安慶緒の人物データ
- 生年
- 不詳
- 在位
- 757年1月30日〜759年4月7日
- 没年
- 759年年齢不詳
- 死因
- 暗殺同じ政権の中の家臣・皇族・宦官などに殺された死。毒殺も含む。非業の死このサイトでは、暗殺・処刑・戦死・自害の4つをまとめて非業の死と呼んでいる。同じ死因92人/365人
- 呼び名
- 姓安諱慶緒呼び名の見方
- 目立つ記録
- 遷都 1回多い順同率9位
出典
- 在位
- 旧唐書 巻二百上 列傳第一百五十 逆臣上(安禄山伝・
附安慶緒)/旧唐書 本紀第十 肅宗下/新唐書 巻六 本紀第六 肅宗 - 死因
- 旧唐書 巻二百上(逆臣上)
- 即位経路
- 新唐書 巻二百二十五上(逆臣上)
生涯
即位まで
安禄山の第二子で、母は禄山の糟糠の妻の康氏であり、父に偏愛された。のちに禄山は寵愛する段氏の子の安慶恩を後継にしようとし、安慶緒は死を恐れていた。757年、安慶緒が外に立つなか、厳荘が連れた宦官去勢されて宮中で皇帝や后妃に仕えた男の李猪兒が禄山の腹を斬った。厳荘の宣言で安慶緒が位を継いだ。
史料について
段氏の子をめぐる動機は新唐書と資治通鑑にあり、旧唐書の安禄山伝は書かない。殺した夜の安慶緒を、旧唐書は戸の外に立たされていたとし、新唐書と資治通鑑は厳荘と武器を持って外を固めていたとする。
治世と最期
位を継いで載初と改元元号(年の呼び名)を新しいものに改めることし、政治を厳荘に委ねて兄として仕えた。もとより懦弱で言葉に順序が無く、厳荘は衆が服さないのを恐れて人に会わせなかった。同じ年、唐の広平王らに厳荘の軍が大破されると、捕えていた唐の将の哥舒翰ら三十余人を殺して、洛陽から鄴へ逃れた。従う兵は千三百にすぎなかったが、十日ほどで諸将が六万余を率いて集まった。鄴を府として改元した。唐に降った太守郡を治める長官らを攻めて生け捕りにし、帰順を謀った者は一族まで連坐させた。人の二心を恐れて群臣と血をすすって盟ったが、阿史那承慶ら十余人はひそかに唐へ通じていた。宮室や池を造り、楼船何層もの建物を載せた大きな船を浮かべて夜通し飲んだ。勇将の蔡希德が張通儒に殺されると、軍の心は離れた。
758年、九節度使地方の軍と政治をにぎった長官の軍に鄴を囲まれると、薛嵩を遣わして史思明に救いを求め、位を譲ると申し出た。城中では人が相食んだが、759年、唐軍が敗れて囲みが解けた。追い詰められると、使者を遣わして史思明に璽綬位や官職を示す印とそれを下げるひもを譲ると申し出、史思明は兄弟の国となる約束をした。史思明に誘われ、三百騎で陣に赴いた。史思明は、父を殺して位を求めたのは大逆だと責めて、安慶緒を弟たちや高尚らとともに縊り殺させた。
史料について
鄴での元号を、資治通鑑は天成、新唐書は天和とする。蔡希德の死を、旧唐書と資治通鑑は張通儒の讒言によるとし、新唐書は唐への内応を謀ったので斬られたとする。璽綬を譲る件を、新唐書は唐軍の敗走の前に置き、資治通鑑は敗走の後に置いて安慶緒が臣と称したとし、旧唐書は書かない。陣に赴いたのを、旧唐書はやむを得ずとし、資治通鑑は安慶緒が喜んで自ら盟いを請うたとする。新唐書は、率いたのを五百騎とし、高尚らは別に斬ったとする。
安慶緒とつながる皇帝

勢力図
唐の勢力図で見る
757–759年の地図に、安慶緒が治めた国が描かれています。
在位中の出来事
反乱1・遷都1・改元2
- 反乱757–758年河北諸城の対唐帰順・
離反 - 改元757年2月元号を「載初」とする
- 改元757年12月元号を「天成」とする
- 遷都757年12月洛陽(東京) → 鄴郡(相州、成安府)
燕の歴代皇帝
歴代4人の一覧- 第1代安禄山756–757年暗殺
- 第2代安慶緒757–759年暗殺
- 第3代史思明759–761年暗殺
- 第4代史朝義761–763年自害
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