玄宗
唐|在位 712–756年

- 諱(本名)
- 李隆基
- 廟号
- 玄宗
- 在位
- 712–756年
- 在位期間
- 43年349日365名中11位
- 即位経路
- 禅譲
- 死因
- 病死
- 即位時年齢
- 28歳(数え年)172名中・若い順106位タイ
- 没年齢
- 78歳(数え年)269名中・長寿順7位
- 改元
- 3回332名中45位タイ
- 大赦
- 17回267名中11位タイ
- 立后
- 1回204名中52位タイ
- 皇太子廃立
- 1回29名中5位タイ
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 12回225名中35位タイ
- 被反乱
- 12回289名中40位タイ
- 遷都
- 0回
関連動画
当サイトとは無関係の外部YouTubeチャンネル「鳥人間 中国史三昧」様が制作・公開されている解説動画です。
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
先天元年8月、睿宗が皇太子隆基(玄宗)に生前譲位した正規の禅譲。
出典: 新唐書 巻五(睿宗紀)
死因の経緯
上元2年4月甲寅、神龍殿にて崩御、享年78。晩年は李輔国により甘露殿へ移され側近も配流・致仕となり「上皇浸不自懌」(不快な状態が続いた)と記されるなど事実上の軟禁・孤立状態にあったが、正史は暗殺等の疑いを一切記さず高齢での病没として記録する。
出典: 旧唐書 巻九(玄宗紀下)
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
旧唐書本紀 巻八・巻九、および先天建元の詳細については新唐書巻五(睿宗紀)を参照して確認。先天→開元→天宝の3回。なお天宝三載正月丙辰朔に「改年為載」(元号は天宝のまま、紀年単位を「年」から「載」に変更する制度改定)とあるが、これは新元号への切替ではないため改元回数には含めない(noteのみ付す)。天宝十五載(756年)七月の粛宗による「至徳」改元は、玄宗の譲位後・粛宗自身の治世における改元であるため、玄宗の改元回数には含めない。
大赦回数
旧唐書本紀 巻八(玄宗上)・巻九(玄宗下)を通読し「大赦天下」と明記された記事のみを抽出(「曲赦」等の地域・対象限定の恩赦は除外)。日付の西暦換算はローカルのsxtwl(干支暦計算ライブラリ)により本紀記載の干支を照合して算出(先天元年八月甲辰・丁未の照合結果が既存レコードのreignStart「0712-09-08」等と正確に一致することを確認済みで、換算方式の信頼性を検証済み)。ただし一部(開元二十年十一月庚午・開元二十三年正月己亥)は月境界付近または該当月内に該当干支が存在せず、唐代暦(麟徳暦/大衍暦)と現代の遡及計算暦との間に生じうる数日のずれの影響と考えられるため、該当イベントは精度を下げて記録した。最後の天宝十五載八月の大赦は、玄宗が蜀に逃れた後、粛宗の霊武即位(同年七月)を知らされる前(本紀「癸巳,霊武使至,始知皇太子即位」)に玄宗自身の名で発せられたものであり、本紀(玄宗紀下)に玄宗の事跡として記載されているためカウントに含めた。
立后回数
