徳宗の人物データ
- 生年
- 742年5月27日
- 在位
- 779年6月12日〜805年2月25日
- 没年
- 805年2月25日64歳(数え年)長生き順同率26位/266人
- 死因
- 病死病気や老衰による死。同じ死因169人/365人
- 呼び名
- 姓李諱适呼び名の見方
出典
- 在位
- 旧唐書 本紀第十二 德宗上/本紀第十三下 德宗下
- 死因
- 旧唐書 巻十三(徳宗紀下)
- 即位経路
- 旧唐書 巻十二(徳宗紀上)
生涯
どんな皇帝か
旧唐書の史臣歴史書を編み、その中で評を述べた人は、即位当初の李适が政治に励んで直言を受け入れ、後宮の女性を出し、鷹犬を解き、献じられた象を放ったと称える。同じ史臣は、盧杞のへつらいを受け入れ続け、延齢の謀を取って陸贄を宰相から退けたと責め、新唐書の賛は、猜疑深く刻薄で正論に屈するのを恥じたと評する。
即位まで
742年に生まれ、764年に皇太子に立てられた。779年、代宗が崩じると太極殿で即位した。
治世と最期
旧唐書の楊炎伝によれば、両税法は楊炎の奏請によるもので、住む所で籍に付け、夏と秋の二度に徴した。旧唐書の后妃伝によれば、安史の乱で行方が知れない母の沈氏を、李适は780年に遥かに皇太后と尊び、すすり泣きを抑えられなかった。新唐書の后妃伝は、母と取り違えて迎えられた高力士の娘を李适が許し、百回欺かれようとも一度本物を得たいと言ったと書く。
783年、救援に向かう涇原の兵が、ねぎらいの食事の粗末さに怒り、宮中の財宝を奪おうと長安へ引き返すと、李适は太子らと奉天へ逃れた。乱兵は朱泚を迎えて帥とし、奉天は包囲された。李适は渾瑊と向き合って泣いたが、囲みは李懐光の軍が近づいた夜に解けた。784年、李适は奉天で自らの非を認める詔を下して興元と改元元号(年の呼び名)を新しいものに改めることし、李希烈らの罪を洗い流したが、朱泚だけは赦さなかった。まもなく李懐光も背くと梁州へ移り、朱泚が斬られたのちに長安へ還った。
旧唐書の后妃伝によれば、皇后に立てた王氏がまもなく没すると、李适は謚冊を非礼として、廟の楽章を拙いとして書き直させた。旧唐書の張建封伝によれば、宦官去勢されて宮中で皇帝や后妃に仕えた男が物を買いたたく宮市宮廷の使いが市場で品を安く買い上げたことは改められず、李适は張建封の奏上を嘉納しながら、蘇弁の言を信じてその後は宮市を言う者を聞き入れなかった。805年、李适は崩じた。資治通鑑は、諸王王に取り立てられた皇族たちらの賀に皇太子だけが病で来られず、悲嘆したことがもとで李适も病み、日ごとに重くなったとする。
徳宗とつながる皇帝

勢力図
唐の勢力図で見る
779–805年の地図に、徳宗が治めた国が描かれています。
在位中の出来事
反乱15・皇后1・改元3・大赦8
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。779年即位直後に丹鳳楼にて大赦。
- 改元780年元号を「建中」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。780年郊丘での親祭当日、還宮して丹鳳門にて大赦。
- 反乱780年劉文喜の反乱(涇原)
- 反乱781–782年李惟岳の反乱(成德)
- 反乱781–784年田悦の反乱(魏博、四王の乱の一角)
- 反乱782–784年硃滔の反乱(盧龍/幽州、四王の乱の一角)
- 反乱782–784年王武俊の反乱(成德、四王の乱の一角)
- 反乱782–785年李納の反乱(淄青/平盧、四王の乱の一角)
- 反乱782–786年李希烈の反乱(淮西/淮寧)
- 反乱783–784年硃泚の反乱(涇原兵変・
自立帝、奉天の囲み) - 改元784年元号を「興元」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。784年興元改元の詔とともに大赦。
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。784年長安へ還ったのち、丹鳳楼にて大赦。
- 反乱784–785年李懐光の反乱(朔方)
- 反乱784年田希鑑の反乱(涇州の乱)
- 改元785年元号を「貞元」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。785年貞元改元の詔とともに大赦。
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。785年圜丘での親祭後、丹鳳楼にて大赦。
- 皇后786年淑妃王氏を皇后に冊立する旨の詔が出され、3日後の丁酉に正式な冊立の儀(冊皇后王氏)が行われた。
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。788年丹鳳楼にて大赦(大辟以下の罪をことごとく赦除)。
- 反乱788年邠寧軍の反乱(貞元四年)
- 反乱792年襄州軍の反乱(貞元八年)
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。793年圜丘での親祭後、丹鳳楼にて大赦。
- 反乱794年汴州軍の反乱(貞元十年、李万栄に対する反乱)
- 反乱799年汴州軍の反乱(貞元十五年、陸長源殺害)
- 反乱799–800年呉少誠の反乱(淮西)
唐の歴代皇帝
歴代21人の一覧- 第1代高祖李淵618–626年病死
- 第2代太宗626–649年諸説あり
- 第3代高宗649–683年病死
- 第4・6代中宗683–684年705–710年(復位)暗殺
- 第5・8代睿宗684–690年710–712年(復位)病死
- 周武則天690–705年病死
- 第7代殤帝710年不詳
- 第9代玄宗712–756年病死
- 第10代粛宗756–762年病死
- 第11代代宗762–779年病死
- 第12代徳宗779–805年病死
- 第13代順宗805年病死
- 第14代憲宗805–820年暗殺
- 第15代穆宗820–824年病死
- 第16代敬宗824–826年暗殺
- 第17代文宗826–840年病死
- 第18代武宗840–846年病死
- 第19代宣宗846–859年病死
- 第20代懿宗859–873年病死
- 第21代僖宗873–888年病死
- 第22・23代昭宗888–900年901–904年(復位)暗殺
- 第24代哀帝904–907年暗殺
- 歴代外李裕900–901年暗殺
- 歴代外李承宏763年不詳
- 歴代外襄王李熅886年処刑
年表
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