承天応運啓聖睿文宣武皇帝黄巣
斉・唐|在位 881–884年

- 諱(本名)
- 黄巣
- 在位
- 881–884年
- 在位期間
- 3年179日365名中215位
- 即位経路
- 建国
- 死因
- 自尽
- 即位時年齢
- 不詳
- 没年齢
- 不詳
- 改元
- 2回332名中78位タイ
- 大赦
- 1回267名中194位タイ
- 立后
- 1回204名中52位タイ
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 3回112名中24位タイ
- 反乱鎮圧
- 0回
- 被反乱
- 0回
- 遷都
- 0回
関連動画
当サイトとは無関係の外部YouTubeチャンネル「鳥人間 中国史三昧」様が制作・公開されている解説動画です。
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
広明元年12月13日、長安含元殿にて即位、国号「大斉」、元号「金統」。唐から独立した新政権の樹立であり黄巣自身の主体的な建国。
出典: 旧唐書 巻二百下
死因の経緯
狼虎谷まで追い詰められ、甥の林言に首を献上すれば富貴を得られると告げ自ら首を刎ねたが死にきれず、林言がこれに止めを刺した。新唐書のみが詳細を伝え、旧唐書・資治通鑑は林言による斬殺のみ簡略に記す。自らの意思で首を切る行為に端を発した死のため自尽に分類(介錯を伴う境界事例)。
出典: 新唐書 巻二百二十五下(逆臣下・黄巣伝)
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
黄巢は「王(冲天大將軍)」として建元した「王霸」と、皇帝即位に伴い建元した「金統」の計2回の改元が確認できる。2段階即位パターン(王→皇帝)に該当するため両方をカウントし、各eventにその段階を付記した。金統改元以降、崩壊(金統5年6月)までの間に追加の改元は確認できない。
大赦回数
黄巣政権(金統年間)中に確認できる全国規模の大赦はこの即位時の一度のみ。以後の在位期間(広明元年12月〜金統5年6月、884年)中に追加の大赦記事は新唐書・旧唐書いずれの黄巢伝にも見られない。なお僖宗(唐朝)側が同時期に発した「赦剣南三川」等は地域限定かつ唐朝の詔であり黄巢政権のものではないため対象外とした。
立后回数
皇后再冊立(廃后後の復位)を示す記述はなく、確認できる立后は即位時の1回のみ。
皇太子廃立回数
新唐書・旧唐書の黄巢伝いずれにも皇太子(法定推定継承者)を立てた記述が見当たらず、当然その廃立の記録もない。黄巣政権は881〜884年の短期間で崩壊したため皇太子冊立自体が行われなかったとみられる。
親征回数
本紀・列伝の記述上、黄巣が「王」に推戴された乾符5年(878年)以降を自身の政権(王→皇帝)の軍事行動とみなし、それ以前(王仙芝配下・尚讓と合流するまでの曹州・濮州等での活動)は王仙芝集団の一員としての行動であり黄巣自身の政権としての親征には含めなかった。
反乱鎮圧回数
旧唐書列伝(巻二百下)の黄巣伝を通読したが、大齊政権(黄巣自身)が自らの服属勢力・占領地の離反や蜂起を鎮圧した記述は見当たらなかった。同伝で描かれる戦闘(鄭畋・李克用・王重栄・高駢ら唐朝諸侯連合軍との攻防)はすべて黄巣政権の統治下にない対等な敵対勢力との交戦(唐朝側による討伐戦・対外戦争)であり、服属民の反乱鎮圧には該当しないため計上しなかった。
被反乱回数
旧唐書列伝(巻二百下)を通読したが、大齊政権(黄巣自身)に対する配下・服属勢力からの組織的な武装反乱の記述は見当たらなかった。硃温の同州刺史からの離反(中和2年9月、王重榮に降る)や末期の陳州敗戦後の李讜・楊能・霍存ら諸将・尚讓の相次ぐ投降、および敗走中の「賊自相猜間,相殺於營中」(内部での疑心暗鬼による同士討ち)は、いずれも軍事的敗勢の中での無抵抗の投降・内部混乱であり、黄巣に対する組織だった挙兵・武力反抗とは言えないため計上しなかった。最期の狼虎谷での死(甥の林言による斬首)も、deathCauseで記録済みの通り黄巣自身が林言に自らの首を献上を持ちかけた自尽の一形態(介錯を伴う境界事例)であり、林言配下の兵力による強制的なクーデター・弑逆とは性質が異なると判断し、rebellionSufferedCountには含めなかった。なお唐朝側の鄭畋・李克用・王重栄・高駢ら諸侯連合軍との戦闘は、黄巣政権の統治下にない対等な敵対勢力(唐朝側)との交戦であり、被反乱の定義(服属民の反乱)には該当しない。
