中宗の人物データ
- 生年
- 656年11月26日
- 在位
- 1度目684年1月3日〜684年2月26日旧暦年だけを書く所は、教科書・辞典と同じく、元号の年に当たる西暦の年で書いています。旧暦の年末(11・12月)は西暦では翌年の1・2月に入るので、日付の年が1つ後ろになります。 年の書き方 683年12月11日から
- 復位705年2月23日〜710年7月3日
- 没年
- 710年7月3日55歳(数え年)長生き順同率56位/266人
- 死因
- 暗殺同じ政権の中の家臣・皇族・宦官などに殺された死。毒殺も含む。非業の死このサイトでは、暗殺・処刑・戦死・自害の4つをまとめて非業の死と呼んでいる。同じ死因92人/365人
- 即位経路
- 世襲先の皇帝が自分で跡継ぎを決めていて(遺詔・皇太子に立てるなど)、その跡を継いだ即位。のちに復位
- 呼び名
- 姓李諱顕呼び名の見方
- 目立つ記録
- 遷都 1回多い順同率9位
出典
- 在位(1度目)
- 旧唐書 本紀第七 中宗睿宗(中宗紀首)/資治通鑑 巻二百三 唐紀十九(高宗弘道元年・
則天后光宅元年) - 在位(2度目)
- 旧唐書 本紀第七 中宗睿宗
- 死因
- 旧唐書 巻七(中宗睿宗、景龍四年六月条)/新唐書 巻七十六(后妃上・
中宗韋庶人伝) - 即位経路
- 旧唐書 巻七(中宗睿宗)
生涯
どんな皇帝か
旧唐書の史臣歴史書を編み、その中で評を述べた人は、復位後は遊びに耽り、妻の党を放任して禍を免れなかったと評しつつ、漢・晋の恵帝の類よりは優るとする。
即位まで
高宗の第七子で、母は武則天である。683年に高宗が没すると、遺詔皇帝が死に際に残した命令により柩の前で即位し、皇太后となった母が臨朝皇太后などが朝廷に出て政治を執ることした。皇后の父の韋玄貞を侍中皇帝のそばに仕える高官。唐では政治の最高職の一つにしようとして裴炎に反対されると、天下を韋玄貞に与えても何が悪いかと怒った。恐れた裴炎が太后と廃立君主や跡継ぎを退け、別の人を立てることを謀り、684年、百官朝廷のすべての役人を集めた場で廃された。我に何の罪があるかと問うと、太后は天下を韋玄貞に与えようとしたと答えた。廬陵王に落とされて房陵へ移された。朝廷の使者が来ると聞くたびに恐れて自殺しようとし、一度死ぬだけのことを何を急ぐのかと韋后に諫められた。この地で生まれた娘を自分の衣で包み、それにちなんだ名をつけて特に可愛がった。のちの安楽公主である。698年に呼び戻されて皇太子となり、705年、張柬之らが張易之兄弟を誅すると、母から位を伝えられて復位した。
史料について
廃位の理由は資治通鑑にあり、旧唐書の本紀皇帝ごとの出来事を年代順に書いた記録やその部分は書かない。皇太子に戻った年を、新唐書の中宗紀は699年とする。安楽公主の生まれた所を、資治通鑑は道中とする。
治世と最期
房州では、ひとたび天日を見られたら互いに禁じ合わないと韋后に誓っていた。復位後、武三思が宮中に引き入れられて御床に上がり、韋后と双六をすると、中宗はその点を数えて笑い興じた。安楽公主が文面を隠した制敕に署名を求めても笑って従い、皇太女位を継ぐ者と定められた皇帝の娘に立ててほしいと求められると、従わなかったが咎めもしなかった。
707年、皇太子の李重俊が兵を挙げて武三思らを誅し、宮中に斬り入った。中宗が玄武門の楼から兵に呼びかけると兵は寝返り、重俊は逃れて部下に殺された。709年、宮女に市の店を出させ、公卿朝廷の位の高い大臣たちを商人にして取り引きさせて楽しんだ。宗楚客が崔琬に弾劾されると、追及せずに二人を兄弟の契りで和解させたので、和事天子と呼ばれた。
710年、燕欽融が韋后の国政への口出しと安楽公主らの企てを上書君主に意見を書いて差し出すことすると、引見したのち撲殺させた。同じ年、韋后の臨朝と皇太女の位を望む安楽公主らに毒を盛られ、神龍殿で没した。韋后は喪を秘して自ら政務を執った。
史料について
中宗の呼びかけで兵が寝返ったとするのは両唐書の節愍太子伝で、旧唐書の本紀は中宗が諭すと兵が散ったとだけ書く。燕欽融の死を、旧唐書の本紀は中宗が怒って撲殺させたとし、同じ旧唐書の燕欽融伝は韋后が勧めて宗楚客がひそかに刃を加えさせたとし、資治通鑑は宗楚客が制を偽って撲殺させたとする。毒を、旧唐書の本紀は安楽公主が韋后と謀って進めたとし、資治通鑑は馬秦客・楊均と安楽公主が餅に入れたとする。新唐書の中宗紀は毒の語を使わず、皇后らが反した直後に崩御を置き、同じ新唐書の睿宗紀は韋后が中宗を弑したとする。
