憲宗
唐|在位 805–820年

- 諱(本名)
- 李純
- 在位
- 805–820年
- 在位期間
- 14年165日365名中92位
- 即位経路
- 禅譲
- 死因
- 暗殺
- 即位時年齢
- 不詳
- 没年齢
- 43歳(数え年)269名中・長寿順116位タイ
- 改元
- 1回332名中142位タイ
- 大赦
- 5回267名中82位タイ
- 立后
- 0回
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 10回225名中38位タイ
- 被反乱
- 13回289名中36位タイ
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
順宗からの内禅(形式上の禅譲)により即位。ただしこの内禅は宦官俱文珍が王叔文一派排除のために画策・主導したものであり、形式は禅譲だが実態は宦官の政治介入を伴う即位。
出典: 旧唐書 巻十四(順宗紀)
死因の経緯
旧唐書本紀自体が「時以暴崩,皆言内官陳弘志弑逆,史氏諱而不書」(暴崩と称したが世間では宦官陳弘志の弑逆と皆言っており、史官はこれを憚って書かなかった)と明記する。新唐書・王守澄伝はさらに踏み込み、丹薬中毒で気性が荒くなっていた憲宗を王守澄・陳弘志が中和殿で弑逆し「暴崩」と偽って布告したと直接断定する。新旧両唐書の本紀・列伝レベルで暗殺説の根拠が揃っている。
出典: 旧唐書 巻十五(憲宗紀下)/新唐書 巻207(宦者伝上・王守澄伝)
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
憲宗の在位期間(永貞元年八月~元和十五年正月)を通じて用いられた年号は「元和」のみであり、改元は即位翌年の元和元年正月の一度きり。日付は同年正月甲申(順宗崩御日、丙寅朔から19日目)が旧西暦0806-02-11に相当するという既存データセット記載の外部確認済みの日付と、原文の干支(丙寅朔・丁卯)から逆算し0806-01-25と算出(confidence: high、干支計算による)。
大赦回数
旧唐書巻十四・巻十五(順宗紀・憲宗紀上下、永貞元年八月の即位から元和十五年正月の崩御まで全期間)を通読し「大赦天下」と明記された箇所のみを抽出。「赦天下系囚」「肆赦系囚」等、対象を系囚(囚人)に限定した部分恩赦(元和元年六月・元和四年十月の立太子時等)は範囲限定のため除外した。
立后回数
旧唐書列伝(憲宗懿安皇后郭氏伝)に「元和元年八月、冊為貴妃。八年十二月、百僚拝表請立貴妃為皇后、凡三上章。上以歳暮、来年有子午之忌、且止。帝後庭多私愛、以后門族華盛、慮正位之後、不容嬖幸、以是冊拝後時」と明記されており、群臣から三度にわたり皇后冊立を上奏されたが憲宗はこれを許可せず、在位中ついに皇后は立てられなかった。郭氏が皇太后(実質的な后位相当の待遇)を得たのは憲宗崩御後の元和十五年正月~閏正月、子の穆宗即位後のことである。旧唐書巻十四・巻十五本紀にも憲宗在位中の立后記事は見当たらない。
皇太子廃立回数
元和四年十月に邓王寧(後の恵昭太子)が立太子されたが、元和六年閏十二月に病没(薨)した。その後元和七年六月に遂王宥(後の穆宗、李恆と改名)が新たに皇太子に立てられており、いずれも廃立ではなく死去に伴う新規冊立である。旧唐書巻十四・巻十五を通読したが、憲宗の治世中に皇太子が廃された(廃太子)事例は確認できなかった。