旧唐書列伝第一(后妃上)「玄宗廃后王氏」条:「上將起事,頗預密謀,賛成大業。先天元年,為皇后」との明記があり、正式な立后は先天元年の一回のみ。日付(干支丁未)は新唐書巻五(睿宗紀)「丁未,立皇太子妃王氏為皇后」により特定。王皇后は開元十二年七月己卯に讒言・巫蠱事件で廃され庶人となった後、玄宗の在位中に新たな皇后は立てられなかった(武恵妃は死後の開元二十五年に貞順皇后と追贈されたのみで生前の冊立ではなく、楊貴妃も生前は貴妃どまりで立后されていない)。王皇后は玄宗没後の代宗宝応元年(762年)に名誉回復(雪免)され皇后号を復されたが、これは玄宗の治世外の出来事であるためカウントに含めない。
皇太子廃立回数
旧唐書巻九(玄宗紀下)を通読して確認。廃立は開元二十五年の一回のみ。武恵妃・李林甫らの讒言により皇太子瑛(李瑛)・鄂王瑶・光王琚の三名が同時に廃されて庶人となった事件。その後開元二十六年六月庚子に忠王璵(後の粛宗)が新たに皇太子に立てられ、玄宗譲位(天宝十五載)までその地位を保ったため、再度の廃立は発生していない。
親征回数
旧唐書本紀巻八(玄宗上)・巻九(玄宗下)を通読したが、玄宗自身が軍を率いて戦場に赴いた事例は見当たらなかった。対突厥・対吐蕃・対契丹奚・対南詔(雲南)等の軍事行動はすべて薛訥・王晙・張守珪・哥舒翰・高仙芝ら将軍への派遣によるもので、皇帝本人は出陣していない。天宝十五載六月に潼関陥落を受け『乃下詔亲征』(親征の詔)を出しているが、直後の記述の通り実際には交戦せず蜀へ逃避行しただけであり(『仗下、従士庶恐骇、奔走于路』)、戦場に赴いての軍事行動には該当しないため親征回数には含めなかった。なお先天二年七月の太平公主一派誅殺(自ら親信を率いて武徳殿から出て粛清)は対外的な軍事遠征ではなく宮廷内クーデターの先制鎮圧であり、目的地への出征を伴わないため親征の定義に該当しないと判断した。
反乱鎮圧回数
旧唐書本紀巻八(玄宗上)・巻九(玄宗下)を通読。皇帝の統治機構下にある勢力(州県・羈縻服属民・唐の官職を受けた将領・宮城内への武装侵入者等)による武装蜂起で政権側が鎮圧の主体となったもの12件を計上した。吐蕃・突厥・突騎施・南詔(雲南)等、唐に服属していない独立勢力との対外戦争は除外。先天二年七月の太平公主一派によるクーデター未遂は、挙兵予定日(四日)より前に玄宗側が先制して誅殺しており(パターン3:皇帝自身が攻撃の主体、相手はまだ反乱を起こしていない)、両カウントから除外した。開元二十二年二月の北庭都護劉渙謀反、天宝十一載四月の邢縡謀逆(王鉷弟王銲連座)は、本紀の記述からは実際の挙兵に至らず摘発・処刑のみで終わった謀反計画とみられるため除外した。天宝十五載六月の馬嵬駅における龍武軍将士の兵変(陳玄礼ら)は兵力を伴う行動だが、標的は宰相楊国忠・楊貴妃であり玄宗自身の弑逆・廃位には至っていないため除外した。一部事案(安南梅叔鸾・邕州獠梁大海・泷州陳行範)は本紀に討伐結果の明記がないが、成否を問わず討伐実行の事実をもって計上した。
被反乱回数
旧唐書本紀巻八・巻九を通読。rebellionSuppressionCountと同一の12件を、被反乱側としても集計単位(首謀者/蜂起単位)を揃えて計上した。除外理由(太平公主一派のクーデター未遂=皇帝側の先制鎮圧、北庭都護劉渙謀反・邢縡謀逆=挙兵に至らない摘発のみの謀反計画、馬嵬駅の兵変=標的が宰相楊国忠・楊貴妃であり玄宗自身の弑逆・廃位に至らず)はrebellionSuppressionCountと同様。
