安慶緒
燕(唐)|在位 757–759年
- 諱(本名)
- 安慶緒
- 在位
- 757–759年
- 在位期間
- 2年60日365名中254位
- 即位経路
- 簒奪
- 死因
- 暗殺
- 即位時年齢
- 不詳
- 没年齢
- 不詳
- 改元
- 2回332名中78位タイ
- 大赦
- 0回
- 立后
- 0回
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 1回225名中179位タイ
- 被反乱
- 1回289名中203位タイ
- 遷都
- 1回45名中12位タイ
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
厳荘・李猪児らが安禄山を弑逆した直後、厳荘が「禄山伝位於晋王慶緒」と偽って布告し禄山を太上皇に「尊」した体裁を取ったが、新唐書は慶緒自身が弑逆を共謀したことを明記しており、実態は父殺しによる権力奪取を禅譲の体裁で偽装したものであるため簒奪と判定。
出典: 新唐書 巻二百二十五上(逆臣上)
死因の経緯
史思明が救援を装って出頭させ拘束、「殺汝父以求位」と断罪した上で四人の弟らとともに絞殺。同じ燕政権内の将軍による謀殺のため暗殺。
出典: 旧唐書 巻二百上(逆臣上)
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
旧唐書列伝(巻一百五十=巻二百上相当)には安禄山殺害の経緯は詳しいが『載初』『天成』の年号名自体の明記はなく、新唐書列伝と資治通鑑で確認した。至徳2載正月の即位建元『載初』と、同年10月の再建元『天成』の計2回。
大赦回数
安慶緒自身が発した『大赦』『大赦天下』と明記される記事は正史(旧唐書・新唐書列伝逆臣上)に見当たらなかった。資治通鑑(巻二百二十、唐紀三十六)には「会安慶緒初立、有赦、得免」(顔杲卿の子・泉明が安慶緒の即位に伴う恩赦で助命された)という記事があるが、『赦』とのみ記され『大赦』『大赦天下』という明記はないため、収録基準(明記された全国規模の大赦のみ)に照らしカウントしなかった。
立后回数
安慶緒自身が皇后を冊立した記録は正史(旧唐書・新唐書列伝逆臣上)に見当たらない。新唐書列伝には史思明が『妻辛を皇后とす』という記事はあるが、これは史思明の皇后であり安慶緒とは無関係。
皇太子廃立回数
安慶緒自身の治世中に皇太子を立てた記録も、それを廃した記録も正史(旧唐書・新唐書列伝逆臣上)に見当たらない。父・安禄山により偽詔で『皇太子』とされた後に『傳位』を矯称された記事はあるが、これは安慶緒が擁立された側であり、彼が皇太子を廃立した事例ではない。
親征回数
旧唐書 巻二百上(安慶緒伝)を精査したが、皇帝在位中(757年正月〜759年3月)に安慶緒自身が軍を率いて戦場に赴いた記事は見当たらなかった。洛陽防衛・鄴郡籠城戦や史思明への援軍要請はいずれも『使』(薛嵩を派遣、阿史那承慶・安守忠を派遣等)による将軍派遣であり、本人の親征ではない。鄴郡籠城中も『慶緒使収子儀等営中糧』のように部下に指示するのみで自ら出陣した形跡はない。
反乱鎮圧回数
対象は安慶緒(燕)政権自身に服属していた河北諸城が唐へ帰順・抵抗した動きの鎮圧であり、唐という統一王朝への反乱としてではなく燕政権自身を主体として判定した。史思明による鄴郡包囲・救援(乾元2年)は史思明が既に独立した勢力(後に大聖燕王を僭称)として行動しており、安慶緒配下の対唐防衛戦(郭子儀ら九節度による鄴城包囲)自体は服属していない対等勢力(唐)との抗争のため対象外とした。
被反乱回数
rebellionSuppressionCountと同一の河北諸城帰順・鎮圧事象を被反乱側から集計した。史思明による殺害は独立勢力による征服的性格が強く『対等な群雄との抗争』に該当すると判断し除外した(deathCauseのnoteで暗殺として既に記録済みのため別軸での重複計上は避けた)。
遷都回数
在位中に遷都1回(0757年 洛陽(東京)→鄴郡(相州、成安府))。
即位時年齢・没年齢
旧唐書 巻二百上(逆臣上、china-history該当ファイル)を精査したが、安慶緒自身の生年・享年・即位時年齢を示す「時年」「享年」等の直接記載は見当たらなかった。唯一の関連記述は『未二十、拝鴻臚卿、兼広陽太守』(20歳未満で鴻臚卿・広陽太守を拝命)だが、これは安禄山の反乱(755年)以前・時期不明の任官についての記述であり、即位(757年)時点や死亡(759年)時点の年齢を逆算する材料としては不十分なため採用しなかった。既存のdeathCause/accessionRoute/eraChangeCount等のnoteにも年齢の直接記載はない。
