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唐第3代

高宗李治

在位 649–683年(34年165日)649年7月15日 〜 683年12月27日

日本は飛鳥時代

武氏を皇后に立て、のちに皇后と並んでと呼ばれた唐の皇帝である。

  • 663年

    白村江の戦い

    唐の水軍が白江の河口で倭の兵と4度戦って勝ち、船400艘を焼いた。

    原文
    • 九月戊午,孙仁师及百济战于白江,败之。― 新唐書(本紀第三 高宗紀)
    • 仁轨遇倭兵于白江之口,四战捷,焚其舟四百艘― 旧唐書(列伝第三十四 劉仁軌伝)

高宗の人物データ

生年
628年7月
在位
  • 649年7月15日〜683年12月27日
34年165日長い順17位/365人22歳で即位(数え年)
没年
683年12月27日56歳(数え年)長生き順同率51位/266人
死因
同じ死因169人/365人
即位経路
先代
  • 太宗唐高宗は太宗の子
次代
  • 中宗唐中宗は高宗の子
呼び名
姓李諱治字為善幼名雉奴呼び名の見方
目立つ記録

出典

在位
旧唐書 本紀第四 高宗上/本紀第五 高宗下(即位・崩御記事の主典拠)。終了日の字句差異照合のため新唐書 本紀第三 高宗、資治通鑑 卷二百三 高宗天皇大聖大弘孝皇帝下弘道元年 も参照
死因
旧唐書 巻五(高宗下、弘道元年十二月条)
即位経路
旧唐書 巻四(高宗上)

生涯

どんな皇帝か

旧唐書のは、太子のころは長者と呼ばれたのに、即位すると急に別人になったと評する。新唐書の賛は、太宗は子を見る目が無く、高宗は寝所の愛に溺れて災いの兆しを戒めず、毒が天下に流れたと評する。

即位まで

太宗の第9子で、母は文徳皇后長孫氏である。幼いころ孝経の要点を太宗に問われ、孝は親に仕えることに始まり身を立てることに終わると答えて喜ばせた。643年に兄の承乾が廃され、魏王泰も退けられると、皇太子に立てられた。高句麗遠征では留守を命じられて出発前に何日も泣き、帰りに太宗が腫れ物を患うと自ら膿を吸い、輿に付き添って数日歩いた。649年に太宗が没して即位した。

治世と最期

旧唐書の則天皇后によると、武氏は太宗ので、その死後は尼となったが、高宗が寺で見かけて呼び戻し、とした。王皇后らと寵愛を争っても高宗は取り合わなかったとするが、旧唐書の王皇后伝と資治通鑑は、昭儀を信じたと書く。資治通鑑は、昭儀が自分の生んだ娘を手にかけて王皇后の仕業に見せたと書き、旧唐書は高宗本紀に載せず、則天皇后本紀の史臣の評が乳飲み子を絞め殺したとだけ書く。655年、反対した褚遂良を左遷し、王皇后を廃して武昭儀を皇后に立てた。資治通鑑によると、皇后に抑えられて憤っていたとき、上官儀に皇后を廃すべきだと言われて詔を書かせたが、皇后が駆けつけて訴えると恥じ、上官儀に教えられたのだと偽った。皇后は許敬宗に上官儀を謀反の罪で誣告させ、上官儀は獄で死んだ。旧唐書の本紀は、上官儀の死後は皇后が簾の後ろで政治に加わり、675年ごろは病の高宗に代わって政事をすべて決したと書く。

彗星が現れると正殿を避けて食事を減らし、高句麗が滅ぶ兆しだと言う群臣に、高句麗の民も朕の民だと答えた。675年に皇太子の弘が没すると、旧唐書の本紀は薨じたとだけ書き、新唐書の本紀は皇后が殺したと書き、資治通鑑は時の人が皇后の毒殺を疑ったとだけ書く。680年に皇太子の賢を廃し、英王哲を皇太子に立てた。

晩年、頭の重さに苦しんで頭に針を刺させようとすると、皇后はこの者を斬れと言ったが、高宗は刺させ、目が明るくなったと言った。683年、の赦を宣した日に、あと一、二か月命が延びて長安に帰れたら死んでも恨みはないと述べ、その夜没した。は陵墓を質素にさせ、決まらない大事は皇后の判断に従えとした。

高宗とつながる皇帝

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在位中の出来事

反乱5・皇后2・皇太子2・改元14・大赦17
  1. 649年7月15日
  2. 改元650年元号を「永徽」とする
  3. 皇后650年妃王氏を皇后に立てる。
  4. 反乱650–658年阿史那賀魯(西突厥)の反乱
  5. 652年陳王忠を皇太子に立てるのに伴い大赦。
  6. 反乱653年陳碩貞の乱
  7. 655年王皇后を廃して庶人とし武昭儀を皇后に立てるのに伴い大赦。
  8. 皇后655年王皇后を廃して庶人とし、武昭儀を皇后に立てる。
  9. 改元656年元号を「顕慶」とする
  10. 656年顕慶に改元、大赦。
  11. 皇太子656年皇太子忠を廃して梁王とし、代王弘を皇太子に立てる。
  12. 659年皇太子(弘)加元服につき大赦。
  13. 改元661年元号を「龍朔」とする
  14. 662年東宮誕育満月(皇太子弘に子誕生)につき大赦。
  15. 改元664年元号を「麟徳」とする
  16. 改元666年元号を「乾封」とする
  17. 666年泰山封禅後、乾封に改元し大赦、酺七日。
  18. 改元668年元号を「総章」とする
  19. 668年総章に改元し大赦。
  20. 改元670年元号を「咸亨」とする
  21. 670年咸亨に改元し大赦。
  22. 改元674年元号を「上元」とする
  23. 674年
  24. 675年皇太子弘死去後、雍王賢を皇太子に立てるのに伴い大赦。
  25. 改元676年元号を「儀鳳」とする
  26. 676年儀鳳に改元し大赦。
  27. 678年
  28. 改元679年元号を「調露」とする
  29. 679年調露に改元し大赦。
  30. 反乱679–681年単于大都護府突厥反乱(阿史德温傅・阿史那泥熟匐・阿史那伏念)
  31. 改元680年元号を「永隆」とする
  32. 680年皇太子賢を廃して庶人とし英王哲を皇太子に立て、永隆に改元。
  33. 皇太子680年皇太子賢を廃して庶人とし別所に幽閉、翌日英王哲を皇太子に立てる。
  34. 改元681年元号を「開耀」とする
  35. 改元682年元号を「永淳」とする
  36. 682年太子(哲)に皇孫誕生・満月につき大赦、永淳に改元。
  37. 反乱682年阿史那骨咄禄の反乱
  38. 反乱683年綏州稽胡白鉄余の乱
  39. 改元683年12月27日元号を「弘道」とする
  40. 683年12月27日弘道に改元し崩御当日に赦書を宣す。

唐の歴代皇帝

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