中国皇帝統計

敬宗

唐|在位 824–827年

諱(本名)
李湛
在位
824–827年
在位期間
2年315日365名中229位
即位経路
世襲
死因
暗殺
即位時年齢
16歳(数え年)172名中・若い順53位タイ
没年齢
18歳(数え年)269名中・長寿順246位タイ
改元
1332名中142位タイ
大赦
3267名中121位タイ
立后
0
皇太子廃立
0
親征
0
反乱鎮圧
2225名中145位タイ
被反乱
2289名中158位タイ
遷都
0

順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。

即位の経緯

穆宗崩御を受け、既に立太子されていた長子として通常通り柩前即位。

出典: 旧唐書 本紀第十七上(敬宗)

死因の経緯

夜、球技・宴会の最中、燭が消えた隙に宦官劉克明一派(実行犯は撃毬軍将蘇佐明ら)が弑逆。資治通鑑も「蘇佐明等弑上於室内」と明記。宦官内部の権力闘争による暗殺。

出典: 旧唐書 本紀第十七上(敬宗)/資治通鑑 巻243(唐紀59・宝暦二年)

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

敬宗は在位約3年(長慶四年正月〜宝暦二年十二月)のうち、長慶四年は先帝の年号をそのまま継続使用し、翌年正月に宝暦へ改元した1回のみ。即位に伴う独自の建元は行っていないため、eraChangeCountは1回とした。

大赦回数

『旧唐書』本紀第十七上・敬宗紀(長慶四年正月即位〜宝暦二年十二月崩御まで)を通読し、「大赦天下」「大赦」と明記された全国規模の恩赦を3件確認。地域限定の恩赦(例:湖南観察使の吐蕃人送還等)は対象外とした。

立后回数

敬宗紀を通読したが「立皇后」「册皇后」等、皇后として正式冊立された記事は見当たらない。宝暦元年三月丁亥条に「敕册才人郭氏為貴妃」とあるが、これは妃嬪位(貴妃)への冊立であり皇后冊立ではないため対象外。敬宗は数え年18歳で崩御しており、在位中を通じて皇后は不在であったと判定。

皇太子廃立回数

敬宗紀(『旧唐書』本紀第十七上、長慶四年正月即位〜宝暦二年十二月崩御)を通読したが、在位中に皇太子(皇太弟・皇太孫を含む)が立てられた記事自体が存在しない。敬宗自身は数え年18歳で急逝しており、崩御時点で法定推定継承者は未定であった(崩御後、絳王李悟の一時監国を経て江王涵=文宗が擁立)。廃立の対象となる皇太子が不在のため0回。

親征回数

『旧唐書』本紀第十七上・敬宗紀(長慶四年正月即位〜宝暦二年十二月崩御)を通読したが、皇帝自身が軍を率いて出征した記事は存在しない。宝暦元年四月の張韶の乱の際も「急幸左軍」(皇帝は左神策軍営へ避難しただけ)であり、実際の鎮圧を指揮したのは左神策軍兵馬使康藝全であるため親征に該当しない。

反乱鎮圧回数

敬宗紀を通読し武力による蜂起・鎮圧の記事を精査。妖賊馬文忠一派(「將圖不軌」で挙兵前に摘発・杖刑)、萬年縣の王正謨ら(「誣告」による冤罪で実際の謀反なし)、武昭による李逢吉暗殺未遂(単独犯的謀議で司法手続きのみ)は挙兵に至らない/実体がないため除外。幽州(盧龍軍)で節度使硃克融が軍に殺害され子の延嗣が留後に擁立、さらに李再義が延嗣一族を殺害し留後の座を奪った一連の内紛は、朝廷側が鎮圧を試みず事後追認したのみ(河朔三鎮特有の自立的権力継承)のため、皇帝側が鎮圧主体となった事案とは言えず対象外とした。

被反乱回数

rebellionSuppressionCountと同一の2件(張韶の乱・武華の乱)を被反乱としても計上。理由・除外事案の詳細はrebellionSuppressionCount.noteを参照。

遷都回数

旧唐書・新唐書を通読。該当在位期間中に新たな遷都の記録なし(684年洛陽遷都は睿宗期、705年長安復都は中宗復位期、904年洛陽強制遷都は昭宗期の出来事として各々計上済み)。

