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穆宗の肖像画

唐第15代

穆宗李恒

在位 820–824年(4年5日)820年2月20日 〜 824年2月25日

日本は平安時代

李恒は唐の憲宗の第三子で、父の急死を受けて即位し、宴遊を好み、在位中に河北を再び失った皇帝である。

穆宗の人物データ

生年
795年8月
在位
  • 820年2月20日〜824年2月25日
4年5日長い順200位/365人26歳で即位(数え年)
没年
824年2月25日30歳(数え年)長生き順同率186位/266人
死因
同じ死因169人/365人
即位経路
先代
  • 憲宗唐穆宗は憲宗の子
次代
  • 敬宗唐敬宗は穆宗の子
呼び名
姓李諱恒呼び名の見方

出典

在位
旧唐書 本紀第十六 穆宗
死因
旧唐書 本紀第十六(穆宗)/資治通鑑 巻243(唐紀59・長慶四年)
即位経路
旧唐書 本紀第十六(穆宗)/資治通鑑 巻241(唐紀57・元和十五年)

生涯

どんな皇帝か

旧唐書の穆宗紀の賛は法度を破り政を乱したと書き、新唐書の賛は穆宗と敬宗をともに暗愚で徳を失ったが、在位が短く敗乱には至らなかったと評する。

即位まで

憲宗の第三子で、母は郭氏である。の吐突承璀が推した澧王惲は母が賤しく、812年に李恒が皇太子に立てられた。820年、父が中和殿で急死すると、宦官らが太子を立て、吐突承璀と澧王は殺された。6日後、李恒は太極殿で即位した。

史料について

父の死を、旧唐書は憲宗紀で陳弘志のの噂とし、穆宗紀でによる急死とする。新唐書の宦者伝は王守澄と陳弘志が弑したとする。吐突承璀を、両唐書の吐突承璀伝は、即位した李恒が自分を推さなかった恨みで誅したとし、新唐書のは陳弘志が殺したとする。旧唐書の澧王伝は、澧王はその夕べに薨じたとだけ書く。

治世と最期

即位した年から、三日に一度はや宮門に出向いてや雑戯を見物した。らが宴楽と遊猟の多さを諫めると、従うと言いながら実際には用いなかった。821年、外では士庶がよく宴をしているそうだと上機嫌で言い、丁公著に、それは褒めるに足りないと諷されると、深く嘉納した。

同じ年、幽州では兵が張弘靖を閉じ込めて朱克融が立ち、鎮州では田弘正ら三百余人が殺されて王廷湊が立てられた。822年には魏博で史憲誠がを奪った。朝廷は史憲誠を討てず、朱克融・王廷湊とあわせてを授け、河朔は再び失われた。

822年の暮れ、宦官と撃鞠をしていて一人が落馬したのに驚き、足が地を踏めなくなって床に就いた。824年、金石の薬を服していたのを張皋が諫めると、喜んで召そうとしたが見つからなかった。同じ年、病が再発して重くなり、皇太子にを命じて没した。

史料について

幽州の乱を、旧唐書の本紀は宰相の崔植・杜元穎の措置のためとする。同じ本紀は、即位当初から府庫を傾けて賞賜し軍を驕らせたとも批判する。両唐書の本紀と資治通鑑は、服薬を死と結びつけて書かない。

穆宗とつながる皇帝

唐の勢力図(820年)

勢力図

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820–824年の地図に、穆宗が治めた国が描かれています。

在位中の出来事

反乱7・改元1・大赦3
  1. 820年3月22日憲宗の貴妃郭氏を皇太后に尊立した礼に伴う大赦。
  2. 反乱820年7月安南府反乱(楊清の乱)
  3. 改元821年元号を「長慶」とする
  4. 821年
  5. 821年
  6. 反乱821年幽州(盧龍)軍乱・硃克融の乱
  7. 反乱821–822年鎮州(成徳)軍乱・王廷湊の乱
  8. 反乱821年相州軍乱
  9. 反乱822年汴州(宣武)軍乱・李翽の乱
  10. 反乱822年浙西大将王国清の乱
  11. 反乱822年徳州軍乱

唐の歴代皇帝

歴代21人の一覧

年表

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