親征回数
旧唐書巻十四(順宗紀・憲宗紀上、元和元年〜六年)・巻十五(憲宗紀下、元和七年〜十五年)を通読。「上親征」「御駕親征」等、憲宗自身が軍を率いて出陣した記事は見当たらない。刘辟・李锜・淮西呉元済・成徳王承宗・淄青李師道ら一連の軍事行動はいずれも将軍(高崇文・李愬・裴度・田弘正・李光顔ら)への派遣によるもので、憲宗本人は長安に留まり指揮した。
反乱鎮圧回数
旧唐書巻十四(元和元年〜六年)・巻十五(元和七年〜十五年)を通読し、朝廷(皇帝側)が鎮圧の主体となった反乱10件を抽出。義武軍(定州)楊伯玉の乱は朝廷が討伐に関与せず反乱側内部の相討ちで自然消滅したため、宥州軍乱・安南軍乱は在位終了までに鎮圧記事が確認できなかったため、いずれも本カウントから除外し被反乱側にのみ計上した。
被反乱回数
旧唐書巻十四・巻十五を通読し、憲宗に対して起こされた武装反抗13件を抽出。うち10件は鎮圧側と一致(同一事件)、義武軍楊伯玉の乱は朝廷が鎮圧主体でなかったため、宥州軍乱・安南軍乱は在位終了までの鎮圧記録が確認できなかったため、鎮圧回数には含めず被反乱回数のみに計上した(差分3件はいずれもrebellionSuppressionCountとの食い違いの正当な理由に該当)。
遷都回数
旧唐書・新唐書を通読。該当在位期間中に新たな遷都の記録なし(684年洛陽遷都は睿宗期、705年長安復都は中宗復位期、904年洛陽強制遷都は昭宗期の出来事として各々計上済み)。
即位時年齢・没年齢
既存レコードをそのまま転記(既にconfidence:highで確定済み)。旧唐書巻十四(憲宗紀冒頭)に「大暦十三年二月生於長安之東内」と生年月が直接記載。同巻十五(元和十五年正月条)に「是夕、上崩於大明宮之中和殿、享年四十三」と享年が直接記載。即位記事(巻十四「八月丁酉朔、受内禅。乙巳、即皇帝位於宣政殿」)付近を再確認したが「時年」等の直接記述は見当たらず、生年からの逆算値でもないためaccessionAgeはnullのまま維持。
在位中の出来事(29件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
改元806年1月25日永貞元年八月九日に順宗より内禅を受け即位した後も、永貞元年末までは前帝の年号「永貞」を継続使用。
永貞元年八月九日に順宗より内禅を受け即位した後も、永貞元年末までは前帝の年号「永貞」を継続使用。憲宗自身による最初の建元は元和元年正月丁卯(正月二日)で、この日「御丹鳳楼、大赦天下、改元曰元和」と改元。以後元和十五年正月の崩御まで「元和」の年号のみが用いられ、他に改元はない。即位に伴う最初の建元として1回とカウント。
出典: 旧唐書 巻十四(順宗紀・憲宗紀上)
大赦806年1月25日元和元年正月丁卯(改元「元和」と同日)。
元和元年正月丁卯(改元「元和」と同日)。即位後最初の大赦天下。「御丹鳳楼、大赦天下、改元曰元和」。
出典: 旧唐書 巻十四(順宗紀・憲宗紀上)
反乱鎮圧806年3月〜806年9月剣南西川・劉辟の乱
首謀者: 劉辟
結果: 成功。高崇文らの軍が成都を陥落させ劉辟を捕縛・処刑。
韋皋没後、劉辟が節度使旌節を強要し抗命・攻撃。朝廷が高崇文・李元奕らを派遣し鎮圧。
反乱鎮圧806年3月夏綏・楊恵琳の乱
首謀者: 楊恵琳
