中国皇帝統計

中宗

唐|在位 684年 / 705–710年

中宗の肖像
諱(本名)
李顕
在位
684年 / 705–710年
在位期間
5年185日365名中179位
即位経路
復位
死因
暗殺
即位時年齢
不詳
没年齢
55歳(数え年)269名中・長寿順57位タイ
改元
2332名中78位タイ
大赦
11267名中27位タイ
立后
2204名中14位タイ
皇太子廃立
0
親征
0
反乱鎮圧
2225名中145位タイ
被反乱
2289名中158位タイ
遷都
145名中12位タイ

順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。

即位の経緯

初回即位(弘道元年)は世襲(高宗崩御に伴う継承)。嗣聖元年に武則天により廃位(廬陵王に降格)後、神龍元年の神龍革命(張柬之らのクーデター)を経て復位した。

出典: 旧唐書 巻七(中宗睿宗)

死因の経緯

韋皇后・安楽公主による毒殺。旧唐書本紀に「帝遇毒」と明記、新唐書睿宗紀も「韋皇后弑中宗」、韋后伝も「帝遇弑」と明記し新旧両史が一致。

出典: 旧唐書 巻七(中宗睿宗、景龍四年六月条)/新唐書 巻七十六(后妃上・中宗韋庶人伝)

復位の経緯

705–710年神龍元年正月25日(丙午)、神龍革命により復位(武則天からの譲位と同日)。景龍4年6月2日、韋皇后・安楽公主らにより毒殺。

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

中宗の在位は2区間。第1次在位(弘道元年十二月〜嗣聖元年二月、684年)では即位に伴い『嗣聖』に改元(1回)。この改元は形式上『皇太后臨朝称制』下でなされたものだが、皇帝本人(中宗)の治世年号として実際に使用されたためカウントした。第2次在位(神龍元年正月〜景龍四年六月、705-710年)で使用された『神龍』の年号自体は、中宗復位(正月丙午)より前の正月に則天武后自身が『改元神龍』を行ったもの(新唐書巻四・旧唐書巻六則天紀に『神龙元年春正月,大赦,改元』とあり、これは則天がまだ皇帝であった時点=乙巳の譲位より前)であるため、中宗自身による改元としてはカウントせず。中宗自身が改元したのは景龍元年(神龍三年九月庚子、『改元为景龙』)の1回のみ。合計2回。

大赦回数

旧唐書巻七(中宗紀)に基づき『大赦天下』等と明記された事例を第2次在位(神龍元年正月丙午の復位〜景龍四年六月の崩御)から抽出。神龍元年正月甲辰(皇太子監国時点)の大赦は、則天がまだ譲位前(乙巳が譲位、丙午が中宗即位)であり中宗自身の治世に属さないため除外。中宗崩御後の唐隆改元時・少帝即位時の大赦(韋皇太后臨朝称制による)も中宗の治世外のため除外。第1次在位(684年、嗣聖元年正月〜二月)は在位期間が約2ヶ月と極めて短く、旧唐書・新唐書とも大赦の記事なし(0件)。景龍二年二月の大赦については、旧唐書が『辛未…乃大赦天下』『乙酉…大赦天下』と2回記録するのに対し、新唐書本紀は同月庚寅の1回のみ(内容は旧唐書の乙酉条とほぼ一致)とし、日付・回数に一次史料間で食い違いがあるため、当該箇所(events内の8件目・9件目)の確度をmediumとした。他の9件は旧唐書・新唐書で内容が一致し確度が高い。

立后回数

中宗の皇后は韋氏(韋庶人)のみ。第1次在位(684年)冒頭の嗣聖初に皇后として冊立され、中宗が廬陵王に降格された際に皇后位を失った。第2次在位(705年)復位直後に改めて皇后に立てられており、これは事実上の再冊立(復位)にあたる。

皇太子廃立回数

在位中に正式な廃立の詔勅が出された皇太子は確認できない。神龍三年(707)七月、皇太子李重俊(節愍太子)は武三思・武崇訓を誅殺しようと羽林兵を率いて挙兵したが失敗し、終南山方面へ逃走中に部下に殺害された(『旧唐書』巻七・『新唐書』巻四・『新唐書』巻八十一 節愍太子伝)。これは廃太子の手続きを経ない戦死・誅殺であり、本項の「廃立」には該当しない。中宗崩御直前まで重俊死後に新たな皇太子は立てられておらず、崩御当日に温王重茂が新規に皇太子に立てられた(廃立ではなく新規冊立)。

親征回数

『旧唐書』巻七・中宗紀の第1次在位(684年・54日間)・第2次在位(705-710年)を通読したが、中宗自身が軍を率いて出征した記事は見当たらない。在位中の軍事行動(突厥討伐=沙吒忠義・張仁亶ら、姚州叛蛮討伐=唐九征、対娑葛戦=牛師奨)はいずれも将軍への派遣によるもので、皇帝本人が戦場に赴いた記録はないため0件とした。

