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燕(唐)第3代

史思明

在位 759–761年(1年357日)759年5月 〜 761年4月22日

日本は奈良時代

史思明は営州の胡人で、安禄山の乱に加わったのち一度は唐に降り、再び叛いて燕の皇帝を称したが、子の史朝義に殺された皇帝である。

史思明の人物データ

生年
703年
在位
  • 759年5月〜761年4月22日
1年357日長い順263位/365人57歳で即位(数え年)
没年
761年4月22日59歳(数え年)長生き順同率43位/266人
死因
同じ死因92人/365人
即位経路
先代
  • 安慶緒燕史思明と安慶緒に血縁はない
次代
呼び名
姓史諱思明別称応天皇帝呼び名の見方
目立つ記録
  • 遷都 1回多い順同率9位

出典

在位
旧唐書 巻二百上 列傳第一百五十 安禄山傳(附 史思明傳)/旧唐書 本紀第十 肅宗紀
死因
旧唐書 巻二百上(逆臣上)
即位経路
新唐書 巻二百二十五上(逆臣上)

生涯

どんな皇帝か

新唐書の賛は、安禄山とあわせて、臣として君に背いた者がその子に殺されたのは、報いが巡ったのだと評する。

即位まで

営州の胡人で、安禄山と同郷であり、大晦日に生まれて元日生まれの禄山より一日早かった。痩せて目がくぼみ鼻が曲がり、せっかちで怒りっぽかった。六蕃の言葉に通じ、禄山とともに交易の仲介役となった。のちに入朝して玄宗に年を問われ、四十と答えると、おまえの貴さは晩年にあると励まされた。禄山の死後は安慶緒に従わず、自分を図りに来た阿史那承慶を捕らえて安守忠と李立節を斬り、兵八万を率いて唐に降り、帰義王とされた。粛宗が烏承恩を送って思明を除こうとすると、伏兵に承恩の言葉を聞かせて捕らえ、真心で陛下に背いていないのになぜ臣を殺すのかと西に向かって泣き、承恩父子を打ち殺させた。朝廷は、承恩のしたことだと慰撫した。李光弼を誅せという上表の文面を、長く仕えた判官の耿仁智が削ると、めった打ちにして殺した。759年、魏州で大聖燕王を称した。

史料について

この称号を、新唐書は大聖周王とし、同時に応天としたとする。資治通鑑は応天へのを761年に置く。

治世と最期

同じ年、相州を囲む唐軍が敗れると、救いを求めた安慶緒を、父を殺して位を求めた大逆だと責めて縊り殺させ、その兵を併せた。続いて大燕皇帝を称して順天と改元し、范陽を燕京とした。上帝を祀ったが、その日は大風でができなかった。

疑い深く残忍で、部下が少しでも意に沿わないと一族ごと誅し、長子の朝義を殺して末子の朝清を太子に立てようとしていた。761年、陝を攻めて敗れた朝義を誅そうとしていったん許し、築城の遅れを咎めて、陝州を取ったらこの賊を斬ると言った。朝義は恐れた。駱悦らに迫られて朝義が承知すると、その夜、思明は駱悦の配下に射られて落馬し、懐王(朝義)の命だと告げられた。思明は懐王を三度呼んで殺すなと叫んだが、柳泉で縊り殺された。

史料について

新唐書は、このとき応天皇帝と称したとする。最期の言葉を、新唐書は、囚えるのはよいが父殺しの名を取るなとする。陝を攻めて敗れたのを、新唐書は朝義の軍とし、旧唐書は思明自身が阻まれて退いたとする。

史思明とつながる皇帝

唐の勢力図(759年)

勢力図

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759–761年の地図に、史思明が治めた国が描かれています。

在位中の出来事

反乱1・遷都1・親征2・皇后1・改元2
  1. 改元759年5月元号を「順天」とする
  2. 皇后759年5月皇后を立てる
  3. 遷都759年5月鄴郡(相州、成安府) → 范陽(燕京)
  4. 759年10月唐(河南方面、汴州・洛陽、李光弼)
  5. 761年〜761年4月22日唐(陝州方面、関中侵攻)
  6. 改元761年2月元号を「応天」とする
  7. 反乱761年4月22日史朝義・駱悦らのクーデター(弑逆)

燕の歴代皇帝

歴代4人の一覧

年表

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