中国皇帝統計

太祖・朱全忠

後梁・五代十国|在位 907–912年

太祖・朱全忠の肖像
諱(本名)
朱全忠
在位
907–912年
在位期間
5年49日365名中188位
即位経路
禅譲
死因
暗殺
即位時年齢
不詳
没年齢
不詳
改元
2332名中78位タイ
大赦
2267名中152位タイ
立后
0
皇太子廃立
0
親征
3112名中24位タイ
反乱鎮圧
4225名中101位タイ
被反乱
5289名中97位タイ
遷都
145名中12位タイ

関連動画

当サイトとは無関係の外部YouTubeチャンネル「鳥人間 中国史三昧」様が制作・公開されている解説動画です。

順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。

即位の経緯

唐昭宣帝(哀帝)から正式な禅位の御札・冊礼を受けて即位。

出典: 旧五代史 巻四(梁書・太祖紀四)

死因の経緯

実子・郢王友珪が父の左遷を機に反乱を決意。統軍韓勍と結び兵五百を率いて禁中に侵入、寝殿で対面したうえ配下の馮廷諤に命じて刺殺させた。

出典: 旧五代史 巻七(梁書・太祖紀七)

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

太祖は唐の臣下(宣武軍節度使・梁王等)であった期間は唐の年号(乾符・光啓・文徳・大順・景福・乾寧・光化・天復・天祐)をそのまま用いており、皇帝を称した907年以降にのみ独自の建元・改元を行った。この人物は「王等の身分での即位前在位期間」に自らの年号を建てた事例(2段階即位パターン)には該当しないため、【皇帝即位前】等の注記は付していない。在位中(907-912)に確認できる改元は即位時の開平建元と、開平五年から乾化元年への改元の計2回。

大赦回数

巻一〜七を通読して「赦」字を含む記述を全て確認した。開平元年十一月壬寅の「遂命尽赦逃亡背役髡黥之人、各許帰郷里」は逃亡・兵役忌避・入れ墨刑者等の特定対象に限定した恩赦で「大赦天下」の明記もないため対象外。乾化二年五月丁亥の「詔両京見禁囚徒大辟罪以下、逓減一等」も両京限定かつ既存死刑囚以下の減刑に留まり全国規模の大赦ではないため対象外とした。

立后回数

旧五代史巻一〜七(太祖紀一〜七、即位前の唐末期の事績から乾化二年の崩御まで)を通読したが、「立皇后」「册后」等、生前の皇后冊立を示す記述は一切見当たらない。開平元年四月の即位記事では四代祖先の追尊后号(宣僖皇后・光孝皇后・昭懿皇后・文惠皇后=いずれも祖先への追贈)のみが記され、太祖自身の配偶者を皇后に立てた記録はない。正室張氏(張惠)は即位前の天祐元年(904年)に没しており、本紀上でも皇后として言及されることはなかった。皇后不在のため0回。

皇太子廃立回数

巻七(梁書・太祖紀七)に「帝雖未以友文為太子、意常属之」(帝は友文をいまだ皇太子とはしなかったが、常にその意はあった)と明記されており、太祖は在位を通じて皇太子を正式に立てなかったことが史料上明らかである。皇太子が存在しない以上、その廃立も発生し得ず0回とした。

親征回数

旧五代史 太祖紀四〜六(開平二年・乾化元年)を通読し、「帝親統六軍」「翠華西狩」「親御六師」等、帝自身が軍を率いて戦場に赴いた記述を持つ遠征のみを計上した(将軍のみを派遣した多数の戦役は除外)。3件とも対等勢力・外国勢力(太原=晋、およびそれと結んだ鎮定の反乱勢力)に対する軍事行動であり、即位前(907年4月即位前)の挙兵・簒奪関連の遠征は含めていない。

反乱鎮圧回数

五代十国期の特則に従い、後梁本朝の統治機構下にある節度使・将軍による離反・武装蜂起(劉知俊=同州節度使、李洪一派=襄州、劉行瓊=蔡州指揮使、王熔・王処直=鎮州・定州節度使)のみを反乱として計上した。太原(晋)・呉(淮南)・岐(凤翔)等の対等な独立勢力との抗争(統一戦争・外征)は除外している(それらは personalCampaignCount 側で計上)。

被反乱回数

劉知俊・李洪(襄州)・劉行瓊(蔡州)・王熔+王処直の4件はrebellionSuppressionCountと同一の反乱群であり件数は一致する。5件目の朱友珪弑逆クーデターのみ、規定パターン4(朝廷内部の権力者による兵力を伴う弑逆・クーデターはrebellionSufferedCountにのみ計上し、鎮圧の主体が皇帝側でないためrebellionSuppressionCountには計上しない)に該当するため、rebellionSufferedCount側にのみ追加している。この結果、rebellionSuppressionCount=4、rebellionSufferedCount=5という意図的な非対称が生じている。

