睿宗
唐|在位 684–690年 / 710–712年

- 諱(本名)
- 李旦
- 在位
- 684–690年 / 710–712年
- 在位期間
- 8年279日365名中142位
- 即位経路
- 復位
- 死因
- 病死
- 即位時年齢
- 23歳(数え年)172名中・若い順89位タイ
- 没年齢
- 55歳(数え年)269名中・長寿順57位タイ
- 改元
- 8回332名中6位タイ
- 大赦
- 13回267名中22位タイ
- 立后
- 0回
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 3回225名中129位タイ
- 被反乱
- 3回289名中146位タイ
- 遷都
- 1回45名中12位タイ
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
初回即位(嗣聖元年)は武則天による擁立(傀儡)。景雲元年、李隆基の唐隆政変(韋后誅殺)を経て再度即位したため復位。
出典: 旧唐書 巻七(睿宗)
死因の経緯
太上皇として開元4年6月に崩御。本紀は簡潔に「崩」とのみ記し、不審な記述はない。
出典: 旧唐書 巻七(睿宗、開元四年六月条)
復位の経緯
710–712年|景龍4年6月24日、殤帝廃位と同日に復位(李隆基のクーデター後)。延和元年8月3日、玄宗へ譲位。
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
第一次在位(684-690年、傀儡皇帝期)5回(文明・光宅・垂拱・永昌・載初)、第二次在位(710-712年)3回(景雲・太極・延和)、合計8回。第一次在位中の改元は全て武太后(則天)主導で本人の意思によるものではないが、実際にその治世で使用された年号として計上し、各eventに傀儡であった旨を明記した。載初元年九月九日の天授改元(武周革命・皇嗣降格と同日)、および延和元年八月の先天改元(玄宗への譲位後)は、それぞれ在位の境界を跨ぐ出来事であり実質的に武則天・玄宗の治世に属すると判断し除外した。
大赦回数
第一次在位(684-690年、武則天臨朝称制下の傀儡皇帝期)7回、第二次在位(710-712年)6回、合計13回。「大赦天下」等全国規模と明記されたもののみ計上し、「曲赦」等地域限定の恩赦は除外した。景龍四年六月辛丑(即位3日前、殤帝名義)の大赦、および延和元年八月の譲位後(先天改元後)の大赦は睿宗自身の在位期間外の出来事として除外。
立后回数
睿宗自身の在位期間中(第一次・第二次とも)に皇后として正式冊立された女性の記録は見当たらない。妃劉氏・徳妃竇氏(玄宗生母)は景雲元年(睿宗復位直後)に「追尊」として肅明皇后・昭成皇后の号を追贈されたのみで、生前の冊立ではない(劉氏は長寿二年=693年に武則天により賜死されている)。なお旧唐書巻七の先天元年八月丁巳条「立皇帝妃王氏為皇后」は、同年八月庚子に睿宗が譲位した後の記事であり、玄宗(李隆基)の王皇后冊立であって睿宗本人のものではないため計上しない。
皇太子廃立回数
旧唐書巻六・巻七を通読したが、睿宗の両在位期間中に皇太子(皇太弟含む)を廃立した記録は見当たらない。第二次在位中は景龍四年七月に平王隆基(後の玄宗)を皇太子に立てて以降、廃立なく延和元年八月の譲位まで継続した。
親征回数
