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唐第13代

順宗李誦

在位 805年(184日)805年2月28日 〜 805年8月31日

日本は平安時代

李誦は唐の徳宗の長子で、即位の前から病で口がきけず、その年のうちに子の憲宗に位を譲った皇帝である。

順宗の人物データ

生年
761年2月
在位
  • 805年2月28日〜805年8月31日
184日長い順同率318位/365人即位の年齢は不詳805年に憲宗に位を譲り(内禅)、1年後の806年に没
没年
806年2月11日46歳(数え年)長生き順同率99位/266人
死因
同じ死因169人/365人
即位経路
先代
  • 徳宗唐順宗は徳宗の子
次代
  • 憲宗唐憲宗は順宗の子
呼び名
姓李諱誦呼び名の見方

出典

在位
旧唐书 本紀第十四 顺宗宪宗上
死因
旧唐書 巻十四(順宗紀)/旧唐書 巻184下(宦官伝・俱文珍伝)
即位経路
旧唐書 巻十四(順宗紀)

生涯

どんな皇帝か

旧唐書の韓愈は、太子のころの李誦を、隷書が巧みで寛大で決断力があり、を礼遇したと記す。同じ史臣は、病のまま即位して近臣に権を弄ばれたが、政治を太子に委ねたことは賢明だったと評する。

即位まで

徳宗の長子で、母は王氏である。780年に皇太子に立てられた。奉天に逃れたときは、弓矢を執って父のそばにいた。宴で上機嫌の徳宗に感想を問われると、楽しみを好んでも溺れないという古い詩の句で答えた。妃の母の郜国が告発されて徳宗に厳しく責められると、妃との離婚を願った。李泌がを諫め、徳宗はのちに、太子は仁孝で他意は無いと言った。790年に公主が没して太子が病むと、徳宗は災いを払うためとして妃を殺した。の弊害を父に強く言おうとして、王叔文に、太子は外事に関わるべきでないと諫められ、これより叔文を重んじた。804年にで口がきけなくなり、805年に徳宗が没すると、病を押して喪服でに会い即位した。

史料について

奉天の場面を、旧唐書の史臣曰はの先頭に立って城に登り防戦したとする。妃の死は新唐書の諸公主伝にあり、旧唐書の郜国公主伝は書かない。

治世と最期

王伾と王叔文をに取り立て、大赦して正規の税以外の雑税と臨時の献上を禁じ、宮女と楽人計900人を宮中から出した。

同じ年に子の広陵郡王(憲宗)を皇太子に立てた。政事が李忠言・王伾・王叔文に決せられていたので、の倶文珍らが太子に政務を任せるよう請い、李誦は許して、病が癒えないとして政務を太子に任せた。やがて太子に位を譲ってとなり、その2日後に王伾と王叔文は地方へ左遷された。806年、興慶宮で没した。

史料について

委任のわけを、旧唐書のはが太子に訴えたためとし、倶文珍の伝と資治通鑑は宦官の請いとする。資治通鑑は韋皋の上表も載せ、李誦自身ももともと政務に倦んでいたとする。両唐書の順宗紀と倶文珍の伝、資治通鑑は、譲位を強いられたとも殺されたとも書かない。

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勢力図

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805年の地図に、順宗が治めた国が描かれています。

在位中の出来事

改元1・大赦1
  1. 805年3月28日御丹鳳楼にて大赦を布告。
  2. 改元805年9月1日元号を「永貞」とする

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年表

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