遷都回数
旧唐書・新唐書逆臣伝を通読。いずれも占領した都市(長安/汴州/長安)に在位中を通じて留まり続け、正式な遷都の記録なし。
即位時年齢・没年齢
旧唐書列伝(巻二百下、黄巣伝)を通読したが、黄巣本人の生年・即位時年齢・享年についての直接記載(「時年」「年◯◯」等)は見当たらなかった。没日は既存reignsデータ(金統五年六月十七日=884年7月13日、狼虎谷にて自尽)から判明しているためdeathDateのみ記載し、生年不詳のためaccessionAge・deathAgeはnullのままとする。
在位中の出来事(7件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
改元878年王仙芝が敗死した乾符五年(878年)八月以降、その残党を吸収した黄巢を尚讓ら群盗が「王」に推戴し「冲天大將軍」と号させ、「王霸」と建元した。
王仙芝が敗死した乾符五年(878年)八月以降、その残党を吸収した黄巢を尚讓ら群盗が「王」に推戴し「冲天大將軍」と号させ、「王霸」と建元した。新唐書「推巢為王,號冲天大將軍,署拜官屬,驅河南、山南之民十餘萬掠淮南,建元王霸」。【皇帝即位前】皇帝ではなく自称「王」の身分での改元。旧唐書列伝にも「尚讓乃與群盜推巢為王,號冲天大將軍,仍署官屬」とあるが、旧唐書側には「王霸」の年号名自体の明記は見られず(新唐書のみ明記)、正確な建元月日も両書とも記載がない。
出典: 新唐書巻二百二十五下(逆臣下・黄巢伝);旧唐書巻二百下(黄巢伝、参考)
親征878年〜879年張璘軍撃破・嶺南(交州・広州)占領
対象: 張璘軍撃破・嶺南(交州・広州)占領
結果: success
尚讓らに「王(沖天大将軍)」として推戴された後、淮河を渡って高駢配下の張璘軍と交戦しこれを撃破・虜にし(「巢擒璘殺之,因虜其眾」)、南下して湖南・嶺南(交州・広州)一帯を占領し根拠地とした。軍中に疫病が流行し北帰を余儀なくされるまで在地。
親征880年東都洛陽・西京長安(唐朝両京)攻略
対象: 東都洛陽・西京長安(唐朝両京)攻略
結果: success
疫病により嶺南から北帰を決意し、広明元年に五嶺を越えて湖南・江浙を経て広陵に迫り、淮河を渡って東都洛陽を陥落、潼関を突破して華州を落とし西京長安を陥落させ、同日皇帝に即位(国号「大齊」建国)した一連の北伐(「巢……北逾五嶺,犯湖、湘、江、浙……」)。
改元880年12月13日広明元年十二月十三日(壬辰)、長安含元殿にて皇帝に即位、国号「大齊」を称すると同時に「金統」と建元。
広明元年十二月十三日(壬辰)、長安含元殿にて皇帝に即位、国号「大齊」を称すると同時に「金統」と建元。【皇帝即位(改元同時)】新唐書「僭即位,號大齊……大赦,建元為金統」、旧唐書本紀「壬辰,黃巢據大內,僭號大齊,稱年號金統」。金統は在位中(〜金統五年6月17日自尽)継続して用いられ、途中での再改元は確認できない。
出典: 新唐書巻二百二十五下(逆臣下・黄巢伝);旧唐書本紀第十九下(僖宗紀)
大赦880年12月13日広明元年十二月十三日(壬辰)、長安含元殿での即位と同日に大赦を宣言。
広明元年十二月十三日(壬辰)、長安含元殿での即位と同日に大赦を宣言。新唐書「僭即位,號大齊……大赦,建元為金統」、旧唐書本紀(僖宗紀)「壬辰,黃巢據大內,僭號大齊,稱年號金統。悉陳文物,據丹鳳門僞赦」、旧唐書黄巢伝「十三日,賊巢僭位,國號大齊,年稱金統,仍御樓宣赦」。
出典: 新唐書巻二百二十五下(逆臣下・黄巢伝);旧唐書本紀第十九下(僖宗紀);旧唐書巻二百下(黄巢伝)
立后880年12月13日即位(広明元年十二月十三日)に伴い妻の曹氏を皇后に立てた。
即位(広明元年十二月十三日)に伴い妻の曹氏を皇后に立てた。新唐書「其徒上巢號承天應運啓聖睿文宣武皇帝,以妻曹為皇后」。旧唐書列伝の該当箇所(十三日僭位の記事)には官制任命の列挙はあるが皇后冊立の明記はない(新唐書のみの記載)。
出典: 新唐書巻二百二十五下(逆臣下・黄巢伝)
親征883年〜884年陳州(趙犨)包囲戦・対唐朝諸侯連合軍
対象: 陳州(趙犨)包囲戦・対唐朝諸侯連合軍
結果: failure(大敗・自尽に至る)
中和3年、長安から敗走した後、先鋒の孟楷が陳州刺史趙犨に敗死したことを悲しみ「乃悉眾攻陳州」と全軍を挙げて陳州を約百日包囲(陣営を「八仙営」と称す)。翌中和4年、李克用ら唐朝諸侯連合軍の来援により大敗し包囲を解いて敗走、最終的に狼虎谷にて自尽に追い込まれ黄巣政権は崩壊した。黄巣自身が全軍を率いて赴いた最後の親征。