応天皇帝史思明
燕(唐)|在位 759–761年
- 諱(本名)
- 史思明
- 在位
- 759–761年
- 在位期間
- 2年365名中265位タイ
- 即位経路
- 簒奪
- 死因
- 暗殺
- 即位時年齢
- 57歳(数え年)172名中・若い順166位タイ
- 没年齢
- 59歳(数え年)269名中・長寿順43位タイ
- 改元
- 2回332名中78位タイ
- 大赦
- 0回
- 立后
- 1回204名中52位タイ
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 2回112名中41位タイ
- 反乱鎮圧
- 0回
- 被反乱
- 1回289名中203位タイ
- 遷都
- 1回45名中12位タイ
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
乾元2年正月、「大聖燕王」を自称後、同年3月、安慶緒を宴に招いて拘束・処刑しその軍勢を吸収。慶緒から玉璽奉呈による禅譲の申し出があったが実際には受諾せず武力で殺害・軍を接収しており、実力による奪取のため簒奪。
出典: 新唐書 巻二百二十五上(逆臣上)
死因の経緯
上元2年、永寧の陣中で嫡子・史朝義配下の駱悦らが謀反。矢で腕を射て落馬させ捕縛、柳泉駅に連行の上、縊殺した。同一燕政権内の将校・実子の陣営による暗殺。
出典: 旧唐書 巻二百上(逆臣上)
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
史思明が使用した年号は「順天」「応天」の2つで総改元回数2回という点は新唐書・資治通鑑で一致するが、両者の先後関係(応天が即位前の王号期か、即位後2年目の在位中か)に矛盾があるため、資治通鑑の年代記述(順天が即位時の759年4月、応天が2年後の761年正月)を採用しつつ新唐書の異説を注記した。
大赦回数
旧唐書巻一百五十(列伝第一百、史思明伝)、新唐書巻二百二十五上(逆臣上、史思明伝)、資治通鑑(巻二百二十~二百二十二、乾元二年~上元二年)のいずれにも、史思明自身による「大赦」「大赦天下」等の全国規模恩赦の記述は見当たらなかった。旧唐書の当該巻内に「赦」の字は一箇所あるが、これは安禄山の「伪赦書」に関する記述であり史思明の事跡ではない。
立后回数
在位中の廃后・再冊立を示す記述は確認できず、立后は即位時の1回のみ。
皇太子廃立回数
史思明は在位中、子の史朝義を「懐王」に封じたのみで、正式に皇太子(法定推定継承者)に立てたという記載はない。資治通鑑上元二年条に「思明愛少子朝清、使守範陽、常欲殺朝義、立朝清為太子、左右頗泄其謀」(思明は末子の朝清を愛し、範陽を守らせ、常々朝義を殺して朝清を皇太子に立てようとしていたが、この謀は漏れた)とあり、朝清を皇太子に立てようとする計画自体は存在したが、実行前に側近に漏洩し、まもなく思明自身が朝義配下に殺害されたため、朝清が正式に皇太子として冊立された事実も、朝義が皇太子として廃された事実もない。したがって立太子・廃太子いずれも成立しておらずカウント対象外とした。
親征回数
旧唐書 巻二百上(逆臣上)史思明伝(china-history/旧唐书/列传/第一百五十章-卷一百五十-原文.html)を確認。皇帝即位(759年4月)から崩御(761年)までの在位期間中に思明自身が軍を率いた事績として、(1)759年9月の汴州・洛陽方面(李光弼との対陣、北邙山の勝利含む)、(2)761年の陝州方面(姜子坂での敗退、永寧への退却)の2件を別個の親征として計上した。即位前(乾元2年正月~3月、大聖燕王僭称期)の安慶緒討伐・誅殺は在位期間外のため対象外とした。