遷都回数
旧唐書・新唐書を通読。該当在位期間中に新たな遷都の記録なし(684年洛陽遷都は睿宗期、705年長安復都は中宗復位期、904年洛陽強制遷都は昭宗期の出来事として各々計上済み)。
即位時年齢・没年齢
既存レコードの内容をそのまま転記。旧唐書巻八「垂拱元年秋八月戊寅,生于東都」(生年月日を干支で明記、西暦換算685-09-08)。旧唐書巻九「上元二年四月甲寅,崩于神龍殿,時年七十八」(没年月日・没年齢=78を明記)。ただし上元二年(761年)九月以降は粛宗が正式な年号を立てず斗建紀月法を用いた特殊期間にあたり、崩御記事の月日を一意な西暦日に変換することは困難なため、没年は通説(新唐書の紀年整理)に従い762年とし年精度に留めた(既存判断を踏襲)。即位時年齢(先天元年八月、712年即位)は原文に「時年」等の直接記載がないが、確定済みの生年(685年)と、原文明記の没年齢78(762年時点、762-685+1=78で虚歳計算法の整合性を検証済み)と同一の方式(即位年-生年+1=712-685+1=28)により確度の高い逆算値として28歳を算出し、今回新たに補完した。
在位中の出来事(46件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
改元712年9月12日先天元年八月甲辰、睿宗が譲位を布告した際の改元(先天建元)。
先天元年八月甲辰、睿宗が譲位を布告した際の改元(先天建元)。同年八月庚子に皇太子隆基(玄宗)が皇帝に即位し小事を聴くこととなっており、この改元は玄宗の治世開始とほぼ同時に行われたものと位置付けられる。【皇帝即位(改元同時)】
出典: 新唐書 巻五(睿宗紀)
立后712年9月15日先天元年八月丁未、皇太子妃王氏を皇后に冊立。
先天元年八月丁未、皇太子妃王氏を皇后に冊立。玄宗が皇帝として国政の一部を聴くようになった直後(先天建元とほぼ同時期)の出来事。
出典: 新唐書 巻五(睿宗紀)
大赦713年7月先天二年七月、太平公主一派のクーデター未遂(七月三日発覚・鎮圧)の直後に発せられた大赦。
先天二年七月、太平公主一派のクーデター未遂(七月三日発覚・鎮圧)の直後に発せられた大赦。「可大赦天下,大辟罪已下咸赦除之」。原文に明確な干支日の記載がなく、「睿宗明日下詔」(七月四日頃)との記述から時期を推定したため精度を月にとどめた。
出典: 旧唐書 巻八(玄宗紀上)
改元713年12月22日先天二年十二月庚寅朔、太平公主一派粛清後の新体制発足に伴い「大赦天下,改元為開元」。
先天二年十二月庚寅朔、太平公主一派粛清後の新体制発足に伴い「大赦天下,改元為開元」。【皇帝在位中】
出典: 旧唐書 巻八(玄宗紀上)
大赦713年12月22日先天二年十二月庚寅朔、「大赦天下,改元為開元」。
先天二年十二月庚寅朔、「大赦天下,改元為開元」。太平公主一派粛清後の新体制発足に伴う大赦(改元と同時)。
出典: 旧唐書 巻八(玄宗紀上)
反乱鎮圧715年相州崔子岩の乱
首謀者: 崔子岩
結果: 州司(地方官)が即座に討伐・鎮圧
開元三年十一月、妖賊崔子岩らが相州で蜂起(作乱)。州司が討平した。
被反乱715年相州崔子岩の乱
首謀者: 崔子岩
