粛宗
唐|在位 756–762年

- 諱(本名)
- 李亨
- 在位
- 756–762年
- 在位期間
- 5年278日365名中172位
- 即位経路
- 擁立
- 死因
- 病死
- 即位時年齢
- 46歳(数え年)172名中・若い順152位タイ
- 没年齢
- 52歳(数え年)269名中・長寿順74位タイ
- 改元
- 4回332名中29位タイ
- 大赦
- 5回267名中82位タイ
- 立后
- 1回204名中52位タイ
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 6回225名中68位タイ
- 被反乱
- 7回289名中71位タイ
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
安史の乱で玄宗が蜀へ逃れる中、裴冕・杜鴻漸ら朔方の将吏が六度にわたり上奏して即位を強く勧め、粛宗はやむを得ずこれに従い霊武にて即位。玄宗はこれを事後に知り追認する形で冊命した。
出典: 旧唐書 巻十(粛宗紀)
死因の経緯
仲春(2月)頃より病臥していたところ、玄宗崩御の報に接し悲嘆のあまり病状が急変・悪化して崩御。玄宗崩御同日に張皇后の越王擁立クーデター未遂があり李輔国・程元振が鎮圧する混乱の渦中だったが、粛宗自身への直接的加害の記述は原文になく持病の急変による病死として記録される。
出典: 旧唐書 巻十(粛宗紀)
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
上元二年九月壬寅、粛宗は「朕号唯称皇帝,其年号但称元年,去上元之号」と詔して年号そのものを一旦廃止し「元年」とのみ称した特異な期間があるが、これは新たな年号への切り替えではなく年号の廃止であるため本カウントには含めていない(この「元年」は翌762年に宝応と事後改称された)。日付は干支から西暦換算し、複数の月初(朔)干支が本紀の記載と一致することを確認して検証済み(高確度)。
大赦回数
至德元載八月「上皇至成都,大赦」は上皇(玄宗)自身が成都で行った大赦であり粛宗自身の行為ではないため除外した。また上元二年正月甲寅「诏府县、御史台、大理疏理系囚,死罪降从流,流已下并释放」、同建辰月壬午「诏天下见禁系囚,无轻重一切释放」は事実上の恩赦的措置だが「大赦」の語が明記されていないため本カウントには含めていない。日付は干支から西暦換算し、複数の月初(朔)干支が本紀の記載と一致することを確認して検証済みだが、至德二載十二月の一件のみ月境界にやや不確実性が残る。
皇太子廃立回数
乾元元年五月庚寅に成王俶(後の代宗)が皇太子に立てられて以降、粛宗崩御(宝応元年)まで廃立の記事は本紀中に見当たらない。原文中の「废」字は嗣岐王珍(粛宗の子ではなく宗室の一員)が庶人に廃された記事のみで、皇太子の廃立とは無関係。
親征回数
即位前の至德元載十二月辛丑、玄宗の制により『上(当時皇太子)に親しく諸軍を総べ進討せしむ』との命が下ったが、楊国忠の妨げで実際には出発せず(『上遂不行』)実現しなかった。即位後も上元二年十月丁酉に『史思明を親征す』との制が出されたが『竟不行』(結局実行されず)と明記されている。霊武への移動(安史の乱からの避難行)は逃避行であり軍事遠征ではない。粛宗自身が即位後に軍を率いて戦場に赴いた事例は旧唐書巻十(粛宗紀)中に見当たらないため0件とした。
