睿宗の人物データ
- 生年
- 662年6月22日
- 在位
- 1度目684年2月27日〜690年10月16日
- 復位710年7月25日〜712年9月8日
- 没年
- 716年7月13日55歳(数え年)長生き順同率56位/266人
- 死因
- 病死病気や老衰による死。同じ死因169人/365人
- 即位経路
- 擁立同じ王朝の先代の跡を継いだが、誰を立てるかを決めたのは臣下・軍・宦官・外戚・皇太后・皇族など、先の皇帝以外だった即位。のちに復位
出典
- 在位(1度目)
- 旧唐書 本紀第六 則天皇后(本紀第七 睿宗と併読)
- 在位(2度目)
- 旧唐書 本紀第七 中宗睿宗(睿宗部分)
- 死因
- 旧唐書 巻七(睿宗、開元四年六月条)
- 即位経路
- 旧唐書 巻七(睿宗)
生涯
どんな皇帝か
旧唐書の史臣歴史書を編み、その中で評を述べた人は、太平公主の謀反は公主皇帝の娘の罪だが、玉座に臨む者の失策でもあるとし、中宗はすでに失い、睿宗も得たとはいえないと評する。
即位まで
高宗の第八子で、中宗の同母弟である。成長すると謙虚で孝行、学問を好み、草書・隷書に巧みだった。684年、母の武則天が兄の中宗を廃すると皇帝に立てられたが、政事は太后が決し、睿宗は別殿に置かれて関与できなかった。686年に太后が政を返す詔を出すと、本意でないと見て固辞した。690年、武則天が国号を周と改めて帝となると、皇嗣に降され、武の姓を賜った。妃の劉氏と竇氏が呪詛をしたと讒言されて殺されたときも、母の意に逆らうのを恐れて何も言わず、母の前でもふだんどおりにふるまった。謀反を告発されたときは、楽工の安金蔵が胸を割いて無実を訴えたので免れた。中宗が房陵から戻ると、病と称して朝せず兄への譲位を請い、中宗が皇太子となって、睿宗は相王に封じられた。
史料について
武の姓を賜ったことと安金蔵の話は資治通鑑にあり、旧唐書の本紀皇帝ごとの出来事を年代順に書いた記録やその部分は触れない。
治世と最期
710年、中宗が没して韋后が臨朝皇太后などが朝廷に出て政治を執ることすると、臨淄王(のちの玄宗)らが韋氏一党を誅した。睿宗は少帝に位を譲られると辞退したが、重ねて促されてその日に即位した。皇太子を立てるにあたって、嫡長子正妻が産んだいちばん上の男子の成器が、国難のときは功ある者に帰すべきだと何日も泣いて辞退し、諸王王に取り立てられた皇族たち・公卿朝廷の位の高い大臣たちも玄宗を推したので、成器の意を褒めて玄宗を立てた。宰相の奏上には太平公主と皇太子に相談したかを尋ねてから裁可し、公主の望みは何でも聞き入れた。711年、姚元之と宋璟が宋王らを刺史州という地方の区画を治めた長官に出し、公主を東都に置くよう進言すると、妹は一人しかいないのにどうして遠くに置けようかと言い、諸王の処置は任せた。公主は蒲州に置かれたが、進言を知って怒った公主に責められた玄宗の奏上で二人は左遷され、宋王らの刺史の命も取りやめになった。玄宗が大きな布団と長い枕を作って兄弟と一緒に寝ると、睿宗は知って大いに喜んだ。
712年、彗星が現れ、太平公主が術者に皇太子が天子となるべきだと言わせると、睿宗は徳を伝えて災いを避けると譲位を決め、公主とその一党はかえって強く諫めた。位を譲って太上皇帝位を子に譲った前の皇帝の称号となっても、三品以上の任免と重い刑獄は自ら決した。713年、太平公主らの謀逆を玄宗が誅すると、軍国刑政をすべて玄宗に委ねた。716年、百福殿で没した。
史料について
進言を公主に告げたのを、旧唐書の姚崇伝は睿宗自身とし、資治通鑑は誰が告げたかを書かない。死因を、両唐書の本紀と資治通鑑は書かない。
睿宗とつながる皇帝
在位中の出来事
反乱3・遷都1・改元8・大赦13
- 改元684年2月27日元号を「文明」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。684年2月27日即位と同日の大赦。
- 改元684年10月元号を「光宅」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。684年10月
- 反乱684年10月〜685年2月徐敬業の乱(揚州起兵)
- 遷都684年10月長安(西京) → 洛陽(神都)
- 改元685年元号を「垂拱」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。685年
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。686年
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。688年
- 反乱688年琅邪王沖・
越王貞の乱(博州・ 豫州起兵) - 改元689年元号を「永昌」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。689年
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。689年
- 改元690年1月元号を「載初」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。710年7月25日
- 改元710年8月19日元号を「景雲」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。710年8月19日
- 反乱710年9月12日譙王李重福の乱(東都潜入未遂)
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。711年
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。711年
- 改元712年3月1日元号を「太極」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。712年3月1日
- 改元712年6月11日元号を「延和」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。712年6月11日
唐の歴代皇帝
歴代21人の一覧- 第1代高祖李淵618–626年病死
- 第2代太宗626–649年諸説あり
- 第3代高宗649–683年病死
- 第4・6代中宗683–684年705–710年(復位)暗殺
- 第5・8代睿宗684–690年710–712年(復位)病死
- 周武則天690–705年病死
- 第7代殤帝710年不詳
- 第9代玄宗712–756年病死
- 第10代粛宗756–762年病死
- 第11代代宗762–779年病死
- 第12代徳宗779–805年病死
- 第13代順宗805年病死
- 第14代憲宗805–820年暗殺
- 第15代穆宗820–824年病死
- 第16代敬宗824–826年暗殺
- 第17代文宗826–840年病死
- 第18代武宗840–846年病死
- 第19代宣宗846–859年病死
- 第20代懿宗859–873年病死
- 第21代僖宗873–888年病死
- 第22・23代昭宗888–900年901–904年(復位)暗殺
- 第24代哀帝904–907年暗殺
- 歴代外李裕900–901年暗殺
- 歴代外李承宏763年不詳
- 歴代外襄王李熅886年処刑
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