旧唐書巻六(則天皇后紀)・巻七(睿宗紀)を通読したが、睿宗自身が両在位期間中に軍を率いて出征した記録は見当たらない。第一次在位(684-690年、武太后臨朝称制下の傀儡皇帝期)の徐敬業の乱・琅邪王沖及び越王貞の乱の鎮圧はいずれも李孝逸・丘神勣・岑長倩ら将軍への派遣によるもので睿宗本人は出陣していない。第二次在位(710-712年)の譙王重福の乱も州県が鎮圧しており皇帝本人の親征ではない。
反乱鎮圧回数
第一次在位(684-690年、傀儡皇帝期)2件(徐敬業の乱、琅邪王沖・越王貞の乱)、第二次在位(710-712年)1件(譙王重福の乱)、合計3件。第一次在位中の2件は名目上睿宗の治世の出来事だが実際の主体は武太后(則天)であり、既存のeraChangeCount/amnestyCountと同様の扱いとしてその旨を各eventに明記した。指定sourceFile(旧唐書巻七)に加え、第一次在位期の詳細を確認するため旧唐書巻六(則天皇后紀)も参照した(既存のeraChangeCount調査で同様の参照実績あり)。
被反乱回数
rebellionSuppressionCountと同一の3件(同一の反乱群を鎮圧・被反乱の両面から計上、食い違いなし)。第一次在位2件(徐敬業の乱、琅邪王沖・越王貞の乱、いずれも武太后臨朝称制下の傀儡皇帝期)、第二次在位1件(譙王重福の乱、実質的な親政期)。
遷都回数
在位中に遷都1回(0684年 長安(西京)→洛陽(神都))。
即位時年齢・没年齢
既存データ(旧唐書巻六「龍朔二年六月己未、生於長安」、巻七睿宗紀「開元四年夏六月甲子、太上皇帝崩於百福殿、時年五十五」)を再利用。崩年齢55は716-662+1=55で整合。即位時年齢は原文に「時年」等の直接記載はないが、生年(龍朔二年=662年)と第一次即位年(嗣聖元年・文明元年=684年)の年号年ラベルの差分から数え年を算出(684-662+1=23、confidence highの直接記載日付同士の差分計算のため信頼度は高い)。参考: 第二次即位(景龍四年=710年、復位)時点は同様の算出で49歳(710-662+1=49)。
在位中の出来事(28件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
遷都684年9月長安(西京) → 洛陽(神都)
光宅元年(684年)九月甲寅、大赦・改元と同時に「東都」を「神都」と改称。武則天が皇太后として臨朝称制し、傀儡の睿宗の下で実権を握っていた時期の措置で、以後の本紀の記事はほぼ一貫して洛陽(神都)を拠点として展開しており、複都制下の行幸ではなく実質的な主都機能の恒久的移転と認められる(690年の周建国後もそのまま神都を継承)。『旧唐書』巻六・則天皇后紀「九月,大赦天下,改元為光宅…改東都為神都」、『新唐書』巻四・則天皇后紀「九月甲寅,大赦,改元。旗幟尚白…改東都為神都」で一致。(出典: 旧唐書 巻六 則天皇后紀/新唐書 巻四 則天皇后紀)
改元嗣聖元年(684年)二月己未【第一次在位】豫王旦を皇帝に立てるのと同時に「改元文明」。
【第一次在位】豫王旦を皇帝に立てるのと同時に「改元文明」。武太后臨朝称制下の即位同時建元(傀儡改元)。
出典: 旧唐書本紀第六(則天皇后紀)
改元嗣聖元年(684年)九月【第一次在位】「改元為光宅」。
【第一次在位】「改元為光宅」。武太后主導の改元(傀儡)。
出典: 旧唐書本紀第六(則天皇后紀)
改元垂拱元年(685年)正月【第一次在位】徐敬業の乱平定を機に改元(垂拱)。