結果: 州司が即座に鎮圧
開元三年十一月、相州で蜂起。州司討平之。
反乱鎮圧721年兰池州叛胡の乱
首謀者: 康待宾・安慕容ら
結果: 兵部尚書王晙が討伐、叛胡三万五千騎を破り首謀者康待宾を斬首
開元九年、兰池州の降胡(六胡州の服属異民族)が叶護康待宾・安慕容と偽称して蜂起し六胡州を攻略。王晙が陇右諸軍・河東九姓を発して討伐、鎮圧に成功した。
被反乱721年兰池州叛胡の乱
首謀者: 康待宾・安慕容ら
結果: 王晙により鎮圧、康待宾斬首
開元九年、六胡州の服属異民族が蜂起し六胡州を攻略、後に鎮圧された。
大赦721年12月20日開元九年十一月庚午(冬至)、「大赦天下,内外官九品己上加一階」。
出典: 旧唐書 巻八(玄宗紀上)
反乱鎮圧722年安南梅叔鸾の乱
首謀者: 梅叔鸾
結果: 驃騎将軍楊思勗を派遣して討伐(本紀に討伐結果の明記なし)
開元十年八月、安南都護府管内で賊帥梅叔鸾らが州県を攻囲。楊思勗を派遣して討伐させたが、本紀にはその後の顛末の明記がない。
反乱鎮圧722年権梁山の乱(自称光帝)
首謀者: 権梁山・権楚璧
結果: 同夜のうちに討伐・斬首、鎮圧成功
開元十年九月、京兆の権梁山が襄王の子を自称し光帝と号して屯営兵数百人を率い宮城に斬り込んだが、夜明け前に敗れ斬首された。宮城への直接武装侵入事件。
被反乱722年安南梅叔鸾の乱
首謀者: 梅叔鸾
結果: 楊思勗を派遣して討伐(本紀に結果の明記なし)
開元十年八月、安南都護府管内の州県が攻囲された。
被反乱722年権梁山の乱(自称光帝)
首謀者: 権梁山・権楚璧
結果: 宮城への武装侵入は同夜のうちに撃退・鎮圧
開元十年九月、権梁山が皇族を自称し屯営兵数百人で宮城に斬り込んだ、皇帝の宮城への直接的武装反乱。
大赦723年12月18日開元十一年十一月戊寅、南郊親祀に伴う「大赦天下,見禁囚徒死罪至徒流已下免除之」。
出典: 旧唐書 巻八(玄宗紀上)
反乱鎮圧724年五溪覃行璋の乱
首謀者: 覃行璋
結果: 楊思勗が討伐し鎮圧(『討平之』と明記)
開元十二年閏十二月、五溪の首領覃行璋が反乱。楊思勗が討伐・鎮圧した。
被反乱724年五溪覃行璋の乱
首謀者: 覃行璋
結果: 楊思勗により鎮圧
開元十二年閏十二月、五溪の首領が反乱。
反乱鎮圧725年妖賊劉定高の乱
首謀者: 劉定高
結果: 即座に捕縛・処刑、鎮圧成功
開元十三年五月、妖賊劉定高が党與を率いて夜、東都の通洛門を襲撃したが、ことごとく捕らえられ斬首された。
被反乱725年妖賊劉定高の乱
首謀者: 劉定高
結果: 即座に捕縛・処刑
開元十三年五月、東都通洛門への夜間襲撃、ことごとく捕斬された。
大赦725年12月21日開元十三年十一月壬辰、泰山封禅(東封泰山)に伴う「大赦天下,流人未還者放還」。
出典: 旧唐書 巻八(玄宗紀上)
反乱鎮圧726年邕州獠梁大海の乱
首謀者: 梁大海・周光
結果: 楊思勗を派遣して討伐(本紀に結果の明記なし)
開元十四年二月、邕州の獠の首領梁大海・周光らが賓州・横州に拠って反乱。楊思勗を派遣したが結果は本紀に明記されていない。
被反乱726年邕州獠梁大海の乱
首謀者: 梁大海・周光
結果: 楊思勗を派遣して討伐(本紀に結果の明記なし)
開元十四年二月、邕州の獠が賓州・横州に拠って反乱。
反乱鎮圧728年泷州陳行範の乱
首謀者: 陳行範・馮仁智・何遊魯
