中国皇帝統計

順宗

唐|在位 805年

諱(本名)
李誦
在位
805年
在位期間
184日365名中326位タイ
即位経路
世襲
死因
病死
即位時年齢
不詳
没年齢
46歳(数え年)269名中・長寿順99位タイ
改元
1332名中142位タイ
大赦
1267名中194位タイ
立后
0
皇太子廃立
0
親征
0
反乱鎮圧
0
被反乱
0
遷都
0

順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。

即位の経緯

建中元年正月に皇太子となって以来20年以上の東宮であり、発病中も正規の皇太子として柩前即位した。

出典: 旧唐書 巻十四(順宗紀)

死因の経緯

即位以前(貞元20年9月)から中風で「不能言」の状態にあり、これが実際の疾病であることは史書間で一致する。譲位からわずか半年後の元和元年正月に崩御。旧唐書宦官伝(俱文珍伝)は、宦官俱文珍が王叔文一派の兵権奪取を察知し先手を打って皇太子擁立の詔を主導した「事実上の内禅」だったと明記しており、「病気による譲位」という本紀の表向きの記述と実態には乖離がある(この点は通説として広く指摘される)。ただし崩御自体について原文に暗殺を示唆する記述はなく持病の再燃と明記されるため、確信度medium で病死とする。

出典: 旧唐書 巻十四(順宗紀)/旧唐書 巻184下(宦官伝・俱文珍伝)

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

順宗は即位時に自身の建元を行わず父徳宗の元号『貞元』を継続した特殊な事例。改元は譲位直前の永貞改元1回のみ。この改元の布告日(8月5日)が本データセットのreigns.endDate(8月4日、譲位表明日)よりわずかに後になり在位境界をまたぐが、憲宗の正式即位(8月9日)以前かつ順宗自身の誥として発せられている点、また『永貞』が通説上も順宗の元号とされる点を踏まえ、順宗の改元としてカウントしconfidenceをmediumとした。

大赦回数

順宗の在位期間(貞元21年1月26日〜永貞元年8月4日)を通じ『大赦』と明記される記事はこの1件のみ。新唐書本紀第七も同日(甲子)に『大赦』と記し独立に裏付けが取れる。譲位時(8月辛丑の誥)の『天下死罪降従流、流以下逓減一等』は減刑措置であり『大赦』の語を用いないため対象外とした。元和元年正月の大赦(改元と同時挙行)はすでに憲宗の在位下で行われたためカウントしない。

立后回数

順宗在位中(貞元21年1月〜永貞元年8月)に皇后として正式冊立された記録はない。譲位当日の誥(八月辛丑)で良娣王氏(憲宗の生母)を『太上皇后』に、良媛董氏を『太上皇徳妃』に封じた記事はあるが、これは退位後の太上皇の配偶に与えられる称号であり、在位中の皇帝の正妃たる『皇后』冊立とは異なるため本項目には含めない。

皇太子廃立回数

順宗在位中(貞元21年1月〜永貞元年8月、約半年間)に皇太子の廃立の記録はない。貞元21年3月癸巳に広陵郡王李淳(のち李純、憲宗)を皇太子に立てた記事はあるが新規立太子であり廃立ではない。この皇太子はそのまま廃されず順宗からの譲位を受けて即位した。

親征回数

旧唐書巻十四(順宗紀、貞元21年正月〜永貞元年8月の在位期間)を通読。順宗は即位以前の貞元20年9月から中風で『不能言』の病状にあり、在位中一貫して疾病により政務も宦官・王叔文一派に委任していた(『事無巨細皆決於李忠言、王伾、王叔文』)。皇帝自身が出征・親征した記録は皆無。

反乱鎮圧回数

旧唐書巻十四(順宗紀)を通読。在位中に順宗政権側が主体となって鎮圧した反乱の記録はない。

被反乱回数

旧唐書巻十四(順宗紀)を通読。在位中(貞元21年正月〜永貞元年8月)に順宗政権に対する武装反乱の記録はない。貞元21年正月に『淄青李師古以兵寇滑之東鄙、聞國喪也』(国喪に乗じた辺境侵犯)とあるが、これは節度使李師古による辺境への軍事行動であり、順宗政権打倒を意図した反乱蜂起とは性質が異なるため計上しない。永貞内禅(宦官による皇太子擁立の主導)も兵力を伴う武力弑逆・クーデターではなく政治的圧力によるものであり、被反乱には該当しない。

遷都回数

旧唐書・新唐書を通読。該当在位期間中に新たな遷都の記録なし(684年洛陽遷都は睿宗期、705年長安復都は中宗復位期、904年洛陽強制遷都は昭宗期の出来事として各々計上済み)。

即位時年齢・没年齢

既存データを転記。旧唐書本紀(巻十四)は『上元二年正月生於長安之東内』(761年正月生誕、日は不明)と記し、崩御時『享年四十六歳』と明記。新唐書本紀第七も『年四十六』と一致し裏付けが取れる。birthDateの0761-02-10は上元2年正月朔日(旧暦月初)を西暦換算した参考値。即位時年齢は原文に『時年』等の直接記載がないため算出せずnullとした。

在位中の出来事(2件)

改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。

大赦805年3月28日貞元二十一年二月甲子、御丹鳳楼にて大赦天下を布告。

貞元二十一年二月甲子、御丹鳳楼にて大赦天下を布告。同時に諸道の正勅率税外の榷税禁断、90歳以上へ米二石・絹二匹、100歳以上へさらに手厚い恩賜(版授上佐・県君/下州刺史・郡君)を実施。

出典: 旧唐書 巻十四(順宗紀)

改元805年9月1日譲位に伴う誥(永貞元年八月辛丑)で『宜改貞元二十一年為永貞元年』と改元を布告。

譲位に伴う誥(永貞元年八月辛丑)で『宜改貞元二十一年為永貞元年』と改元を布告。即位当初(貞元21年正月)は父徳宗の元号『貞元』をそのまま継続使用し、自身の建元は行わなかった(在位中唯一の改元)。この誥は前日(庚子)に順宗が自ら『太上皇』を称した後の日付だが、憲宗の正式即位(永貞元年8月9日・乙巳)より前に順宗の名で発せられたものであり、新唐書本紀第七も同日(辛丑)の『改元』を記して裏付けが取れる。通説上『永貞』は順宗の元号として扱われるため、王朝境界をまたぐ本件は順宗側の改元としてカウントした。

出典: 旧唐書 巻十四(順宗紀)

収録基準・各項目の数え方・出典はこのサイトについてを、時代の中での位置は通史年表をご覧ください。