雄武皇帝安禄山
燕(唐)|在位 756–757年

- 諱(本名)
- 安禄山
- 在位
- 756–757年
- 在位期間
- 355日365名中301位
- 即位経路
- 建国
- 死因
- 暗殺
- 即位時年齢
- 不詳
- 没年齢
- 不詳
- 改元
- 1回332名中142位タイ
- 大赦
- 0回
- 立后
- 0回
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 1回225名中179位タイ
- 被反乱
- 1回289名中203位タイ
- 遷都
- 0回
関連動画
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順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
天宝15載(至徳元載)正月、洛陽で「燕」を自称して即位、元号「聖武」。唐から独立した新政権の樹立のため建国。
出典: 旧唐書 巻二百上(逆臣上)
死因の経緯
厳荘・安慶緒が武装して帳外を守る中、宦官李猪児が帳内で腹を斬った。実行者は側近の宦官、共謀者は腹心の厳荘と実子・安慶緒であり、同一政権内部者による謀殺。
出典: 旧唐書 巻二百上(逆臣上)/新唐書 巻二百二十五上(逆臣上)
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
安禄山の在位(至德元載正月〜二載正月、約1年)を通じて元号「聖武」の使用が確認でき、他に改元があったとする記述は旧唐書・新唐書・資治通鑑のいずれにも見当たらない。即位=建元の1回のみ。
大赦回数
『旧唐書』巻二百上(逆臣上・安禄山伝、china-history収録の相対巻一百五十)、『新唐書』巻二百二十五上(逆臣上、daizhigev20/新唐書.txt収録範囲)の安禄山伝本文、および『資治通鑑』至德元載〜二載正月条(daizhigev20/資治通鑑.txt)を通読したが、安禄山の燕政権期(至德元載正月即位〜至德二載正月崩御、約1年)について「大赦」「大赦天下」等の語は一切見当たらなかった。在位期間が約1年と短く、史書の記述も軍事行動中心で行政的恩赦の記録が乏しい可能性があるため、確認できた範囲では0回とするが、他の紀伝(本紀等)に断片的な記載が残っている可能性を排除できないためconfidenceはmediumとした。
立后回数
『旧唐書』『新唐書』ともに安禄山の正室は「糟糠の妻」康氏(安慶緒の母)、寵愛した側室は段氏(安慶恩の母)と記されるのみで、いずれも「皇后」に冊立されたとする記述はない。対照的に、同じ逆臣伝内で史思明が大燕皇帝を僭称した際には「妻辛為皇后」と明記されており(新唐書逆臣伝)、この対比からも安禄山が皇后を立てなかったことが裏付けられる。よって立后回数は0回。
皇太子廃立回数
安禄山の在位中(至德元載正月〜二載正月)に正式な皇太子册立の記述はない。新唐書逆臣伝には「賊僭號、嬖段夫人、愛其子慶恩、欲立之。慶緒懼不立」とあり、寵妾段氏の子・安慶恩を後継に立てようとした意向は記されるが、正式册立(立太子)の手続きが完了した記録はなく、実行前に安禄山自身が安慶緒・厳荘・李猪児らに弑殺された。また『資治通鑑』も「厳荘與慶緒夜持兵立帳外」で殺害後「乙卯旦…立晋王慶緒為太子、尋即帝位」とするが、これは安禄山死後の追認・偽詔によるもので、安禄山の在位中に既に立てられていた皇太子を廃した事例ではない。したがって本項の定義(在位中に立てられていた皇太子の廃立)には該当せず、廃立回数は0回とした。
親征回数
在位中(至德元載正月=756年2月即位〜至德二載正月=757年1月崩御)に安禄山自身が軍を率いて出陣した記録は見当たらない。旧唐書逆臣伝に「禄山以体肥、長帯疮。及造逆後而眼漸昏、至是不見物。又著疽疾」とあり、即位後は肥満・失明・悪性の腫れ物により衰弱し、一所(洛陽方面)にとどまり続けたことがわかる。在位中の主要な軍事行動(叶県城北枌河の戦い、常山郡東嘉山の戦い、霊宝西の戦い、潁川攻略)はいずれも武令珣・崔乾祐・阿史那承慶ら諸将への派遣によるもので、皇帝自身の出陣を示す記述はない。なお即位前の天宝14載11月の挙兵(范陽出発〜洛陽占領、契丹討伐の親征も含む)は安禄山自身が軍を率いたが、これらはいずれも「燕」建国・即位(至德元載正月)以前の行動であり、reignsに記録された在位期間の対象外としてカウントしなかった。