結果: 楊思勗を派遣して討伐(本紀に結果の明記なし)
開元十六年正月、春州・泷州等の獠の首領陳行範・馮仁智・何遊魯らが反乱。楊思勗を派遣したが結果は本紀に明記されていない。
被反乱728年泷州陳行範の乱
首謀者: 陳行範・馮仁智・何遊魯
結果: 楊思勗を派遣して討伐(本紀に結果の明記なし)
開元十六年正月、春州・泷州等の獠が反乱。
大赦729年12月16日開元十七年十一月戊申、五陵(橋陵・定陵・献陵・昭陵・乾陵)親謁の帰途「大赦天下,流移人並放還,左降官移近處」。
出典: 旧唐書 巻八(玄宗紀上)
反乱鎮圧730年〜737年契丹可突干の乱
首謀者: 可突干(契丹衙官)
結果: 開元二十二年十二月、幽州長史張守珪が可突干とその王屈烈を陣中で討ち取り鎮圧。開元二十五年正月にも残党を撃破
開元十八年五月、契丹の衙官可突干が主李召固を殺害し突厥に投降、奚も同時に離反。趙含章に討伐を命じたが開元二十一年には副総管郭英傑が敗死するなど一進一退の末、開元二十年三月に信安王禕・趙含章が大破し、開元二十二年十二月に張守珪が可突干を討ち取り鎮圧。開元二十五年正月の残党掃討も同一反乱の継続とみなし1件で集計。契丹・奚は松漠都督府・饒楽都督府として唐の羈縻統治下にあった服属異民族のため被反乱・鎮圧双方に計上。
被反乱730年〜737年契丹可突干の乱
首謀者: 可突干(契丹衙官)
結果: 開元二十二年十二月に張守珪が可突干を討ち取り鎮圧、二十五年にも残党撃破
契丹(松漠都督府)・奚(饒楽都督府)は唐の羈縻統治下にあった服属異民族であり、突厥への離反・侵攻は服属民の反乱として計上。
大赦732年12月22日開元二十年十一月庚午、汾陰脽上での后土祭祀に伴う「大赦天下,左降官量移近處」。
開元二十年十一月庚午、汾陰脽上での后土祭祀に伴う「大赦天下,左降官量移近處」。干支照合上は月境界付近(宋暦計算では十二月朔に該当)に位置するため若干の誤差可能性あり。
出典: 旧唐書 巻八(玄宗紀上)
大赦735年1月開元二十三年正月己亥、親耕籍田に伴う「大赦天下」。
開元二十三年正月己亥、親耕籍田に伴う「大赦天下」。当該干支が計算上その月内に見出せず(暦法上のずれの可能性)、日精度での換算を断念し月精度とした。
出典: 旧唐書 巻八(玄宗紀上)
反乱鎮圧736年醴泉劉志誠の乱
首謀者: 劉志誠
結果: 京兆府が捕縛・処刑、鎮圧成功
開元二十四年六月、京兆醴泉の妖人劉志誠が衆を率いて反乱し京城へ向かおうとしたが、咸陽の官吏が便橋を焼いて退路を断ち潰走。京兆府がことごとく捕斬した。
被反乱736年醴泉劉志誠の乱
首謀者: 劉志誠
結果: 京兆府により捕縛・処刑
開元二十四年六月、醴泉の妖人が京城に向け蜂起したが潰走・鎮圧された。
皇太子廃立737年5月25日開元二十五年四月乙丑、「皇太子瑛、鄂王瑶、光王琚並廃為庶人」。
開元二十五年四月乙丑、「皇太子瑛、鄂王瑶、光王琚並廃為庶人」。三名とも間もなく賜死(実質処刑)。
出典: 旧唐書 巻九(玄宗紀下)
大赦738年7月23日開元二十六年七月己巳、忠王璵(後の粛宗)の立太子・冊皇太子に伴う「大赦天下,常赦所不免者咸赦除之」。
出典: 旧唐書 巻九(玄宗紀下)
大赦739年3月20日開元二十七年二月己巳、尊号加上(開元聖文神武皇帝)に伴う「大赦天下,常赦所不免者咸赦除之」。