結果: 成功。夏州兵馬使張承金が楊恵琳を斬り首級を献上。
韓全義の甥楊恵琳が李演への交代人事を拒み拠城反抗。河東・天徳の兵で討伐。
被反乱806年3月〜806年9月剣南西川・劉辟の乱
首謀者: 劉辟
結果: 成功裏に鎮圧(上記鎮圧欄と同一事件)。
被反乱806年3月夏綏・楊恵琳の乱
首謀者: 楊恵琳
結果: 成功裏に鎮圧(上記鎮圧欄と同一事件)。
反乱鎮圧807年10月〜807年11月鎮海・李錡の乱
首謀者: 李錡
結果: 成功。潤州の部将張子良らが李錡を捕縛して献上、その後処刑。
浙西節度使李錡が留後を殺害し拠城反抗。朝廷が招討使を派遣し鎮圧。
被反乱807年10月〜807年11月鎮海・李錡の乱
首謀者: 李錡
結果: 成功裏に鎮圧(上記鎮圧欄と同一事件)。
反乱鎮圧809年10月〜810年7月成徳・王承宗の乱(第一次)
首謀者: 王承宗
結果: 失敗(招安)。吐突承璀を招討使として派遣したが軍が振るわず、最終的に王承宗の上表・謝罪を受けて官爵を回復させ和解した。
朝廷が德・棣二州を分割し薛昌朝に授けたことに反発し、昌朝を捕らえて抗命。武力討伐は不成功に終わり赦免で決着。
被反乱809年10月〜810年7月成徳・王承宗の乱(第一次)
首謀者: 王承宗
結果: 武力討伐は不成功、赦免で決着(上記鎮圧欄と同一事件)。
被反乱810年10月義武軍(定州)楊伯玉の乱
首謀者: 楊伯玉
結果: 反乱側内部で自然消滅。楊伯玉は別将張佐元に殺され、その張佐元も三軍に殺され、当初の被害者である行軍司馬任迪簡が結果的に義武軍節度使に任命された。
朝廷が討伐軍を派遣した形跡がなく反乱者同士の相討ちで収束したため、rebellionSuppressionCountには計上していない(皇帝側が鎮圧の主体ではないため)。行軍司馬(朝廷任命官)を拘束する武装反抗行為であり被反乱には含めた。
反乱鎮圧813年12月〜814年1月振武軍の乱(蘇国珍)
首謀者: 蘇国珍
結果: 成功。張煦が率いる討伐軍が反乱兵252人を誅殺。
振武軍の兵が節度使李進賢を追放し家族を殺害。朝廷は張煦を派遣し武力鎮圧。
被反乱813年12月〜814年1月振武軍の乱(蘇国珍)
首謀者: 蘇国珍
結果: 成功裏に鎮圧(上記鎮圧欄と同一事件)。
反乱鎮圧814年8月〜817年10月淮西・呉元済の乱
首謀者: 呉元済
結果: 成功。李愬による奇襲(雪夜入蔡州)で呉元済を捕縛、長安で処刑。
父呉少陽の死を隠し自ら節度使を僭称・略奪。朝廷は削官・討伐を布告し、韓弘を統帥に多鎮の師を動員、最終的に李愬が奇襲成功。
被反乱814年8月〜817年10月淮西・呉元済の乱
首謀者: 呉元済
結果: 成功裏に鎮圧(上記鎮圧欄と同一事件)。
反乱鎮圧815年6月〜818年3月成徳・王承宗の乱(第二次、宰相暗殺事件)
首謀者: 王承宗
結果: 失敗(招安)。河東・河北諸鎮に討伐を命じたが戦果乏しく、最終的に官爵を回復させ和解した。
王承宗が刺客を放ち宰相武元衡を暗殺、御史中丞裴度を負傷させた事件を契機に討伐を布告。武力による完全平定には至らず赦免で終結。
被反乱815年6月〜818年3月成徳・王承宗の乱(第二次、宰相暗殺事件)
首謀者: 王承宗
結果: 武力討伐は不成功、赦免で決着(上記鎮圧欄と同一事件)。
反乱鎮圧815年8月淄青・李師道の東都進奏院襲撃未遂
首謀者: 李師道(僧圓浄・刺客数百人)
