襄王李熅
唐|在位 886–887年
- 諱(本名)
- 李熅
- 在位
- 886–887年
- 在位期間
- 95日365名中340位
- 即位経路
- 擁立
- 死因
- 処刑
- 即位時年齢
- 不詳
- 没年齢
- 不詳
- 改元
- 1回332名中142位タイ
- 大赦
- 0回
- 立后
- 0回
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 0回
- 被反乱
- 0回
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
田令孜専横に反発した邠寧節度使朱玫が、興元へ逃れる僖宗を追いきれず、病で従駕できなかった嗣襄王熅を拘束し「監軍国事」に推戴。本人の主体的な簒奪行為はなく軍閥朱玫による擁立(傀儡的即位)。
出典: 新唐書 巻82(十一宗諸子・襄王煴伝)
死因の経緯
擁立者の朱玫が部将王行瑜に誅殺された後、河中の王重栄のもとへ逃れたが、王重栄は迎え入れると偽って捕らえ斬った。王重栄は正統な僖宗政権側の藩鎮として対立政権を鎮圧する立場にあり、政権交代後の勝者(正統政権側)による公的処断のため処刑と判定。首級は僖宗の行在に送られ「偽煴」として庶人に落とされた。
出典: 新唐書 巻82(十一宗諸子・襄王煴伝)
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
新唐書列伝(巻82)「煴五讓乃即位,改元建貞,尊僖宗為太上元皇聖帝」、新唐書本紀(僖宗紀)「十月丙午,嗣襄王煴自立為皇帝,尊皇帝為太上元皇聖帝」、旧唐書僖宗紀にも符合する記事あり。改元は建貞の1回のみで、それ以外の改元は確認できない。
大赦回数
新唐書巻82(襄王煴伝)・旧唐書僖宗紀・新唐書僖宗紀のいずれにも、煴の在位期間(光啓2年10月即位~同年12月処刑、監軍国事期間を含めても886年4月~12月の約9ヶ月間)中に大赦を行った記録はない。この間の『大赦』記事は全て正統僖宗政権側(行在)のものであり、煴自身が発したものではない。
立后回数
新唐書巻82(襄王煴伝)・旧唐書僖宗紀に、煴が皇后を立てた記録はない。傀儡皇帝として朱玫に擁立されてから約2ヶ月で処刑されており、立后の記録自体存在しない。
皇太子廃立回数
煴の在位中に皇太子を立てた・廃した記録は原典に見られない。在位期間が短く(監軍国事~皇帝僭称~処刑まで約9ヶ月)、そのような措置を行う余裕もなかったとみられる。
親征回数
新唐書巻82(襄王煴伝)によれば、煴は「性謹柔、材無過人者」(気弱・凡庸な性格)で、田令孜の専横を避けて僖宗が興元に逃れた際も病で従駕できず、そのまま朱玫に拘束されて擁立された。即位後の軍事行動(朱玫方の各地との交渉・王重栄への遣使等)はすべて朱玫・裴澈ら臣下が主体で行っており、煴自身が軍を率いて出征した記録は皆無。
反乱鎮圧回数
煴の在位中(光啓2年10月即位~同年末処刑)、煴側(朱玫政権)が反乱を鎮圧した記録はない。むしろ擁立者の朱玫自身が部将王行瑜に殺害され、煴政権は自壊した。煴自身または朱玫方が積極的に鎮圧行動を取った形跡はなく該当なし。
被反乱回数
朱玫の部将王行瑜が鳳州から入京し朱玫を殺害した事件があるが、これは楊復恭ら僖宗行在(正統政権)側が「勧能斩玫者」と檄を飛ばして王行瑜を離反させた結果であり、標的も擁立者の朱玫本人であって煴自身への武力行使ではない。その後、朱玫を失った煴は東渭橋へ逃れ、王重栄に偽って迎えられ捕縛・斬首されたが、これは正統僖宗政権側(王重栄)による対立政権の討伐・処断であり、煴政権内部からの反乱(クーデター)ではなく対等勢力間の政権交代の帰結にあたるため被反乱としては計上しない。
遷都回数
旧唐書・新唐書を通読。該当在位期間中に新たな遷都の記録なし(684年洛陽遷都は睿宗期、705年長安復都は中宗復位期、904年洛陽強制遷都は昭宗期の出来事として各々計上済み)。
即位時年齢・没年齢
新唐書巻82(襄王煴伝)を通読したが、煴の生年・没年齢について「時年」「享年」等の直接記載は見当たらなかった。系譜上は襄王僙(唐代宗の弟)の玄孫(僙→宣→寀の系統に連なる裔孫)とのみ記され、生没年の手がかりとなる年齢記載は原典になし。調査済みだが不明として確定する。
在位中の出来事(1件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
改元886年10月光啓2年10月丙午、嗣襄王煴が皇帝を自称(自立為皇帝)すると同時に改元し、年号を「建貞」と定めた(「煴五譲乃即位、改元建貞、尊僖宗為太上元皇聖帝」)。
光啓2年10月丙午、嗣襄王煴が皇帝を自称(自立為皇帝)すると同時に改元し、年号を「建貞」と定めた(「煴五譲乃即位、改元建貞、尊僖宗為太上元皇聖帝」)。軍閥朱玫に擁立された傀儡皇帝としての建元だが、実際にその治世で使用された年号であるためカウント。即位と改元が同時のため2段階即位パターンには該当しない(それ以前の『監軍国事』段階では改元していない)。
出典: 新唐書 巻82(十一宗諸子・襄王煴伝)