順宗の人物データ
- 生年
- 761年2月
- 在位
- 805年2月28日〜805年8月31日
- 没年
- 806年2月11日46歳(数え年)長生き順同率99位/266人
- 死因
- 病死病気や老衰による死。同じ死因169人/365人
- 呼び名
- 姓李諱誦呼び名の見方
出典
- 在位
- 旧唐书 本紀第十四 顺宗宪宗上
- 死因
- 旧唐書 巻十四(順宗紀)/旧唐書 巻184下(宦官伝・
俱文珍伝) - 即位経路
- 旧唐書 巻十四(順宗紀)
生涯
どんな皇帝か
旧唐書の史臣歴史書を編み、その中で評を述べた人韓愈は、太子のころの李誦を、隷書が巧みで寛大で決断力があり、師傅皇族などを教え導く先生を礼遇したと記す。同じ史臣は、病のまま即位して近臣に権を弄ばれたが、政治を太子に委ねたことは賢明だったと評する。
即位まで
徳宗の長子で、母は王氏である。780年に皇太子に立てられた。奉天に逃れたときは、弓矢を執って父のそばにいた。宴で上機嫌の徳宗に感想を問われると、楽しみを好んでも溺れないという古い詩の句で答えた。妃の母の郜国公主皇帝の娘が告発されて徳宗に厳しく責められると、妃との離婚を願った。李泌が廃立君主や跡継ぎを退け、別の人を立てることを諫め、徳宗はのちに、太子は仁孝で他意は無いと言った。790年に公主が没して太子が病むと、徳宗は災いを払うためとして妃を殺した。宮市宮廷の使いが市場で品を安く買い上げたことの弊害を父に強く言おうとして、王叔文に、太子は外事に関わるべきでないと諫められ、これより叔文を重んじた。804年に風病手足のまひなどを起こす病で口がきけなくなり、805年に徳宗が没すると、病を押して喪服で百官朝廷のすべての役人に会い即位した。
史料について
奉天の場面を、旧唐書の史臣曰は禁軍宮中や都を守る、皇帝直属の軍の先頭に立って城に登り防戦したとする。妃の死は新唐書の諸公主伝にあり、旧唐書の郜国公主伝は書かない。
治世と最期
王伾と王叔文を翰林学士皇帝のそばで詔を書き、相談にも乗る学者の官に取り立て、大赦して正規の税以外の雑税と臨時の献上を禁じ、宮女と楽人計900人を宮中から出した。
同じ年に子の広陵郡王(憲宗)を皇太子に立てた。政事が李忠言・王伾・王叔文に決せられていたので、宦官去勢されて宮中で皇帝や后妃に仕えた男の倶文珍らが太子に政務を任せるよう請い、李誦は許して、病が癒えないとして政務を太子に任せた。やがて太子に位を譲って太上皇位を退いた(退かされた)前の皇帝の呼び名となり、その2日後に王伾と王叔文は地方へ左遷された。806年、興慶宮で没した。
史料について
委任のわけを、旧唐書の本紀皇帝ごとの出来事を年代順に書いた記録やその部分は藩鎮地方で兵や財を握った軍の長官とその勢力が太子に訴えたためとし、倶文珍の伝と資治通鑑は宦官の請いとする。資治通鑑は韋皋の上表も載せ、李誦自身ももともと政務に倦んでいたとする。両唐書の順宗紀と倶文珍の伝、資治通鑑は、譲位を強いられたとも殺されたとも書かない。
順宗とつながる皇帝

勢力図
唐の勢力図で見る
805年の地図に、順宗が治めた国が描かれています。
在位中の出来事
改元1・大赦1
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。805年3月28日御丹鳳楼にて大赦を布告。
- 改元805年9月1日元号を「永貞」とする
唐の歴代皇帝
歴代21人の一覧- 第1代高祖李淵618–626年病死
- 第2代太宗626–649年諸説あり
- 第3代高宗649–683年病死
- 第4・6代中宗683–684年705–710年(復位)暗殺
- 第5・8代睿宗684–690年710–712年(復位)病死
- 周武則天690–705年病死
- 第7代殤帝710年不詳
- 第9代玄宗712–756年病死
- 第10代粛宗756–762年病死
- 第11代代宗762–779年病死
- 第12代徳宗779–805年病死
- 第13代順宗805年病死
- 第14代憲宗805–820年暗殺
- 第15代穆宗820–824年病死
- 第16代敬宗824–826年暗殺
- 第17代文宗826–840年病死
- 第18代武宗840–846年病死
- 第19代宣宗846–859年病死
- 第20代懿宗859–873年病死
- 第21代僖宗873–888年病死
- 第22・23代昭宗888–900年901–904年(復位)暗殺
- 第24代哀帝904–907年暗殺
- 歴代外李裕900–901年暗殺
- 歴代外李承宏763年不詳
- 歴代外襄王李熅886年処刑
年表
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