即位時年齢・没年齢

既存レコードの ages をそのまま再利用(『旧唐書』本紀第十七上冒頭「元和四年六月七日、生於東內之別殿」、長慶四年正月癸酉条「時年十六」、宝暦二年十二月辛丑条「即時殂於室內、時年十八」に基づく確定済みデータ)。

在位中の出来事(8件)

改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。

大赦824年4月即位に伴う大赦。

即位に伴う大赦。『旧唐書』長慶四年三月庚戌朔、壬子(三日)条「上御丹鳳樓、大赦天下」。京畿の青苗銭免除等も併記。

出典: 旧唐書本紀第十七上(敬宗)

反乱鎮圧824年5月張韶の乱(右銀台門襲撃・宮中侵入事件)

首謀者: 張韶

結果: 決起同日中に左神策軍兵馬使康藝全が率兵入宮して鎮圧、翌日(丁酉)皇帝は還宮した。

『旧唐書』長慶四年夏四月丙申条「賊張韶等百餘人至右銀臺門、殺閽者、揮兵大呼、進至清思殿、登御榻而食、攻弓箭庫。左神策軍兵馬使康藝全率兵入宮討平之。是日、上聞其變、急幸左軍」。皇帝自身は避難しただけで親征には該当しない。

被反乱824年5月張韶の乱(右銀台門襲撃・宮中侵入事件)

首謀者: 張韶

結果: 賊は宮中の清思殿まで侵入したが同日中に鎮圧され、皇帝は無事還宮した。

『旧唐書』長慶四年夏四月丙申条。賊張韶らが右銀台門から宮中に侵入し宦官を殺害、御榻に上るなど皇帝の居所近くまで武装侵犯した明確な武装反抗行動。

改元825年1月長慶→宝暦への改元(唯一の改元)。

長慶→宝暦への改元(唯一の改元)。即位時(長慶四年正月)は先帝穆宗の長慶年号をそのまま踏襲し、敬宗自身による即位に伴う独自の建元は行っていない(唐代の通例で、崩御年の残り年は先帝の年号を継続)。翌年正月に至り初めて『旧唐書』宝暦元年正月乙巳朔、辛亥(七日)条「觀祀昊天上帝於南郊。禮畢、御丹鳳樓、大赦、改元寶曆元年」で改元。この後、宝暦二年十二月に暗殺されるまで宝暦年号が継続し、他に改元は確認できない。

出典: 旧唐書本紀第十七上(敬宗)

大赦825年1月改元と同時の大赦。

改元と同時の大赦。『旧唐書』宝暦元年正月乙巳朔、辛亥(七日)条「觀祀昊天上帝於南郊。禮畢、御丹鳳樓、大赦、改元寶曆元年」。eraChangeCountの改元イベントと同一事象(大赦・改元同時実施のため両カウントに計上)。

出典: 旧唐書本紀第十七上(敬宗)

大赦825年4月尊号(文武大聖廣孝皇帝)奉上に伴う大赦。

尊号(文武大聖廣孝皇帝)奉上に伴う大赦。『旧唐書』宝暦元年夏四月甲戌朔、癸巳(二十日)条「群臣上徽號曰文武大聖廣孝皇帝、御宣政殿受冊。禮畢、御丹鳳樓、大赦天下、大辟罪已下、無輕重咸赦除之」。李紳の量移をめぐる逸話も付随。

出典: 旧唐書本紀第十七上(敬宗)

反乱鎮圧825年10月徐州(武寧軍)武華の乱

首謀者: 武華

結果: 武寧軍節度使王智興が鎮圧、首謀者武華ら四百人は伏誅(全員処刑)。

『旧唐書』宝暦元年秋九月条「徐州王智興奏、大將武華等四百人謀亂、並伏誅」。武寧軍(徐州、朝廷に忠実な藩鎮)内部での軍中謀反を節度使王智興が鎮圧し朝廷に上奏。記述が簡略なため確度はmediumとした。

被反乱825年10月徐州(武寧軍)武華の乱

首謀者: 武華

結果: 節度使王智興により鎮圧、武華ら四百人は伏誅。

『旧唐書』宝暦元年秋九月条。皇帝統治機構下にある武寧軍内部での挙兵のため服属勢力の反乱として被反乱にも計上。rebellionSuppressionCountと同一の反乱群。

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