反乱鎮圧回数
旧唐書 巻二百上(逆臣上)史思明伝を確認したが、乾元2年4月の皇帝即位から上元2年の死去までの在位期間中、思明の燕政権に対する内部からの武装反乱を思明側が鎮圧したという記述は見当たらなかった。即位前(乾元元年)の烏承恩による暗殺未遂(唐朝廷主導の謀略で、当時思明はまだ唐に帰順した范陽節度使の立場)は在位期間外のため対象外とした。
被反乱回数
在位中(759年4月~761年)に思明の燕政権に対して起きた武装反乱は、末子朝清擁立計画の漏洩に端を発した史朝義・駱悦らのクーデター1件のみ確認された。deathCause(暗殺)と同一事件だが別軸の集計として計上した。
遷都回数
在位中に遷都1回(0759年 鄴郡(相州、成安府)→范陽(燕京))。
即位時年齢・没年齢
旧唐書列伝(第一百五十)に「(史思明)尝入奏、玄宗賜坐、與語、甚奇之。問其年、曰四十矣」とあり、天宝初(天宝元年=742年頃)に玄宗が年齢を尋ねた際「四十(歳)」と答えたことが記される。これを天宝元年(742年)・数え年40歳と仮定して逆算すると生年は703年頃となる。これに基づき皇帝即位(759年4月、乾元2年)時の年齢を57歳、崩御(761年、上元2年3月甲午、reigns.endDate=0761-04-18)時の年齢を59歳と算出した。「天宝初」の表現自体が742年前後の幅を持つ近似的記載であるため確度は中程度とした。歴史学的定説(史思明は703年生-761年没、享年59)とも整合的である。
在位中の出来事(7件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
改元759年4月【皇帝即位(改元同時)】乾元二年四月、国号を「大燕」と改め、范陽にて皇帝(尊号「応天皇帝」)を自称すると同時に建元し年号を「順天」とした。
【皇帝即位(改元同時)】乾元二年四月、国号を「大燕」と改め、范陽にて皇帝(尊号「応天皇帝」)を自称すると同時に建元し年号を「順天」とした。旧唐書は「四月、僭稱大號、以周贄為相、以範陽為燕京」とのみ記し年号名を明記しないが、新唐書・資治通鑑はともに「建元順天」(新唐書)「改元順天」(資治通鑑)と明記する。同年正月朔には先立って「大聖燕王」(旧唐書・資治通鑑)/「大聖周王」(新唐書、王号の異同あり)を自称しているが、この時点で建元した記述は旧唐書・資治通鑑にはなく、皇帝即位(4月)に伴う建元をもって最初の改元とみなした。
出典: 新唐書巻二百二十五上(逆臣上)/資治通鑑巻二百二十一(唐紀三十七、乾元二年四月)
立后759年4月乾元二年四月、范陽にて大燕皇帝を自称し建元「順天」した際、妻の辛氏を皇后に冊立。
乾元二年四月、范陽にて大燕皇帝を自称し建元「順天」した際、妻の辛氏を皇后に冊立。新唐書「更国号大燕、建元順天、自称応天皇帝。妻辛為皇后」、資治通鑑「史思明自称大燕皇帝、改元順天、立其妻辛氏為皇后」と、新唐書・資治通鑑の双方が明記しており信頼性が高い。旧唐書列伝には皇后冊立の記載自体がない(皇后という語が当該巻の史思明伝部分に出現しない)。
出典: 新唐書巻二百二十五上(逆臣上)
遷都759年4月鄴郡(相州、成安府) → 范陽(燕京)