結果: 成功。留守呂元膺が出兵して包囲、逃走した賊を嵩山まで追跡し全員捕縛。
李師道が僧圓浄と共謀し数百人の武装勢力を東都進奏院に潜伏させ、洛陽の宮殿放火・略奪を企図。密告により発覚し実際に武力衝突(包囲・突囲・追撃)が生じたため、単なる摘発止まりの謀反計画とは区別しカウントした(confidence: medium、判断の余地あり)。
被反乱815年8月淄青・李師道の東都進奏院襲撃未遂
首謀者: 李師道(僧圓浄・刺客数百人)
結果: 成功裏に鎮圧(上記鎮圧欄と同一事件)。
被反乱816年5月宥州軍の乱(駱怡追放)
首謀者: 宥州の軍(首謀者名不詳)
結果: 未確定。以後、宥州刺史の交代・討伐に関する続報が本紀に見当たらず、憲宗崩御(元和十五年正月)までに鎮圧された記録を確認できなかった。
在位終了までに鎮圧行動の着手・完了が確認できないため、rebellionSuppressionCountには計上していない。
反乱鎮圧818年7月〜819年2月淄青・李師道の乱(正式反乱)
首謀者: 李師道
結果: 成功(内部裏切りによる)。都知兵馬使劉悟が李師道父子を斬り降伏、淄青十二州平定。
宣武・魏博・義成・武寧・横海の五鎮に討伐を命令。最終的に部将の寝返りで決着。
被反乱818年7月〜819年2月淄青・李師道の乱(正式反乱)
首謀者: 李師道
結果: 成功裏に鎮圧(上記鎮圧欄と同一事件)。
反乱鎮圧819年7月〜819年9月沂州軍の乱(王弁)
首謀者: 王弁
結果: 成功。首謀者王弁を長安で処刑。
淄青平定後に新設された沂州で軍が節度使王遂を殺害した反乱。鎮圧され首謀者が処刑された。
被反乱819年7月〜819年9月沂州軍の乱(王弁)
首謀者: 王弁
結果: 成功裏に鎮圧(上記鎮圧欄と同一事件)。
被反乱819年10月安南軍の乱(李象古殺害)
首謀者: 安南の軍(首謀者名不詳)
結果: 未確定。朝廷は桂仲武を新都護に任命したのみで、憲宗崩御(翌年正月)までに武力鎮圧が完了した記録を確認できなかった。
在位終了までに鎮圧行動の着手・完了が確認できないため、rebellionSuppressionCountには計上していない。
大赦日付不詳元和二年正月辛卯、南郊で昊天上帝を祀った郊祀の儀に伴う大赦天下。
元和二年正月辛卯、南郊で昊天上帝を祀った郊祀の儀に伴う大赦天下。「祀昊天上帝於郊丘、是日還宮、御丹鳳楼、大赦天下」。西暦換算未実施のためdateはnull。
出典: 旧唐書 巻十四(順宗紀・憲宗紀上)
大赦日付不詳元和三年正月癸巳、群臣が「睿聖文武皇帝」の尊号を奉った儀礼に伴う大赦天下。
元和三年正月癸巳、群臣が「睿聖文武皇帝」の尊号を奉った儀礼に伴う大赦天下。西暦換算未実施のためdateはnull。
出典: 旧唐書 巻十四(順宗紀・憲宗紀上)
大赦日付不詳元和十三年正月己酉朔、元日朝賀の礼に伴う大赦天下。
元和十三年正月己酉朔、元日朝賀の礼に伴う大赦天下。「御含元殿受朝賀、礼畢、御丹鳳楼、大赦天下」。西暦換算未実施のためdateはnull。
出典: 旧唐書 巻十五(憲宗紀下)
大赦日付不詳元和十四年七月辛巳、群臣が「元和聖文神武法天応道皇帝」の尊号を奉った儀礼に伴う大赦天下。
元和十四年七月辛巳、群臣が「元和聖文神武法天応道皇帝」の尊号を奉った儀礼に伴う大赦天下。西暦換算未実施のためdateはnull。
出典: 旧唐書 巻十五(憲宗紀下)