【第一次在位】徐敬業の乱平定を機に改元(垂拱)。武太后主導の改元(傀儡)。
出典: 旧唐書本紀第六(則天皇后紀)
改元永昌元年(689年)正月【第一次在位】改元(永昌)。
【第一次在位】改元(永昌)。武太后主導の改元(傀儡)。
出典: 旧唐書本紀第六(則天皇后紀)
改元載初元年(690年)正月【第一次在位】永昌元年十一月を載初元年正月に改める周制の改元。
【第一次在位】永昌元年十一月を載初元年正月に改める周制の改元。武太后主導の改元(傀儡)。同年九月九日の武周革命・天授改元は皇嗣への降格と一体の出来事であり、実質的に武則天自身の治世の開始と判断し睿宗の改元回数には含めない。
出典: 旧唐書本紀第六(則天皇后紀)
改元景龍四年(710年)七月己巳【第二次在位】復位後最初の建元。
【第二次在位】復位後最初の建元。「改元為景雲」、平王隆基立太子と同日。
出典: 旧唐書本紀第七(睿宗紀)
改元太極元年(712年)正月己丑【第二次在位】「改元為太極」。
出典: 旧唐書本紀第七(睿宗紀)
改元延和元年(712年)五月辛未【第二次在位】「改元為延和」。
【第二次在位】「改元為延和」。同年八月庚子、玄宗へ譲位し太上皇となる。譲位後の先天改元(同年八月甲辰)は玄宗の治世に帰属するため睿宗本人の回数には含めない。
出典: 旧唐書本紀第七(睿宗紀)
大赦嗣聖元年(文明元年)二月己未【第一次在位】即位と同日の大赦。
【第一次在位】即位と同日の大赦。武太后臨朝称制下、豫王旦を皇帝に立て「大赦天下、改元文明」。傀儡皇帝としての即位赦。
出典: 旧唐書本紀第六(則天皇后紀)
大赦嗣聖元年九月【第一次在位】「大赦天下、改元為光宅」。
【第一次在位】「大赦天下、改元為光宅」。武太后主導の改元に伴う大赦。
出典: 旧唐書本紀第六(則天皇后紀)
大赦垂拱元年正月【第一次在位】徐敬業の乱平定を機に「大赦天下、改元」(垂拱)。
【第一次在位】徐敬業の乱平定を機に「大赦天下、改元」(垂拱)。武太后主導。
出典: 旧唐書本紀第六(則天皇后紀)
大赦垂拱二年正月【第一次在位】皇太后が政を皇帝(睿宗)に返す詔を出すも固辞、その際「大赦天下」。
【第一次在位】皇太后が政を皇帝(睿宗)に返す詔を出すも固辞、その際「大赦天下」。改元は伴わない。
出典: 旧唐書本紀第六(則天皇后紀)
大赦垂拱四年秋七月【第一次在位】「宝図」を「天授聖図」と改称した際に「大赦天下」。
【第一次在位】「宝図」を「天授聖図」と改称した際に「大赦天下」。改元は伴わない。
出典: 旧唐書本紀第六(則天皇后紀)
大赦永昌元年正月【第一次在位】神皇(武太后)明堂親享、「大赦天下、改元」(永昌)。
出典: 旧唐書本紀第六(則天皇后紀)
大赦載初元年正月【第一次在位】神皇明堂親享、「大赦天下」。
【第一次在位】神皇明堂親享、「大赦天下」。周制により建子月を正月とし載初に改元。
出典: 旧唐書本紀第六(則天皇后紀)
大赦景龍四年六月甲辰【第二次在位】少帝(殤帝)禅位を受け相王旦が即位、「大赦天下」。
【第二次在位】少帝(殤帝)禅位を受け相王旦が即位、「大赦天下」。復位に伴う即位赦。なお前日辛丑の少帝名義での大赦(相王が少帝を奉じて宣布)は睿宗自身の在位開始前のため計上せず。
出典: 旧唐書本紀第七(睿宗紀)
大赦景龍四年七月己巳【第二次在位】平王隆基(後の玄宗)を皇太子に立てると同時に「大赦天下、改元為景雲」。
出典: 旧唐書本紀第七(睿宗紀)