反乱鎮圧回数
旧唐書巻百五十(高尚伝・史思明伝)に基づく。同年6月の郭子儀・李光弼による河北諸郡奪還は唐正規軍の外征であり燕政権配下の反乱鎮圧とは性質が異なるため対象外とした。境界的な判断のためconfidenceはmediumとした。
被反乱回数
在位終盤の崩御事件(至德二載正月、厳荘・安慶緒・宦官李猪児による帳内での刺殺)は、deathCauseに「暗殺」として既に計上済みだが、実行者が李猪児1名、帳外の武装者も厳荘・安慶緒ら少数の腹心にとどまり、望夷宮の変のような組織的な兵力(吏卒千余人規模)を伴う挙兵とは性質が異なるため、本フィールドの『兵力を伴う弑逆・クーデター』には該当しないと判断し、被反乱回数には含めなかった。
遷都回数
旧唐書逆臣伝を通読。洛陽で称帝(建国時の定都)のまま至徳2載(757年)正月に殺害され、在位中の遷都はない。
即位時年齢・没年齢
新唐書逆臣伝に「腹腸潰於床、即死、年五十餘」とあり、崩御時年齢について「年五十餘(50歳あまり)」という直接記載が存在する。ただし正確な整数値ではなく概数表記のため、deathAgeフィールドには数値を入れず本noteに記録するに留めた(既存判断を踏襲)。生年・即位時年齢についての直接記載(「時年◯◯」等)は本紀・列伝の該当箇所には見当たらず、概数からの逆算も精度が粗すぎるため行わなかった。confidenceは、死亡年齢が概数ながら原典直接記載である一方、生年・即位時年齢が完全に不明なためmediumとした。
在位中の出来事(3件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
改元日付不詳安禄山、洛陽にて皇帝に即位すると同時に建元。
安禄山、洛陽にて皇帝に即位すると同時に建元。新唐書逆臣伝「明年正月、僭稱雄武皇帝、國號燕、建元聖武」、旧唐書逆臣伝「十五年正月、賊竊號燕國、立年聖武」。『資治通鑑』至德元載条は「春、正月、乙卯朔、禄山自稱大燕皇帝、改元聖武」とし、正月朔(乙卯)の日付まで特定できる。即位に伴う最初の建元であり、在位中に他の改元は行われていない(至德二載正月に崩御するまで「聖武」のまま)。
出典: 新唐書巻二百二十五上(逆臣上・安禄山傳)
反乱鎮圧日付不詳顔杲卿の常山蜂起(河北十七郡離反)
首謀者: 顔杲卿
結果: 史思明・蔡希徳が常山を包囲し9日で陥落させ、顔杲卿を捕らえて鎮圧に成功した
rebellionSufferedCountと同一事象。史思明・蔡希徳という安禄山配下の将が鎮圧主体であり、燕政権側による服属地反乱の鎮圧として計上した。
被反乱日付不詳顔杲卿の常山蜂起(河北十七郡離反)
首謀者: 顔杲卿
結果: 史思明・蔡希徳が常山を包囲し9日で陥落させ、顔杲卿を捕らえて鎮圧に成功した(ただし河北諸郡の離反機運はその後も尾を引いた)
旧唐書巻百五十・高尚伝に「及顔杲卿殺李欽湊於土門、揚声言栄王琬・哥舒翰二十万衆徇河北、十七郡皆帰順」とあり、常山太守顔杲卿がいったん燕(安禄山)政権下に置かれた土門の守将李欽湊を殺害して離反、これに呼応して河北十七郡が唐に帰順した。同巻・史思明伝には「十五載正月六日、思明与蔡希徳囲顔杲卿於常山、九日抜之」とあり、史思明・蔡希徳が常山を包囲・攻略して鎮圧したことが記される(安禄山の即位=至德元載正月と同月)。顔杲卿自身は捕らえられ後に殺害された(他書による)。挙兵の起点(李欽湊殺害)自体は即位直前の可能性もあるが、鎮圧行動は在位開始直後の同月内に完結しており、燕政権に服属していた地域の離反・武装反抗として鎮圧・被反乱の双方に計上した。なお同年6月の「河北諸郡帰降者十余」(郭子儀・李光弼による河北奪還)は唐正規軍による外征の色彩が強く、本項とは別事象として本カウントには含めなかった。