを赦さず、の論も聞かなかった。李逢吉らに崔発の老母のことを言われると、ようやく釈放させた。同じ年、驪山の温湯へ行くのを張権輿に叩頭して諫められると、出かけてその日のうちに戻り、あの者の言葉など信じるに足りようかと言った。道士に長生を説かれて各地へ薬を採る使者を出した。造営を続けさせ、やを夜更けまで観て、夜に自ら狐狸を捕らえるのを好んだ。宦官は小さな過ちでも鞭打たれ、みな恨み恐れていた。

826年、夜の狩りから戻って宦官の劉克明らと撃毬し、軍将の蘇佐明ら二十八人と酒を飲み、更衣に立つと灯が消えて殺された。劉克明らは絳王に軍国の事を当たらせたが、翌日、王守澄らが江王(文宗)を立てて劉克明を誅し、絳王も殺された。

史料について

崔発の件を、旧唐書の李渤伝は、諫めた李渤が崔発の党とされて桂州へ出されたとし、張仲方伝は張仲方ので崔発が死を免れたとする。手を下した者を、旧唐書の敬宗紀は劉克明らの共謀とし、資治通鑑は蘇佐明らとし、新唐書の宦者伝は劉克明が蘇佐明らとともに弑したとする。絳王を立てたのを、旧唐書の文宗紀は蘇佐明らとする。絳王の死を、資治通鑑は乱兵によるとする。

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勢力図

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824–826年の地図に、敬宗が治めた国が描かれています。

在位中の出来事

反乱2・改元1・大赦3
  1. 824年4月5日即位に伴う大赦。
  2. 反乱824年5月19日張韶の乱(右銀台門襲撃・宮中侵入事件)
  3. 改元825年元号を「宝暦」とする
  4. 825年改元と同時の大赦。
  5. 825年尊号(文武大聖廣孝皇帝)奉上に伴う大赦。
  6. 反乱825年徐州(武寧軍)武華の乱

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