大赦景雲二年四月壬寅【第二次在位】「大赦天下、重福徒党放雪」。
【第二次在位】「大赦天下、重福徒党放雪」。改元は伴わない。
出典: 旧唐書本紀第七(睿宗紀)
大赦景雲二年八月乙卯【第二次在位】興聖寺の柿の木が枯死後再生した瑞祥を機に「大赦天下」。
【第二次在位】興聖寺の柿の木が枯死後再生した瑞祥を機に「大赦天下」。改元は伴わない。
出典: 旧唐書本紀第七(睿宗紀)
大赦太極元年正月己丑【第二次在位】「大赦天下、改元為太極」。
出典: 旧唐書本紀第七(睿宗紀)
大赦延和元年五月辛未【第二次在位】「大赦天下、改元為延和」。
【第二次在位】「大赦天下、改元為延和」。同年八月の玄宗への譲位(改元先天)以降の大赦・改元は玄宗の治世に帰属するため本人カウントから除外。
出典: 旧唐書本紀第七(睿宗紀)
反乱鎮圧光宅元年(684年)九月徐敬業の乱(揚州起兵)
首謀者: 徐敬業(李勣の孫、柳州司馬。挙兵時「上將」を自称し「匡復」を掲げる)
結果: 左玉鈐衛大将軍李孝逸を大総管とする討伐軍30万を派遣して鎮圧成功。垂拱元年正月、乱平定を機に大赦・改元(垂拱)。
【第一次在位、武太后臨朝称制下の傀儡皇帝期】名目上は睿宗の治世の出来事だが、実際の討伐指揮・意思決定は武太后(則天)主導。 [出典: 旧唐書巻六(則天皇后紀、光宅元年九月~垂拱元年正月条)]
反乱鎮圧垂拱四年(688年)八月壬寅琅邪王沖・越王貞の乱(博州・豫州起兵)
首謀者: 琅邪王李沖(博州刺史)・越王李貞(豫州刺史、沖の父。父子で呼応して挙兵)
結果: 左金吾大将軍丘神勣、内史岑長倩・鳳閣侍郎張光輔・左監門大将軍鞠崇裕らの討伐軍により約1ヶ月で鎮圧、貞・沖ともに斬首(伝首神都)。連座した宗室多数も誅殺・流罪。
【第一次在位、傀儡皇帝期】名目上は睿宗の治世の出来事だが、実際の討伐指揮は武太后(則天)主導。李唐宗室による武后専権への反発が背景。 [出典: 旧唐書巻六(則天皇后紀、垂拱四年八月~九月条)]
反乱鎮圧景雲元年(710年)八月癸巳譙王李重福の乱(東都潜入未遂)
首謀者: 譙王李重福(中宗の子、新除集州刺史)
結果: 洛陽(東都)に潜入し挙兵を図るも州県により即座に鎮圧された。
【第二次在位、睿宗自身が実権を握る親政期】景雲二年四月には徒党への大赦も実施(既存amnestyCountに記録済み)。 [出典: 旧唐書巻七(睿宗紀、景雲元年八月条)]
被反乱光宅元年(684年)九月徐敬業の乱(揚州起兵)
首謀者: 徐敬業(李勣の孫、柳州司馬。挙兵時「上將」を自称し「匡復」を掲げる)
結果: 討伐軍30万により鎮圧され、垂拱元年正月に乱平定を機に大赦・改元。
【第一次在位、傀儡皇帝期】睿宗の治世下で起きた反乱としてrebellionSuppressionCountと同一事象を計上。 [出典: 旧唐書巻六(則天皇后紀)]
被反乱垂拱四年(688年)八月壬寅琅邪王沖・越王貞の乱(博州・豫州起兵)
首謀者: 琅邪王李沖・越王李貞
結果: 約1ヶ月で鎮圧され、貞・沖ともに斬首。
【第一次在位、傀儡皇帝期】睿宗の治世下で起きた反乱としてrebellionSuppressionCountと同一事象を計上。 [出典: 旧唐書巻六(則天皇后紀)]
被反乱景雲元年(710年)八月癸巳譙王李重福の乱(東都潜入未遂)
首謀者: 譙王李重福
結果: 州県により即座に鎮圧された。
【第二次在位、睿宗自身が実権を握る親政期】 [出典: 旧唐書巻七(睿宗紀)]