乾元二年正月一日、鄴での包囲戦の末に史思明は魏州で自立を宣言(旧唐書は『大聖燕王』、新唐書は『大聖周王』と伝えるなど呼称に異同あり)。同年三月に鄴を救援して安慶緒を殺しその軍を併合、四月に正式に皇帝を称し国号を(大)燕として、『以范陽爲燕京』(旧唐書巻二百上)『號范陽爲燕京,洛陽周京,長安秦京』(新唐書巻二百二十五上)と、本拠地の范陽を正式に首都(燕京)と定めた。これにより燕の首都機能は鄴(成安府)から范陽へ移転したと認定した。なお新唐書は洛陽・長安をそれぞれ副都(周京・秦京)とする複都的な記述をしており、范陽が引き続き主都であったことが、史朝義が最末期に范陽への帰還を図っている記述(新唐書『朝義至范陽,懐仙部将李抱忠閉壁不受』)からも確認できるため、史朝義代に主都が別都市へ再移転したとする根拠は認められなかった。(出典: 旧唐書 巻二百上 列伝第一百五十(逆臣上)史思明伝/新唐書 巻二百二十五上 列伝第一百五十上(逆臣上)史思明伝(china-history/旧唐书/列传/第一百五十章-卷一百五十-原文.html、daizhigev20/史藏/正史/新唐书.txt 逆臣上))
親征759年9月唐(河南方面、汴州・洛陽、李光弼)
対象: 唐(河南方面、汴州・洛陽、李光弼)
結果: 汴州の許叔冀を帰順させ、洛陽を陥落させて唐の李光弼と河陽で対峙。上元2年(761)には北邙山で唐軍を撃退したが、決着はつかぬまま持久戦が続いた。
旧唐書逆臣伝に「九月、寇汴州、節度使許叔冀合於思明、思明益振。又陷洛陽、與太尉光弼相拒」とあり、皇帝即位(759年4月)後の親征として計上した。
親征761年唐(陝州方面、関中侵攻)
対象: 唐(陝州方面、関中侵攻)
結果: 姜子坂で唐軍に阻まれ敗退、永寧に退却し築城を進めていたが、完成前に実子史朝義配下の駱悦らのクーデターにより捕縛・縊殺され、親征は未完のまま終わった。
旧唐書に「思明至陝州、爲官軍所拒於姜子坂、戰不利、退歸永寧。筑三角城、約一月内畢、以貯軍糧」とある。前段の河南方面の対陣(汴州・洛陽・北邙山)とは目的地・目的(関中侵攻)が異なるため別件として計上した。
改元761年1月【皇帝在位中】上元二年正月癸卯、年号を「順天」から「応天」に改めた。
【皇帝在位中】上元二年正月癸卯、年号を「順天」から「応天」に改めた。資治通鑑「春、正月、癸卯、史思明改元応天」に明記され、同書には上元元年頃「順天、得一」銭が鋳造・流通していた記述もあり(巻二百二十一)、順天→応天の順で改元されたとする資治通鑑の記述と整合的である。※新唐書は逆に、まだ王を称していた乾元二年正月朔の時点で「建元応天」、皇帝即位の四月に「建元順天」と記しており、応天と順天の先後関係について新唐書と資治通鑑の間に明確な齟齬がある。旧唐書は両方の年号名自体を記載しない。改元の総回数(2回)自体は新唐書・資治通鑑いずれの記述でも一致するため count=2 としたが、各改元の正確な時期・順序については史料間で矛盾があるため信頼度は medium とした。
出典: 資治通鑑巻二百二十二(唐紀三十八、上元二年正月)
被反乱761年4月18日史朝義・駱悦らのクーデター(弑逆)
首謀者: 史朝義(駱悦・許季常・曹将軍ら)
結果: 思明は逃走を図るも矢で腕を射られ落馬、捕縛の上柳泉駅で縊殺された。朝義が帝位を奪取した(deathCauseと同一事件)。
旧唐書に、思明が末子朝清を寵愛し朝義を廃して朝清を皇太子に立てようとしたことが漏れたのを契機に、朝義配下の駱悦・許季常らが兵を動かして思明を襲撃・捕縛し、柳泉駅で縊殺したとある。実子・将校による兵力を伴う弑逆クーデターのため被反乱に計上した(鎮圧主体が思明側ではなく反乱者側であるため鎮圧回数には計上しない)。