反乱鎮圧回数
在位中(756年即位〜762年崩御)に粛宗政権を主体として鎮圧に当たった反乱6件。蜀郡での賈秀の謀逆・郭千仞の謀逆は上皇(玄宗)政権下・蜀郡における出来事で粛宗自身を主体としないため除外した。党項の宝鶏・散関・鳳州・梁州・奉天侵寇や吐蕃の西平郡陥落、大食・波斯の広州攻撃は、服属民の蜂起ではなく外部勢力による侵寇(または服属関係が不明確)とみなし除外した。宝応元年四月の襄州軍乱(節度使史翙殺害、部将張維瑾の据州反乱)は粛宗崩御(762年5月)までに鎮圧記事が原文になく未鎮圧のまま在位が終了したため、鎮圧回数には含めず被反乱回数のみに計上した(例外2)。安史の乱は反乱発生が即位前(755年)に遡り首謀者も途中で交代するため確度は中程度とした。
被反乱回数
反乱鎮圧回数6件と同一の反乱をすべて含み、加えて在位終了(762年5月)までに鎮圧が完了しなかった襄州軍乱・張維瑾の反乱(例外2)を1件追加した計7件。蜀郡での賈秀・郭千仞の謀逆は上皇(玄宗)政権下・蜀郡の出来事で粛宗自身を対象としないため除外。党項・吐蕃・大食等の侵寇は外部勢力による侵攻とみなし除外した。安史の乱の反乱発生時期が即位前に遡る点、および同乱の首謀者交代を1件として扱った点から確度は中程度とした。
遷都回数
旧唐書・新唐書を通読。該当在位期間中に新たな遷都の記録なし(684年洛陽遷都は睿宗期、705年長安復都は中宗復位期、904年洛陽強制遷都は昭宗期の出来事として各々計上済み)。
即位時年齢・没年齢
原文冒頭に「景云二年乙亥生」(711年生、月日不明)とあり生年が確認できる。崩御記事末尾に「上崩于长生殿,年五十二」とあり崩御時年齢(数え年52、762年)が明記されている。即位時年齢は原文に直接記載はないが、崩御時年齢52(762年)から即位年(756年)までの年数差6を差し引いて逆算すると46となり、これは景云二年(711年)生まれから数え年で算出した756-711+1=46とも一致するため、確度の高い逆算値として採用した。
在位中の出来事(23件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
反乱鎮圧755年11月安史の乱(安禄山→安慶緒→史思明→史朝義)
首謀者: 安禄山・安慶緒・史思明・史朝義
結果: 至德二載(757年)九月〜十月、広平王俶・郭子仪らが香積寺・陝州新店で大破し長安・洛陽の両京を奪回。安禄山は子安慶緒に、安慶緒はのち史思明に、史思明は子史朝義に殺され首謀者が交代しつつ継続。史思明は乾元元年末に一旦降伏したが翌年正月に燕王を自称し再叛、上元二年(761年)には官軍が北邙で大敗するなど一進一退となり、粛宗崩御(762年)の時点でも完全鎮圧に至らず、代宗期(763年)まで継続した。
反乱自体は玄宗期の天宝十四載十一月(755年)に勃発し粛宗の即位(756年)以前から続いていたが、在位全期間を通じて粛宗政権が対応主体となった継続反乱として1件に集計した。史思明の一旦の降伏(758年末)とその後の再叛(759年)は同一勢力の継続とみなし別件に分けなかった。
被反乱755年11月安史の乱(安禄山→安慶緒→史思明→史朝義)
首謀者: 安禄山・安慶緒・史思明・史朝義
