粛宗の人物データ
- 生年
- 711年
- 在位
- 756年8月12日〜762年5月16日
- 没年
- 762年5月16日52歳(数え年)長生き順同率73位/266人
- 死因
- 病死病気や老衰による死。同じ死因169人/365人
- 呼び名
- 姓李諱亨呼び名の見方
出典
- 在位
- 旧唐書 本紀第十 肅宗
- 死因
- 旧唐書 巻十(粛宗紀)
- 即位経路
- 旧唐書 巻十(粛宗紀)
生涯
どんな皇帝か
旧唐書の史臣歴史書を編み、その中で評を述べた人は、上皇を迎えた孝を曾参になぞらえつつ、遠略に欠け、籍田皇帝が自ら田を耕してみせ、農業を勧める儀式などの礼に時を費やし、勝利は大臣と諸将の力によったと批判したうえで、親を安んじ国を復したことは立派だと結ぶ。新唐書の賛は、皇太子として兵を治めたことは認めつつ、帝位に即かなくとも賊を破ることはできたと述べる。
即位まで
玄宗の第三子で、母は元献皇后楊氏である。聡敏で記憶力が強く、見聞きしたことを忘れなかった。皇太子のとき、妃の兄の韋堅が李林甫の起こした獄に連坐すると、恐れて、妃と仲が睦まじくないとして離婚を願い出た。安禄山の反逆の相を玄宗に密奏していたが、755年、安禄山が叛いて都へ向かった。756年、玄宗が蜀へ逃れる途中の馬嵬で、太子は後に残されて百姓ふつうの民、庶民をなだめた。百姓が太子に従って長安を取り戻したいと願うと、玄宗はこれを天の啓示とした。太子は裴冕らに重ねて勧められてやむなく霊武で即位した。成都に着いた玄宗は、位を譲る冊書位や称号を授けるときに出す正式な文書を霊武へ送った。
史料について
離婚を願い出た時を、旧唐書の韋妃伝は韋堅兄弟が死を賜った後とし、資治通鑑は韋堅を貶した条に置いて賜死に触れない。即位を勧めた書状を、資治通鑑は5度とする。
治世と最期
張良娣と宦官去勢されて宮中で皇帝や后妃に仕えた男の李輔国の専横を訴えた子の建寧王李倓は、二人に讒言され、粛宗は怒って死を賜った。のちに李泌に、建寧王は讒言に遭ったのだと言われると、泣いて悔いた。
757年、広平王(のちの代宗)が長安と洛陽を取り戻し、粛宗は長安に入った。同じ年の暮れ、蜀から戻った玄宗を望賢宮に出迎えて足を捧げ、涙した。759年、籍田の礼で自ら鋤を九回押し、多すぎると言われると、千畝を耕し終えられないのが残念だと答えた。同じ年、史思明が燕王を称し、相州を囲んだ郭子儀ら九節度使地方の軍と政治をにぎった長官の軍を破って、洛陽も陥した。
760年、上皇は興慶宮から西内に移され、高力士は巫州へ流された。762年、春から病み、上皇の死を聞いて病が重くなり、長生殿で没した。その前後、張皇后が越王李係を引き入れて事を図ったが、李輔国らに阻まれ、皇后も越王も命を落とした。
史料について
建寧王の件で、讒言の言葉と李泌に答えた言葉は、旧唐書の倓伝と資治通鑑とで異なる。上皇を移したのを、旧唐書の粛宗紀は誰とも書かず、同じ旧唐書の李輔国伝は李輔国が詔を偽ったとし、玄宗紀は李輔国が粛宗を離間したためとし、資治通鑑は李輔国が粛宗の言葉と偽って連れ出したとする。皇后の最期を、旧唐書の后妃伝は粛宗の死後に別殿へ移されて幽閉のうちに死んだとし、資治通鑑は粛宗の死後に李輔国らが皇后と越王を殺したとする。旧唐書の代宗紀は越王を捕らえ皇后を幽閉したあとに粛宗が没したとし、新唐書は越王を殺したその夜に没したとする。
粛宗とつながる皇帝

勢力図
唐の勢力図で見る
756–762年の地図に、粛宗が治めた国が描かれています。
在位中の出来事
反乱7・皇后1・改元4・大赦5
- 反乱755年安史の乱(安禄山→安慶緒→史思明→史朝義)
- 改元756年8月12日元号を「至徳」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。756年8月12日即位(至德建元)と同時の大赦。
- 反乱757年永王李璘の反乱
- 反乱757年武威郡九姓胡安門物の反乱
- 改元758年元号を「乾元」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。758年上皇(玄宗)帰京後、丹鳳門にて大赦(至德二載十二月戊午)。
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。758年乾元改元と同時の大赦(至德三載二月丁未)。
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。758年九廟落成・
親祭圓丘の翌日(乾元元年四月乙卯)に大赦。 - 皇后758年淑妃張氏(張良娣)を皇后に冊立(乾元元年四月己酉)。
- 反乱759年襄州康楚元・張嘉延の反乱
- 改元760年元号を「上元」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。760年上元改元と同時の大赦(乾元三年閏四月己卯)。
- 反乱760–761年劉展の反乱
- 反乱760年襄州軍乱(張維瑾の反乱)
- 反乱761年段子璋の反乱
- 改元762年5月14日元号を「宝応」とする
唐の歴代皇帝
歴代21人の一覧- 第1代高祖李淵618–626年病死
- 第2代太宗626–649年諸説あり
- 第3代高宗649–683年病死
- 第4・6代中宗683–684年705–710年(復位)暗殺
- 第5・8代睿宗684–690年710–712年(復位)病死
- 周武則天690–705年病死
- 第7代殤帝710年不詳
- 第9代玄宗712–756年病死
- 第10代粛宗756–762年病死
- 第11代代宗762–779年病死
- 第12代徳宗779–805年病死
- 第13代順宗805年病死
- 第14代憲宗805–820年暗殺
- 第15代穆宗820–824年病死
- 第16代敬宗824–826年暗殺
- 第17代文宗826–840年病死
- 第18代武宗840–846年病死
- 第19代宣宗846–859年病死
- 第20代懿宗859–873年病死
- 第21代僖宗873–888年病死
- 第22・23代昭宗888–900年901–904年(復位)暗殺
- 第24代哀帝904–907年暗殺
- 歴代外李裕900–901年暗殺
- 歴代外李承宏763年不詳
- 歴代外襄王李熅886年処刑
年表
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