中国皇帝統計

殤帝

唐|在位 710年

諱(本名)
李重茂
在位
710年
在位期間
17日365名中363位
即位経路
擁立
死因
不詳
即位時年齢
16歳(数え年)172名中・若い順53位タイ
没年齢
17歳(数え年)269名中・長寿順249位タイ
改元
1332名中142位タイ
大赦
3267名中121位タイ
立后
1204名中52位タイ
皇太子廃立
0
親征
0
反乱鎮圧
0
被反乱
1289名中203位タイ
遷都
0

順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。

即位の経緯

韋皇后により擁立され即位(16歳前後)。李隆基のクーデター(唐隆政変)により在位25日ほどで廃位、温王に降格。

出典: 旧唐書 巻七(中宗睿宗)

死因の経緯

廃位後、襄王に降格され集州へ左遷(中郎将率兵500人で監視)。開元2年に房州刺史に転任した直後「尋薨」(まもなく死去)とあるのみで死因の記載がない。享年17歳の急死という不審な状況ではあるが、原典に病死・他殺いずれの明記もないため不詳と判定。

出典: 旧唐書 巻八十六(殤皇帝重茂伝)/新唐書 巻五(先天二年七月条)

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

在位中の元号は「唐隆」のみで、改元は即位に伴う最初の建元1回のみ。傀儡的即位(韋皇后=皇太后による擁立)ではあるが、実際にその治世(唐隆元年)で使用された年号のため1回とカウントした。

大赦回数

在位(唐隆元年=710年、丁亥即位~甲辰廃位の間)に該当する大赦を数えた。甲申(即位3日前、太后摂政下の発喪・改元詔勅に伴う大赦)は形式上まだ本人が即位する前の出来事だが、韋后擁立劇の一体の即位詔勅として重茂の治世名義(唐隆元年)で出されたため参考として含めた(confidenceをmediumとした主因)。丁亥(正式即位当日)の大赦は別途明記されており2件目としてカウント。辛丑(臨淄王のクーデター翌日)の大赦は、実権は既に相王(睿宗)側に移っていたが、重茂はまだ形式上皇帝の地位にあった(正式な廃位は3日後の甲辰)ため在位中の出来事として算入した。

立后回数

新唐書本紀第五(睿宗玄宗紀)に「丁亥,溫王妃陸氏爲皇后」との記載があり、重茂の正式即位当日に妃の陸氏が皇后に冊立された。旧唐書本紀第七・列伝第三十六(殤皇帝重茂傳)には陸氏立后の記事は見当たらず新唐書のみでの確認となるためconfidenceをmediumとした。再冊立・廃后の記録はなし。

皇太子廃立回数

重茂自身の18日間の在位中に皇太子・皇太弟を立てた記録はなく、当然その廃立の記録もない。なお旧唐書・新唐書の謫王重福伝に、重福の反乱計画(景雲元年、重福自身は挙兵直前に失敗・自殺)の中で共謀者の鄭愔が『重茂を皇太弟とする』構想を重福に進言した記述があるが、これは反乱側の未実施の企図に過ぎず、実際に重茂が皇太弟に冊立されたり廃されたりした事実はないため、本項目には算入しない。

親征回数

在位18日間(710年7月8日~7月25日)を旧唐書本紀第七・列伝第三十六で確認したが、重茂自身が軍を率いて出征した記録はない。

反乱鎮圧回数

在位中に重茂側(政権側)が主体となって反乱を鎮圧した記録はない。唯一の武力事件である臨淄王李隆基の唐隆政変(庚子夜のクーデター)は反乱側が成功し韋氏一党を誅殺・実権を奪取したものであり、鎮圧主体は重茂側ではないため本項目には計上しない(判定基準パターン4に該当)。

被反乱回数

唐隆政変を重茂に対する被反乱として1件算入したが、これを重茂個人の廃位を意図したクーデターと見るか、あるいは重茂を擁立した韋太后一党に対するクーデターと見るか(重茂本人はその後2代皇帝として一定期間存置された)で解釈の幅があるため confidence を medium とした。パターン4の「兵力を用いて皇帝を弑逆・廃位に追い込んだ場合」に文言上は合致すると判断した。

遷都回数

旧唐書・新唐書を通読。該当在位期間中に新たな遷都の記録なし(684年洛陽遷都は睿宗期、705年長安復都は中宗復位期、904年洛陽強制遷都は昭宗期の出来事として各々計上済み)。

即位時年齢・没年齢

既存レコードの ages をそのまま転記。旧唐書本紀第七(中宗睿宗)に「丁亥,皇太子即帝位於柩前,時年十六」と即位時年齢の明記あり。旧唐書列伝第三十六(巻八十六・殤皇帝重茂傳)に「開元二年,轉房州刺史。尋薨,時年十七」と没時年齢の明記あり。生年月日そのものの直接記載は見当たらない。