遷都回数

在位中に遷都1回(0909年 東都(開封)→西都(洛陽))。

即位時年齢・没年齢

旧五代史巻一(梁書・太祖紀一)冒頭に「以唐大中六年歳在壬申、十月二十一日夜、生於碭山県午溝里」と生年月日が明記(西暦換算:852年12月5日)。崩御日は巻七(太祖紀七)の「六月丁丑朔(一日)……戊寅(二日)、友珪易服微行入左龍虎軍……夜斬関入、至寝殿……友珪僕夫馮廷諤刺帝腹」の記事から乾化二年六月二日(戊寅)と特定でき、西暦換算912年7月18日(sxtwlで再検証済み、既存reigns.endDateと一致)。ただし即位時・崩御時の年齢を「時年◯◯」等の形で直接記す記述は太祖紀一〜七の範囲では見当たらなかったため、accessionAge・deathAgeはnullとした(既存データをそのまま再採用)。

在位中の出来事(17件)

改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。

改元907年6月1日開平元年四月十八日(戊辰)、唐哀帝からの禅譲を受け即位すると同時に、即位の制において「可改唐天祐四年為開平元年、国号大梁」と建元。

開平元年四月十八日(戊辰)、唐哀帝からの禅譲を受け即位すると同時に、即位の制において「可改唐天祐四年為開平元年、国号大梁」と建元。即位に伴う最初の建元。

出典: 旧五代史 巻三(梁書・太祖紀三)

親征908年4月4日〜908年5月14日太原(晋・李克用)/潞州奪回作戦

対象: 太原(晋・李克用)/潞州奪回作戦

結果: 潞州奪回ならず、招討使劉知俊の上奏を容れて東京へ撤兵。帝の撤退から約1か月後の同年五月、太原の援軍により潞州包囲そのものも失敗に終わった。

旧五代史 太祖紀五:開平二年三月壬申(朔)「帝親統六軍、巡幸澤・潞」、車駕西幸し澤州に至る。丙申(三月二十五日)「招討使劉知俊上章請車駕還東京」、帝がこれを容れ(達覧、帝俞其請)、四月丙午に澤州を発ち壬子(四月十二日)に東京へ帰着(西暦0908-04-04〜0908-05-14)。帝自身が六軍を統率して澤・潞へ親征した明記例。

親征908年10月6日〜908年11月15日太原(晋)/晋州・絳州救援

対象: 太原(晋)/晋州・絳州救援

結果: 太原軍が自ら陣営を焼いて撤退し、晋・絳の包囲を解く(成功)。帝は洛陽・陝州へ進み大軍の威を示した後、東都へ帰還。

旧五代史 太祖紀五:開平二年九月丙子「太原軍出陰地関南牧、寇掠郡県、晋・絳有備」、丁丑「翠華西狩」(0908-10-06出発)、達洛陽・宿新安・至陝州駐蹕。甲午「太原歩騎数万攻逼晋・絳、逾旬不克、知大軍至、乃自焚其寨、至夕而遁」。十月己亥、西都に至り、丁巳(0908-11-15)東都へ帰還。帝自ら西幸して太原軍を撃退させた親征。

遷都909年1月12日東都(開封) → 西都(洛陽)

『旧五代史』太祖紀五:開平三年正月戊辰朔、己巳「奉迁太庙四室神主赴西京」(太廟の神主を西京へ移す)、甲戌「发东都,百官扈从」(東都開封を出発)、己卯「备法驾、六军仪仗入西都。是日,御文明殿受朝贺」(西都洛陽へ盛儀入城、文明殿で朝賀を受く)。詔に「今属创开鸿业,初建洛阳」とあり、正式な洛陽遷都と確認できる。なお開平元年(907年建国時)の東都開封/西都洛陽の複都制設計自体は建国時の定都のため対象外とし、この開平三年正月の移転のみカウントする。(出典: 旧五代史 太祖紀五(開平三年正月))

大赦909年2月17日開平三年正月辛卯(正月戊辰朔の二十四日)、南郊にて昊天上帝を祀る郊祀礼を終えた後、「御五鳳楼、宣制大赦天下」と明記。

出典: 旧五代史 巻四(梁書・太祖紀四)

反乱鎮圧909年7月6日劉知俊の同州反乱

首謀者: 劉知俊

結果: 鎮圧成功

旧五代史 太祖紀五:開平三年六月庚戌(0909-07-06)「同州節度使劉知俊拠本郡反」、帝は爵位剥奪を命じ諸軍を発して討伐(活捉刘知俊者、赏钱一万贯文…等の懸賞も布告)。弟劉知浣は潼関で右龍虎軍十将張温らに擒えられた。「是月、知俊奔凤翔、同州平」と同月中に同州は奪還された(正確な奪還日の干支は原文に明記なし)。皇帝側(討伐軍)が鎮圧の主体。

被反乱909年7月6日劉知俊の同州反乱

首謀者: 劉知俊

結果: 鎮圧された(知俊は鳳翔=岐へ逃亡)

rebellionSuppressionCountと同一事件。詳細は同フィールドのnote参照。

反乱鎮圧909年8月〜909年10月襄州の反乱(留後王珏殺害・李洪拠城)

