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唐

襄王李熅

在位 886年(71日)886年10月31日 〜 887年1月10日 ( 886年12月13日まで)

日本は平安時代

僖宗が西へ逃れた混乱のなか、朱玫に担がれて帝を称し、朱玫が倒れるとまもなく殺された唐のの人物である。

襄王李熅の人物データ

生年
不詳
在位
  • 886年10月31日〜887年1月10日 886年12月13日まで
71日長い順344位/365人即位の年齢は不詳
没年
887年1月10日( 886年12月13日)年齢不詳
死因
同じ死因33人/365人
即位経路
先代
—
次代
—
呼び名
姓李諱熅呼び名の見方

出典

在位
新唐書 本紀第九 懿宗・僖宗(僖宗紀 光啓二年条)
死因
新唐書 巻82(十一宗諸子・襄王熅伝)
即位経路
新唐書 巻82(十一宗諸子・襄王熅伝)

生涯

即位まで

粛宗の子孫にあたる唐の宗室で、慎み深く柔和だったが、人に勝る才は無かった。886年、田令孜が僖宗を連れて西へ逃れると、李熅は病で従えずに残され、朱玫に捕らえられて鳳翔へ連れ去られた。朱玫は鳳翔のに迫って李熅に軍国の事を仮に監させ、李熅を奉じて長安へ戻り、反対した宰相の蕭遘を罷めて号令を自ら出した。同じ年、朱玫が裴璩らを脅して即位を勧めさせ、李熅は五度辞退してから帝位に即き、建貞として僖宗を太上元皇聖帝と尊んだ。朱玫は自らを称して権を握り、を共に謀った李昌符は離れて僖宗に帰順した。

史料について

出自を、資治通鑑は粛宗の玄孫とし、新唐書の宗室列伝は粛宗の子の襄王僙の子孫とする。即位を、旧唐書のと旧五代史の梁太祖紀は資治通鑑などより前に置く。

治世と最期

886年の暮れ、朱玫の首に恩賞が懸けられるなか、罪を得るのを恐れた王行瑜が長安へ兵を返して朱玫を斬った。

李熅は百官に奉じられて河中へ逃れた。王重栄の迎えを受けると官属と泣いて別れ、王重栄に会ったら服を用意して迎えさせようと語った。王重栄は迎えると偽って李熅を捕らえて殺し、首をへ送った。首が届くと、の殷盈孫は、李熅をに落として葬ること、祝賀は朱玫の首を待つことを奏し、許された。

史料について

旧唐書の本紀は、王行瑜がを受けていたとする。李熅の死を、旧唐書の伝は鄜州の乱軍に殺されて王行瑜が首を送ったとし、旧五代史の李承嗣伝は李承嗣が首を送ったとする。殷盈孫の言葉を、新唐書の伝と資治通鑑は脅されて節を守れなかったことだけを罪とし、旧唐書の本紀は進んで逆謀に加わったとも責める。

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在位中の出来事

改元1
  1. 改元886年10月元号を「建貞」とする

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