在位中の出来事(6件)

改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。

改元710年7月5日【皇帝即位(改元同時)】中宗崩御後、皇太后(韋后)臨朝のもと発喪・遺制宣布と同時に「大赦天下,改元爲唐隆」と建元。

【皇帝即位(改元同時)】中宗崩御後、皇太后(韋后)臨朝のもと発喪・遺制宣布と同時に「大赦天下,改元爲唐隆」と建元。重茂の正式践祚(丁亥=7/8)の3日前の詔だが、これが重茂の治世元号「唐隆」の起点であり、他に改元はないため即位建元としてカウント。

出典: 旧唐書本紀第七(中宗睿宗)

大赦710年7月5日【皇帝即位前(太后摂政による発喪・改元と同時の大赦)】韋皇后(皇太后)臨朝のもと、中宗の遺制を宣し発喪、「大赦天下,改元爲唐隆」。

【皇帝即位前(太后摂政による発喪・改元と同時の大赦)】韋皇后(皇太后)臨朝のもと、中宗の遺制を宣し発喪、「大赦天下,改元爲唐隆」。重茂はこの時点ではまだ皇太子で正式には即位していない(正式践祚は3日後の丁亥)。傀儡的な形式であるが、本人名義の治世元年(唐隆元年)の起点となる大赦のため参考記録。

出典: 旧唐書本紀第七(中宗睿宗)

大赦710年7月8日【皇帝即位(即位当日)】「皇太子即帝位於柩前,時年十六。

【皇帝即位(即位当日)】「皇太子即帝位於柩前,時年十六。皇太后韋氏臨朝稱制,大赦天下,常赦所不原者咸赦除之」。重茂本人の正式即位当日に発せられた大赦(実権は韋太后)。

出典: 旧唐書本紀第七(中宗睿宗)

立后710年7月8日重茂の即位当日、温王妃陸氏が皇后に冊立された。

出典: 新唐書本紀第五(睿宗玄宗)

被反乱710年7月21日〜710年7月24日唐隆政変(李隆基のクーデター)

首謀者: 臨淄王李隆基(後の玄宗)

結果: 反乱側(李隆基)が成功。庚子夜、臨淄王が万騎兵等を率いて北軍に入り韋温・宗楚客ら韋氏・武氏一党を誅殺。翌日辛丑、相王(睿宗)が少帝(重茂)を伴い安福門楼で百姓に慰諭・大赦を布告し実権は相王側に移行。3日後の甲辰、重茂は「少帝詔」を発して叔父相王(睿宗)に譲位し、温王に降格・別宮へ退去(正式廃位)。

旧唐書本紀第七(睿宗紀)に「景龍四年夏六月…庚子夜,臨淄王諱與太平公主子薛崇簡…等率兵入北軍,誅韋温、紀處訥、宗楚客、武延秀…諸韋、武黨與皆誅之。辛丑,帝挾少帝御安福門樓慰諭百姓,大赦天下」「甲辰,少帝詔曰…請叔父相王即皇帝位…於是少帝遜於別宮…封少帝為溫王」とある。臨淄王は皇族(宗室)であり丞相・宦官等の廷臣ではないが、朝廷内部の人物が兵力(北軍・万騎)を用いて政権中枢(韋太后一党)を武力打倒し、結果として在位中の皇帝(重茂)を廃位に追い込んだ点で判定基準パターン4(朝廷内部の権力者による兵力を伴うクーデター)に該当すると判断し、被反乱側に算入した。鎮圧の主体は重茂側ではなく反乱(クーデター)側であったため、rebellionSuppressionCountには計上しない。

大赦710年7月22日【皇帝在位中(クーデター後・廃位前)】李隆基のクーデター(庚子夜)翌日、「帝(睿宗=相王)挾少帝御安福門樓慰諭百姓,大赦天下」(旧唐書本紀七)。

【皇帝在位中(クーデター後・廃位前)】李隆基のクーデター(庚子夜)翌日、「帝(睿宗=相王)挾少帝御安福門樓慰諭百姓,大赦天下」(旧唐書本紀七)。新唐書本紀五でも「睿宗奉皇帝御安福門,大赦」と対応する記事あり。重茂はこの時点ではまだ形式上皇帝であり(正式な廃位・睿宗践祚は3日後の甲辰)、実権は既に相王側に移っていたため傀儡的大赦として在位中カウントに含めた。

出典: 旧唐書本紀第七(中宗睿宗);新唐書本紀第五(睿宗玄宗)

収録基準・各項目の数え方・出典はこのサイトについてを、時代の中での位置は通史年表をご覧ください。