中宗とつながる皇帝
在位中の出来事
反乱2・遷都1・皇后2・改元2・大赦11
- 改元684年1月(旧暦年だけを書く所は、教科書・辞典と同じく、元号の年に当たる西暦の年で書いています。旧暦の年末(11・12月)は西暦では翌年の1・2月に入るので、日付の年が1つ後ろになります。 年の書き方 683年12月)元号を「嗣聖」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。705年2月23日通天宮にて即位、大赦(張易之党与を除く)。
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。705年3月13日韋氏を皇后に立て、大赦。
- 皇后705年3月13日中宗復位後に韋氏を改めて皇后に立てる(廃后後の復位)。
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。705年9月27日明堂にて親祀、大赦。
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。705年11月26日太廟に尊号を告げ、大赦。
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。706年大赦(東都からの還京に伴う)。
- 遷都706年洛陽(神都/東都) → 長安(西京・
京師) - 改元707年元号を「景龍」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。707年皇太子李重俊の変(武三思誅殺未遂・
重俊敗死)の後、大赦。 - 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。707年
- 反乱707年景龍政変(皇太子李重俊の変)
- 反乱707年姚州叛蛮の乱
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。708年皇后の衣箱の裙に五色雲が現れたとの奏上を受け大赦。
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。708年皇后の服に慶雲の瑞ありとして大赦(内外五品以上の母・妻に邑号加授等)。
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。709年安楽公主降嫁の礼を終えて大赦。
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。709年南郊にて親祀(皇后が亜献)、大赦。
- 皇后日付不詳嗣聖初(684年、中宗の第1次即位直後)、韋氏を皇后に立てる。
唐の歴代皇帝
歴代21人の一覧- 第1代高祖李淵618–626年病死
- 第2代太宗626–649年諸説あり
- 第3代高宗649–683年病死
- 第4・6代中宗683–684年705–710年(復位)暗殺
- 第5・8代睿宗684–690年710–712年(復位)病死
- 周武則天690–705年病死
- 第7代殤帝710年不詳
- 第9代玄宗712–756年病死
- 第10代粛宗756–762年病死
- 第11代代宗762–779年病死
- 第12代徳宗779–805年病死
- 第13代順宗805年病死
- 第14代憲宗805–820年暗殺
- 第15代穆宗820–824年病死
- 第16代敬宗824–826年暗殺
- 第17代文宗826–840年病死
- 第18代武宗840–846年病死
- 第19代宣宗846–859年病死
- 第20代懿宗859–873年病死
- 第21代僖宗873–888年病死
- 第22・23代昭宗888–900年901–904年(復位)暗殺
- 第24代哀帝904–907年暗殺
- 歴代外李裕900–901年暗殺
- 歴代外李承宏763年不詳
- 歴代外襄王李熅886年処刑
年表
唐の時代を年表で見る
唐が
