本文へスキップ

安禄山の肖像画

燕(唐)第1代

安禄山

在位 756–757年(360日)756年2月5日 〜 757年1月30日

日本は奈良時代

安禄山は営州柳城の胡人で、玄宗に寵愛されながら范陽で叛き、洛陽で燕の皇帝を称したが、子の安慶緒らに殺された皇帝である。

安禄山の人物データ

生年
不詳
在位
  • 756年2月5日〜757年1月30日
360日長い順295位/365人即位の年齢は不詳
没年
757年1月30日年齢不詳
死因
同じ死因92人/365人
即位経路
先代
—
次代
呼び名
姓安諱禄山別称雄武皇帝呼び名の見方

出典

在位
旧唐書 本紀第九 玄宗下/本紀第十 肅宗/列傳第一百五十 安祿山
死因
旧唐書 巻二百上(逆臣上)/新唐書 巻二百二十五上(逆臣上)
即位経路
旧唐書 巻二百上(逆臣上)

生涯

どんな皇帝か

新唐書の賛は、史思明とまとめて、臣として君に背いた二人がその子に殺されたのは、報いが巡ったのだと評する。

即位まで

営州柳城の胡人で、もとは姓が無かった。母は突厥の巫で、のちに安延偃の妻となり、禄山もやがて安姓を名乗った。六蕃の言葉を解し、交易の仲介役となった。羊を盗んで棒殺されかけたが、言葉の勢いを張守珪に買われて許され、のちにその養子となった。楊の養児になることを願い、玄宗の前で先に貴妃を拝して、蕃人は母を先にすると答え、玄宗を喜ばせた。腹が膝まで垂れるほど太っていたが、を舞うと風のように速く、腹の中身を問われると、まごころだけですと答えた。皇太子に会わされても拝さず、皇太子とは何の官かと問い、陛下だけしか知りませんでしたと謝してやっと拝した。楊貴妃は禄山を大きな産着で包んでに担がせ、三日目の洗児と聞いた玄宗は見に行って喜んだ。禄山は宮中に出入りして醜聞が外に聞こえたが、玄宗は疑わなかった。楊国忠にたびたび謀反を言い立てられ、755年、楊国忠を討つと称して范陽で兵を挙げた。軍令は厳しく、官軍は遭うたびに敗れた。陳留で、子の安慶宗が唐に殺されたと知ると、わが子に何の罪があったのかと泣いて怒り、降った兵を殺させた。続いて洛陽を陥れた。

史料について

洗児の話は資治通鑑にあり、両唐書には見えない。陳留で殺された兵を、旧唐書は降兵を互いに斬り合わせた六、七千人とし、資治通鑑は禄山がすべて殺させた約一万人とする。

治世と最期

756年、洛陽で国号を燕とし、聖武とした。戦況が行き詰まると、謀臣の高尚らに、万全はどこにあるのかと怒って遠ざけたが、田乾真に説かれると喜んで呼び戻し、自ら歌って酒を勧めた。

病が重くなると気が荒くなり、側近を打ち、厳荘も鞭打たれた。757年、の李猪児が帳に入り、禄山の腹を大刀で斬った。目の見えない禄山は枕元の刀も取れず、帳を揺すって家の中の賊だと叫んで息絶え、屍は床下の穴に毛氈でくるんで埋められた。厳荘の宣言で晋王安慶緒が位を継ぎ、禄山はとされた。

史料について

称号を、新唐書の伝は雄武皇帝、資治通鑑は大燕皇帝とし、旧唐書は皇帝の称を書かない。殺した場面を、旧唐書は厳荘が安慶緒を戸の外に立たせて自らも猪児と入ったとし、新唐書と資治通鑑は厳荘が安慶緒と共に武器を持って外を固めたとする。新唐書は、禄山が別の子を後継にしようとしたので安慶緒が恐れたと動機を書く。資治通鑑は、厳荘がまず禄山の病が重いと言い、安慶緒を太子に立て、のちに即位させたとする。

安禄山とつながる皇帝

唐の勢力図(756年)

勢力図

唐の勢力図で見る

756–757年の地図に、安禄山が治めた国が描かれています。

在位中の出来事

反乱1・改元1
  1. 改元756年2月5日元号を「聖武」とする
  2. 反乱756年2月10日顔杲卿の常山蜂起(河北十七郡離反)

燕の歴代皇帝

歴代4人の一覧

年表

唐の時代を年表で見る

燕が中国史のどこにあたるか、同じ時代の王朝と前後の時代を並べて見られます。

即位経路が「自立」の48名をデータベースで見る

収録基準・各項目の数え方・出典はこのサイトについてを、ほかの皇帝は皇帝一覧をご覧ください。