結果: 即位直後から在位全期間を通じて対応に追われた反乱。至德二載(757年)に両京を一旦奪回したが、史思明の再叛・北邙での官軍大敗等を経て、粛宗崩御(762年)時点でも収束せず代宗期(763年)まで継続した。
鎮圧回数の同事例参照。反乱発生は即位前(755年)だが即位後の在位期間全体を通じて粛宗が直面し続けた反乱として計上した。
改元756年8月12日即位と同時に「至德」建元(七月甲子、霊武にて)。
即位と同時に「至德」建元(七月甲子、霊武にて)。「乃以七月甲子,即皇帝位于灵武…可大赦天下,改元曰至德」。
出典: 旧唐書 巻十(粛宗紀)
大赦756年8月12日即位(至德建元)と同時の大赦天下。
即位(至德建元)と同時の大赦天下。霊武南門にて。「可大赦天下,改元曰至德」。
出典: 旧唐書 巻十(粛宗紀)
反乱鎮圧756年12月〜757年2月永王李璘の反乱
首謀者: 永王李璘(玄宗第十六子、粛宗の弟)
結果: 江陵より舟師を率いて広陵へ下り自立を図ったが官軍に敗れ、嶺南へ逃走中に大庾嶺で洪州刺史皇甫侁に討たれ敗死した。
旧唐書巻十:至德元載十二月甲辰「江陵大都督府永王璘擅领舟师下广陵」。至德二載二月「永王璘兵败,奔于岭外,至大庾岭,为洪州刺史皇甫侁所杀」。
被反乱756年12月〜757年2月永王李璘の反乱
首謀者: 永王李璘(玄宗第十六子、粛宗の弟)
結果: 官軍に敗れ大庾嶺で洪州刺史皇甫侁に討たれ敗死。
鎮圧回数の同事例参照。
反乱鎮圧757年1月武威郡九姓胡安門物の反乱
首謀者: 安門物(武威郡の九姓商胡=ソグド系商人集団)
結果: 節度使周佖を殺害したが、判官崔称が兵を率いて討伐し鎮圧した。
旧唐書巻十:至德二載正月丙寅「武威郡九姓商胡安门物等叛,杀节度使周佖,判官崔称率众讨平之」。同日別件の蜀郡健児賈秀等の謀逆は上皇(玄宗)政権下・蜀郡での出来事のため粛宗の被反乱・鎮圧いずれからも除外した。
被反乱757年1月武威郡九姓胡安門物の反乱
首謀者: 安門物(武威郡の九姓商胡)
結果: 節度使周佖を殺害したが判官崔称に鎮圧された。
鎮圧回数の同事例参照。
大赦758年1月28日上皇(玄宗)帰京後、丹鳳門にて大赦(至德二載十二月戊午)。
上皇(玄宗)帰京後、丹鳳門にて大赦(至德二載十二月戊午)。功臣への実封加増・爵位授与等と同時。原文「十二月戊午朔,上御丹凤门,下制大赦」。ただし直前の「十二月丙午」「甲寅」との月境界に暦法上の若干の齟齬が確認されたため、日付の確度はやや低め。
出典: 旧唐書 巻十(粛宗紀)
改元758年3月18日至德三載を乾元元年に改元(二月丁未、大赦天下と同時)。
至德三載を乾元元年に改元(二月丁未、大赦天下と同時)。「御明凤门,大赦天下,改至德三载为乾元元年」。
出典: 旧唐書 巻十(粛宗紀)
大赦758年3月18日乾元改元と同時の大赦天下(至德三載二月丁未)。
乾元改元と同時の大赦天下(至德三載二月丁未)。「御明凤门,大赦天下,改至德三载为乾元元年」。
出典: 旧唐書 巻十(粛宗紀)
立后758年5月19日淑妃張氏(張良娣)を皇后に冊立(乾元元年四月己酉)。
淑妃張氏(張良娣)を皇后に冊立(乾元元年四月己酉)。「己酉,册淑妃张氏为皇后」。なお至德三載正月庚子に良娣張氏を淑妃に冊立しており、その約4か月後の皇后冊立。
出典: 旧唐書 巻十(粛宗紀)
大赦758年5月25日九廟落成・親祭圓丘の翌日(乾元元年四月乙卯)に大赦天下。