反乱鎮圧回数

第2次在位中(705-710年)に皇帝側(中宗政権)が鎮圧主体となった事案を2件計上した。突厥(默啜)の侵寇・西突厥十姓部落の首領娑葛の自立(「突厥首领娑葛叛,自立为可汗」)は、いずれも唐の郡県支配下にない独立勢力・辺境異民族政権(服属していたとしても名目的)への対外戦争とみなし除外した。神龍二年(706)の兼秘書郑普思「坐妖逆」配流・党与伏誅の一件は、妖言・巫蠱的な摘発の記述のみで実際の武力蜂起(挙兵)の記述がないため除外した。姚州(姚州都督府、雲南方面の羈縻州)は唐の統治機構下に組み込まれた行政区であり、当地の蛮族反乱は服属集団の反乱として計上したが、羈縻州という統治形態の性質上、境界事例のためconfidenceをmediumとした。

被反乱回数

rebellionSuppressionCountと同一の2件(李重俊の変・姚州叛蛮)を被反乱側としても計上した(両者は同一反乱群の両面集計)。景龍四年六月の韋皇后・安楽公主による毒殺(deathCause参照)は、旧唐書に「帝遇毒」「秘不发丧」とあり組織的な兵力行使を伴わない暗殺であるため、ルール上の除外規定(兵力を伴わない暗殺は不算入)に該当し計上しなかった。突厥・娑葛(西突厥)による侵寇は服属下にない外部勢力との対外戦争として除外した。

遷都回数

在位中に遷都1回(0705年 洛陽(神都/東都)→長安(西京・京師))。

即位時年齢・没年齢

既存レコードを踏襲。『旧唐書』巻七・中宗紀冒頭に「显庆元年十一月乙丑,生于长安」とあり656年11月26日生まれ、同紀末尾に「六月壬午,帝遇毒,崩于神龙殿,年五十五」とあり崩御時(数え年)55歳と明記(新唐書本紀巻四も一致)。今回、同じ旧唐書巻七原文を再確認したが、第1次即位(弘道元年十二月/嗣聖元年)・第2次即位(神龍元年正月丙午の復位)いずれの記事にも即位時の年齢の直接記載は見当たらず、accessionAgeは引き続きnullとする。

在位中の出来事(20件)

改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。

改元684年1月【第1次在位・皇帝即位(改元同時)】弘道元年十二月、高宗崩御を受け皇太子(中宗)柩前即位。

【第1次在位・皇帝即位(改元同時)】弘道元年十二月、高宗崩御を受け皇太子(中宗)柩前即位。皇太后(則天武后)臨朝称制のもと『嗣聖』に改元。日付は嗣聖元年正月一日(旧暦新年)を目安とした概算値(原文『改元嗣圣』には具体的な日の干支の記載なし)。

出典: 旧唐書 巻七(中宗睿宗)

遷都705年2月洛陽(神都/東都) → 長安(西京・京師)

神龍元年(705年)二月甲寅、神龍革命により中宗が復位し国号を唐に戻した直後、「神都依舊為東都」の詔を出し洛陽の首都格を廃して長安を正式な首都に復した。『旧唐書』巻七・中宗紀「二月甲寅,復國號,依舊為唐…神都依舊為東都」。ただし皇帝本人の長安帰還(車駕還京師)は同年中には行われず、神龍二年(706年)十月己卯にようやく洛陽を出発し長安へ帰着している(同巻「冬十月己卯,車駕還京師。戊戌,至自東都」)。制度上の遷都決定日を採用し、実際の帰還完了時期をnoteに付記した。(出典: 旧唐書 巻七 中宗紀)

大赦705年2月23日【第2次在位】神龍元年正月丙午、通天宮にて即位、大赦天下(張易之党与を除く)。

出典: 旧唐書 巻七(中宗睿宗)

大赦705年3月13日【第2次在位】神龍元年二月甲子、韋氏を皇后に立て、大赦天下。

出典: 旧唐書 巻七(中宗睿宗)

立后705年3月13日【第2次在位・復位】神龍元年二月甲子、中宗復位後に韋氏を改めて皇后に立てる(廃后後の復位)。

【第2次在位・復位】神龍元年二月甲子、中宗復位後に韋氏を改めて皇后に立てる(廃后後の復位)。旧唐書は「甲子,立妃韦氏为皇后」、新唐書本紀(巻四)は「皇后韦氏复于位」と記す。

出典: 旧唐書 巻七(中宗睿宗)

大赦705年9月27日【第2次在位】神龍元年九月壬午、明堂にて親祀、大赦天下。

出典: 旧唐書 巻七(中宗睿宗)

大赦705年11月26日【第2次在位】神龍元年十一月壬午、太廟に尊号を告げ、大赦天下。

出典: 旧唐書 巻七(中宗睿宗)