出典: 旧唐書 巻九(玄宗紀下)
改元742年2月10日天宝元年正月丁未朔、「大赦天下,改元」により開元から天宝に改元。
天宝元年正月丁未朔、「大赦天下,改元」により開元から天宝に改元。【皇帝在位中】
出典: 旧唐書 巻九(玄宗紀下)
大赦745年2月1日天宝三載十二月甲寅、九宮貴神祭祀(東郊)に伴う「大赦天下」。
出典: 旧唐書 巻九(玄宗紀下)
大赦747年2月25日天宝六載正月戊子、太廟親享・圜丘親祀に伴う「大赦天下,除絞、斬刑,但決重杖」。
出典: 旧唐書 巻九(玄宗紀下)
大赦748年6月13日天宝七載五月壬午、興慶宮での徽号冊受に伴う「大赦天下,百姓免來載租庸」。
出典: 旧唐書 巻九(玄宗紀下)
大赦749年7月23日天宝八載閏六月丁卯、含元殿での冊受(聖祖玄元皇帝尊号奉冊等)に伴う「大赦天下」。
出典: 旧唐書 巻九(玄宗紀下)
大赦751年2月10日天宝十載正月甲午、南郊での合祭天地に伴う「大赦天下」。
出典: 旧唐書 巻九(玄宗紀下)
反乱鎮圧752年〜754年阿布思の叛乱
首謀者: 阿布思
結果: 天宝十三載三月、北庭都護程千里が生け捕りにし朱雀街で斬首、鎮圧成功
天宝十一載三月、朔方節度副使・奉信王に封じられていた阿布思(唐に帰順した突厥系将領)が安禄山との不和から部下を率いて漠北に叛帰。天宝十三載三月に程千里が生け捕り処刑した。唐の官職・爵位を受けた服属武将の離反のため被反乱・鎮圧双方に計上。
被反乱752年〜754年阿布思の叛乱
首謀者: 阿布思
結果: 天宝十三載三月、程千里により生け捕り・処刑
唐の官職・爵位を受けた朔方節度副使・奉信王阿布思が部下を率いて漠北に叛帰した服属武将の離反。
大赦754年3月7日天宝十三載二月乙亥、興慶殿での徽号冊受に伴う「大赦天下,左降官遭父母憂,放歸」。
出典: 旧唐書 巻九(玄宗紀下)
反乱鎮圧755年〜756年安史の乱(玄宗期)
首謀者: 安禄山
結果: 封常清・高仙芝・哥舒翰を派遣して防戦させたが潼関陥落、玄宗は蜀へ逃れ譲位に至るまで鎮圧されず(在位終了時点で未鎮圧)
天宝十四載十一月、范陽節度使安禄山が『誅楊国忠』を名目に蕃漢の兵十余万を率い挙兵。玄宗は封常清・高仙芝、続いて哥舒翰を派遣し迎撃させたが天宝十五載六月に潼関が陥落。玄宗は『親征』の詔を出しつつ実際には蜀へ逃避、同年七月粛宗の霊武即位を事後承諾する形で譲位した。鎮圧の試み(将軍派遣)自体は行われたため鎮圧回数に計上したが、在位終了までに鎮圧は完了しなかった。
被反乱755年〜756年安史の乱(玄宗期)
首謀者: 安禄山
結果: 潼関陥落・長安失陥、玄宗は蜀へ逃れ譲位に至るまで乱は鎮圧されず
天宝十四載十一月挙兵、玄宗の在位終了(天宝十五載七月の事実上の譲位)までに鎮圧は完了しなかった(未鎮圧のまま在位終了)。
大赦756年8月31日天宝十五載八月癸未朔、安史の乱により蜀に逃れた玄宗が成都で発した詔「思與群臣重弘理道,可大赦天下」。
天宝十五載八月癸未朔、安史の乱により蜀に逃れた玄宗が成都で発した詔「思與群臣重弘理道,可大赦天下」。粛宗の霊武即位(同年七月甲子)を玄宗がまだ知らない段階(本紀ではこの直後に「癸巳,霊武使至,始知皇太子即位」とある)で、なお在位皇帝として発した最後の大赦とみられる。
出典: 旧唐書 巻九(玄宗紀下)