九廟落成・親祭圓丘の翌日(乾元元年四月乙卯)に大赦天下。「上亲享九庙,遂有事于圆丘…翌日,御明凤门,大赦天下」。
出典: 旧唐書 巻十(粛宗紀)
反乱鎮圧759年8月〜759年11月襄州康楚元・張嘉延の反乱
首謀者: 康楚元・張嘉延
結果: 襄州刺史王政を逐って城に拠り、荊州にも攻め込んだが、商州刺史韋倫が康楚元を撃破し荊襄地方が平定された。
旧唐書巻十:乾元二年八月乙亥「襄州偏将康楚元逐刺史王政,据城自守」。九月甲午「襄州贼张嘉延袭破荆州」。十一月甲子朔「商州刺史韦伦破康楚元,荆襄平」。
被反乱759年8月〜759年11月襄州康楚元・張嘉延の反乱
首謀者: 康楚元・張嘉延
結果: 商州刺史韋倫に討破され荊襄平定。
鎮圧回数の同事例参照。
改元760年6月7日乾元を上元に改元(閏四月己卯、星文異変を理由に大赦天下と同時)。
乾元を上元に改元(閏四月己卯、星文異変を理由に大赦天下と同時)。「以星文变异,上御明凤门,大赦天下,改乾元为上元」。
出典: 旧唐書 巻十(粛宗紀)
大赦760年6月7日上元改元と同時の大赦天下(乾元三年閏四月己卯)。
上元改元と同時の大赦天下(乾元三年閏四月己卯)。星文の異変を理由とする。「以星文变异,上御明凤门,大赦天下,改乾元为上元」。
出典: 旧唐書 巻十(粛宗紀)
反乱鎮圧760年11月〜761年1月劉展の反乱
首謀者: 劉展(宋州刺史)
結果: 揚州・潤州・昇州等を陥落させたが、平盧軍兵馬使田神功に生け捕られ、揚州・潤州が平定された。
旧唐書巻十:上元元年十一月乙巳「宋州刺史刘展赴镇扬州,扬州长史邓景山以兵拒之,为展所败,展进陷扬、润、升等州」。上元二年正月乙卯「平卢军兵马使田神功生擒刘展,扬、润平」。
被反乱760年11月〜761年1月劉展の反乱
首謀者: 劉展(宋州刺史)
結果: 田神功に生け捕られ揚州・潤州が平定。
鎮圧回数の同事例参照。
反乱鎮圧761年4月〜761年5月段子璋の反乱
首謀者: 段子璋(梓州刺史)
結果: 遂州を襲い刺史嗣虢王巨を殺害し東川節度使李奐を敗走させたが、剣南節度使崔光遠が李奐と合流して綿州で撃破し、段子璋を捕らえて誅殺した。
旧唐書巻十:上元二年四月壬午「梓州刺史段子璋叛,袭破遂州,杀刺史嗣虢王巨。东川节度使李奂战败,奔成都」。五月「剑南节度使崔光远率师与李奂击败段子璋于绵州,擒子璋杀之。绵州平」。
被反乱761年4月〜761年5月段子璋の反乱
首謀者: 段子璋(梓州刺史)
結果: 刺史嗣虢王巨を殺害したが崔光遠・李奐に討たれ誅殺。
鎮圧回数の同事例参照。
被反乱762年4月襄州軍乱(張維瑾の反乱)
首謀者: 張維瑾(襄州の部将)
結果: 節度使史翙を殺害し襄州を占拠。粛宗崩御(762年5月)までに鎮圧の記事が原文になく、未鎮圧のまま在位が終了した。
旧唐書巻十:(上元三年/宝応元年)四月戊申「襄州军乱,杀节度使史翙,部将张维瑾据州叛」。以降、粛宗崩御(建巳月丁卯=四月丁卯)までの記事に鎮圧の記載なし。例外2(未鎮圧のまま在位終了)に該当し鎮圧回数には含めず被反乱回数のみに計上した。
改元762年5月14日「元年」(前年九月に年号を廃した状態で称していた無名の紀年)を宝応に改元。
「元年」(前年九月に年号を廃した状態で称していた無名の紀年)を宝応に改元。上皇(玄宗)崩御・皇太子監国の詔と同時(乙丑)、粛宗自身の崩御(丁卯)の2日前。「其元年宜改为宝应,建巳月为四月」。
出典: 旧唐書 巻十(粛宗紀)