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唐第7代

殤帝李重茂

在位 710年(17日)710年7月8日 〜 710年7月25日

日本は奈良時代

李重茂は中宗の第四子で、父の死後に韋后のもとで即位したが、韋氏が誅されると叔父の相王に位を譲り、のちに殤皇帝と諡された皇帝である。

殤帝の人物データ

生年
不詳年齢は史書に記された年齢から数えた
在位
  • 710年7月8日〜710年7月25日
17日長い順361位/365人16歳で即位(数え年)710年に在位を終え、4年後の714年に没
没年
714年9月5日17歳(数え年)長生き順同率246位/266人
死因
同じ死因31人/365人
即位経路
先代
  • 中宗唐殤帝は中宗の子
次代
  • 睿宗唐復位による継承・睿宗は殤帝の叔父
呼び名
姓李諱重茂諡号殤皇帝呼び名の見方

出典

在位
旧唐書 本紀第七 中宗睿宗
死因
旧唐書 巻八十六(殤皇帝重茂伝)/新唐書 巻五(開元二年七月条)
即位経路
旧唐書 巻七(中宗睿宗)

生涯

どんな皇帝か

旧唐書のは、中宗の母と妻と娘の禍を述べ、天が暗い気を一掃しようとしたのは李重茂に持ちこたえられるものではなかったと結ぶ。

即位まで

中宗の第四子で、韋后の子ではなく後宮の生んだ子である。北海王、ついで温王に封じられた。長兄の李重潤は祖母の武則天に杖殺され、三兄の李重俊は兵を挙げて敗れ、逃げる途中で殺された。710年に中宗が没すると、韋后は喪を秘して政事を執った。李重茂は皇太子に立てられ、韋后がして唐隆とし、李重茂が中宗の柩の前で即位した。

史料について

皇太子に立てたのを、新唐書の睿宗紀は韋后が詔を偽ったとし、旧唐書の韋后伝は韋后が兄の韋温と策を定めたとし、資治通鑑は太平公主と上官昭容が起草したによるとする。

治世と最期

宗楚客らは韋后に武則天にならうよう勧め、李重茂を害して相王と太平公主を除こうと謀った。臨淄王李隆基(のちの玄宗)が兵を挙げて韋氏・武氏の一党を誅し、韋太后は乱兵に殺された。翌日、相王が李重茂を伴って安福門の楼に出て、民を慰めた。

太平公主が少帝の命として相王に譲位を請い、相王はいったん固辞したが、少帝の制として位が伝えられた。なお御座にいた李重茂は、太平公主に子供の座る所ではないと言われて引き下ろされ、別宮に退いて温王とされた。

のちに鄭愔らが、次兄の李重福を天子に、李重茂をに推し立てる手はずを立てた。重福は東都で挙兵して敗れ、身を投げて死んだ。711年に襄王に改められて集州に移され、兵五百人に守られた。714年、房州に転じてまもなく没し、殤皇帝と諡された。

史料について

引き下ろした場面を、旧唐書の太平伝は、王室に事が多いので年長の君主に頼るべきだと告げたとする。旧唐書の重福伝は、李重茂自身が手はずに関わったとは書かない。死因を、旧唐書の伝と両唐書の玄宗紀、資治通鑑はいずれも書かない。死んだ所を、旧唐書の玄宗紀は梁州とする。

殤帝とつながる皇帝

在位中の出来事

反乱1・皇后1・改元1・大赦2
  1. 改元710年7月5日元号を「唐隆」とする
  2. 710年7月8日
  3. 皇后710年7月8日重茂の即位当日、温王妃陸氏が皇后に冊立された。
  4. 反乱710年7月21日〜710年7月25日唐隆政変(李隆基のクーデター)
  5. 710年7月22日

唐の歴代皇帝

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年表

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