在位中の出来事(5件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
被反乱757年〜758年河北諸城の対唐帰順・離反
首謀者: 河北諸城の指揮官ら(個別の首謀者名は原文に明記されず)
結果: 最終的に安慶緒配下の蔡希德・安太清により鎮圧され、諸城は奪回された(捕虜は酷烈な処罰を受けた)。
至徳2載(757)十月以降、伪青・斉節度能元皓、伪徳州刺史王暕、貝州刺史宇文宽ら安慶緒配下の地方長官が相次いで唐に帰順し、河北諸城も数ヶ月にわたり城を守って安慶緒政権への服属を拒んだ(旧唐書巻二百上)。これは安慶緒政権に服属していた地方勢力による離反・武装抵抗であり、最終的に安慶緒配下の将軍によって鎮圧されたためrebellionSuppressionCountと同一事象として計上した。なお史思明による安慶緒殺害(乾元2年)は、その時点で史思明が既に独立した勢力(大聖燕王を僭称する直前の段階)として行動しており、安慶緒政権内部の権力者による兵力を伴うクーデターというより対等な群雄による吸収・征服に近いと判断し、対象から除外した(deathCauseでは同一事象を『暗殺』として別軸で計上済み)。
改元757年1月【皇帝即位(改元同時)】至徳2載正月朔(乙卯)、厳荘・李猪児と共謀し父・安禄山を弑殺。
【皇帝即位(改元同時)】至徳2載正月朔(乙卯)、厳荘・李猪児と共謀し父・安禄山を弑殺。禄山『伝位』を矯称され皇帝の位を襲い(偽って皇太子とされた後、太上皇に伝位されたと詐称)、『載初元年』と改元。新唐書列伝(逆臣上)に「既袭伪位、改载初元年」。なお、父帝の在世中に安慶緒は『晋王』に封じられていた(安禄山が聖武と建元した際の記事)が、これは父の治世下での王号であり安慶緒自身の在位・改元ではないためカウント対象外とした。
出典: 新唐書 巻二百二十五上(列伝第一百五十上・逆臣上)
改元757年10月【皇帝在位中】至徳2載十月、官軍による洛陽奪回(安慶緒は河北へ敗走)を受け鄴郡へ逃げ込み、鄴郡を『安成府』と改称、『天成』と改元。
【皇帝在位中】至徳2載十月、官軍による洛陽奪回(安慶緒は河北へ敗走)を受け鄴郡へ逃げ込み、鄴郡を『安成府』と改称、『天成』と改元。資治通鑑(巻二百二十、唐紀三十六)に「安庆绪走保邺郡、改邺郡为安成府、改元天成」。
出典: 資治通鑑 巻二百二十(唐紀三十六)
遷都757年10月洛陽(東京) → 鄴郡(相州、成安府)
至德二載九月、唐軍が長安(西京)を回復。十月、唐軍がさらに陝西曲沃・新店で燕軍を大破し洛陽方面に迫ると、厳荘が東京(洛陽)にいた安慶緒に敗報を告げ、『慶緒率其余衆奔河北,保鄴郡』(旧唐書巻二百上)とあるように慶緒は洛陽を放棄し鄴郡(相州)へ逃れた。到着後まもなく『(張通儒)改相州為成安府,署置百官』(同)とあり、相州を正式に成安府と改称し百官を置いて政権機構を再建しており、単なる一時避難ではなく燕の首都機能の移転とみなせる。新唐書(列伝一百五十上)も同様に『以相州爲成安府,太守爲尹,改元天和』と記す。なお洛陽への遷都(天宝十五載/至徳元載正月、安禄山が洛陽で称帝・建元聖武)自体は燕建国当初の定都であり対象外とした。(出典: 旧唐書 巻二百上 列伝第一百五十(逆臣上)安禄山・安慶緒伝/新唐書 巻二百二十五上 列伝第一百五十上(逆臣上)安禄山伝(china-history/旧唐书/列传/第一百五十章-卷一百五十-原文.html、daizhigev20/史藏/正史/新唐书.txt 逆臣上))
反乱鎮圧758年河北諸城帰順(対唐離反)の鎮圧
首謀者: 河北諸城の指揮官ら(個別の首謀者名は原文に明記されず、能元皓・王暕・宇文宽ら以外の諸城守将を含む集団)
結果: 鎮圧成功。蔡希德・安太清の急襲により奪回された諸城の守備兵は捕縛され、膾にして食われるなど酷烈な処罰を受けた。
至徳2載(757)十月、安慶緒が洛陽から鄴郡へ敗走した直後、伪青・斉節度能元皓が単独で唐に帰順、翌乾元元年(758)には伪徳州刺史王暕・貝州刺史宇文宽らも帰順し、さらに『河北諸軍各以城守累月』(河北諸城が数ヶ月にわたり城を守って唐側への帰属を維持しようとした)状態となった。これに対し安慶緒配下の蔡希德・安太清が急襲をかけて諸城を再び奪回し(『復陷于賊』)、捕虜を膾にして食う等の残虐な処罰を行った(旧唐書巻二百上)。個々の城の守将は個別に名指しされていないため首謀者ごとの厳密な件数分割ができず、河北諸城の対唐帰順・抵抗の動きをまとめて1件として集計した(集計単位の粒度差)。