大赦706年12月14日【第2次在位】神龍二年十一月乙巳、大赦天下(東都からの還京に伴う)。

出典: 旧唐書 巻七(中宗睿宗)

反乱鎮圧707年7月景龍政変(皇太子李重俊の変)

首謀者: 皇太子李重俊(節愍太子)

結果: 鎮圧成功。李重俊は羽林千騎兵を率いて武三思・武崇訓を殺害した後、玄武門にて中宗自ら守備側を鼓舞し寝返らせたため突破できず、終南山方面へ逃走中に部下に殺害された。関与者も誅殺された(『旧唐書』巻七・新唐書巻四・新唐書巻八十一節愍太子伝)。事件後の神龍三年七月癸卯に大赦天下が行われている(既存amnestyCount参照)。

本紀(卷七)本文は事件後の人事異動の記述が中心で蜂起自体の詳細記事を欠くが、既存レコード(crownPrinceDepositionCount/amnestyCount)で確定済みの事実を再利用した。

被反乱707年7月景龍政変(皇太子李重俊の変)

首謀者: 皇太子李重俊(節愍太子)

結果: 鎮圧され重俊は敗死。武三思・武崇訓は殺害されたが中宗自身は無事だった。

rebellionSuppressionCountと同一事案。

反乱鎮圧707年7月25日姚州叛蛮の乱

首謀者: 姚州蛮酋(名不詳)

結果: 鎮圧成功。姚嶲道討撃使・侍御史唐九征がこれを撃破し、俘虜約3千を得て、現地に石を立てて戦功を記した。

『旧唐書』巻七「戊子,姚隽道讨击使、侍御史唐九征击姚州叛蛮,破之,俘虏三千计,遂于其处勒石纪功焉」(神龍三年六月戊子=707年7月25日、sxtwlによる干支換算)。

被反乱707年7月25日姚州叛蛮の乱

首謀者: 姚州蛮酋(名不詳)

結果: 唐九征により鎮圧された。

rebellionSuppressionCountと同一事案。

大赦707年8月9日【第2次在位】神龍三年七月癸卯、皇太子李重俊の変(武三思誅殺未遂・重俊敗死)の後、大赦天下。

出典: 旧唐書 巻七(中宗睿宗)

改元707年10月5日【第2次在位】神龍三年九月庚子、皇帝尊号を『応天神龍皇帝』、皇后尊号を『順天翊聖皇后』とし、大赦天下、『改元为景龙』(景龍元年へ改元)。

出典: 旧唐書 巻七(中宗睿宗)

大赦707年10月5日【第2次在位】神龍三年九月庚子、皇帝尊号を「応天神龍皇帝」とし大赦天下、改元して景龍元年とする(改元と同時の大赦)。

出典: 旧唐書 巻七(中宗睿宗)

大赦708年3月4日【第2次在位】景龍二年二月辛未、皇后の衣箱の裙に五色雲が現れたとの奏上を受け大赦天下。

【第2次在位】景龍二年二月辛未、皇后の衣箱の裙に五色雲が現れたとの奏上を受け大赦天下。新唐書本紀にはこの回の独立記事はなく、同月庚寅(708年3月23日)の大赦と同一事象を指す可能性がある(一次史料間で不一致)。

出典: 旧唐書 巻七(中宗睿宗)

大赦708年3月18日【第2次在位】景龍二年二月乙酉、皇后の服に慶雲の瑞ありとして大赦天下(内外五品以上の母・妻に邑号加授等)。

【第2次在位】景龍二年二月乙酉、皇后の服に慶雲の瑞ありとして大赦天下(内外五品以上の母・妻に邑号加授等)。新唐書本紀は同内容をほぼ同月庚寅条に記載しており日付が異なる。

出典: 旧唐書 巻七(中宗睿宗)

大赦709年1月6日【第2次在位】景龍二年十一月己卯、安楽公主降嫁の礼を終えて大赦天下。

出典: 旧唐書 巻七(中宗睿宗)

大赦709年12月18日【第2次在位】景龍三年十一月乙丑、南郊にて親祀(皇后が亜献)、大赦天下。

出典: 旧唐書 巻七(中宗睿宗)

立后日付不詳【第1次在位】嗣聖初(684年、中宗の第1次即位直後)、韋氏を皇后に立てる。

【第1次在位】嗣聖初(684年、中宗の第1次即位直後)、韋氏を皇后に立てる。『新唐書』巻七十六后妃伝上・中宗韋庶人伝に「帝在东宫,后被选为妃。嗣圣初,立为皇后」とある。旧唐書中宗紀は在位期間が短いためかこの記事を欠く。正確な日付は原文に明記されていない。

出典: 新唐書 巻七十六(后妃上・中宗韋庶人傳)

収録基準・各項目の数え方・出典はこのサイトについてを、時代の中での位置は通史年表をご覧ください。