首謀者: 李洪(首謀・実行は小将王求)

結果: 鎮圧成功

旧五代史 太祖紀五:山南東道節度使留後の王珏が小将王求に殺害され(『珏、故河陽将、累以军功为郡守、主留事于襄阳、为小将王求所杀』)、李洪が襄州を占拠して叛いた(『左冯背叛』の詔勅・『襄阳叛将李洪』の記述)。開平三年八月、陳暉率いる官軍が襄州に至り李洪と交戦、王求は敗死。九月丁酉(0909-10-21)に襄州城を落とし、反乱兵千人余を斬り李洪・楊虔らを捕えて洛陽に送り処刑(『九月丁酉、拔其城、斩叛兵千人、执李洪、杨虔等送洛阳、斩之』)。反乱発生の正確な開始日は原文に明記されず、八月の官軍到着時点で既に進行中だったため、便宜上開始月を八月とした(月精度)。

被反乱909年8月〜909年10月襄州の反乱(留後王珏殺害・李洪拠城)

首謀者: 李洪(王求)

結果: 鎮圧された(首謀者処刑)

rebellionSuppressionCountと同一事件。詳細は同フィールドのnote参照。

反乱鎮圧910年11月鎮州・定州の反乱(太原=晋と結託)

首謀者: 王熔(鎮州)・王処直(定州)

結果: 未鎮圧のまま在位終了

旧五代史 太祖紀六:開平四年十一月、「時鎮州王熔・定州王処直叛、結連晋人、故遣将討之」とあり、宁国軍節度使王景仁を北面行営都招討使に任じて討伐軍を派遣(任命自体は乙巳=0910-12-23頃)。しかし翌年(開平五年=乾化元年)正月二日(0911-02-03)、王景仁の軍は晋軍・鎮定連合軍に柏郷で大敗(『果为后唐庄宗大败于柏乡』)。その後も乾化元年六月に楊師厚を派遣して討伐を継続し、同年九〜十一月には帝自らも親征(別途personalCampaignCountに計上)したが、晋・鎮定軍は決戦を避け、乾化二年六月の帝崩御まで反乱そのものは鎮定に至らなかった。皇帝側は討伐を試み続けたため鎮圧の主体ではあったが成功しなかった事例として計上。

被反乱910年11月鎮州・定州の反乱(太原=晋と結託)

首謀者: 王熔(鎮州)・王処直(定州)

結果: 未鎮圧のまま在位終了

rebellionSuppressionCountと同一事件。詳細は同フィールドのnote参照。

反乱鎮圧911年2月蔡州の反乱

首謀者: 劉行瓊

結果: 鎮圧成功

旧五代史 太祖紀六:乾化元年二月、蔡州刺史張慎思が京師に召還され後任未定のまま権力の空白が生じた際、右廂指揮使劉行瓊が「乗虚作乱、因縦火駆擁、為渡淮計」(淮南=呉への投降を企図した武装蜂起)。同じく蔡州の指揮使王存儼がこれを誅殺して鎮定(『存儼誅行瓊而抚遏其众』)。東京留守博王友文が独断で討伐軍を鄢陵まで進めたが、帝は既に鎮圧済みとして軍を戻させ、王存儼を正式に刺史に登用した。地方の政権側(在地指揮使)が鎮圧の主体であり、正確な蜂起・鎮圧の日付(干支)は原文に明記されないため月精度とした。

被反乱911年2月蔡州の反乱

首謀者: 劉行瓊

結果: 鎮圧された(首謀者誅殺)

rebellionSuppressionCountと同一事件。詳細は同フィールドのnote参照。

改元911年5月31日乾化元年五月甲申朔(一日)、「制:改開平五年為乾化元年、大赦天下」と明記。

乾化元年五月甲申朔(一日)、「制:改開平五年為乾化元年、大赦天下」と明記。開平から乾化への改元。

出典: 旧五代史 巻六(梁書・太祖紀六)

大赦911年5月31日乾化元年五月甲申朔(一日)、「改開平五年為乾化元年」の改元詔と同日に「大赦天下」と明記。

乾化元年五月甲申朔(一日)、「改開平五年為乾化元年」の改元詔と同日に「大赦天下」と明記。改元と同時発令の大赦。

出典: 旧五代史 巻六(梁書・太祖紀六)

親征911年10月14日〜911年12月5日鎮州王熔・定州王処直・太原(晋)連合軍

対象: 鎮州王熔・定州王処直・太原(晋)連合軍

結果: 晋・鎮定連合軍が出撃せず、決戦に至らぬまま帝は洛陽へ帰還。前年の柏郷での大敗(開平五年正月=911年)の雪辱は果たせなかった。

旧五代史 太祖紀六:乾化元年九月庚子「親御六師、次於河陽」(0911-10-14)、甲辰至衛州、丙午至相州、十月に魏県へ進駐し城東教場で楊師厚率いる十万の兵を大閲兵。十一月壬午「帝以辺事稍息、宣命還京師」(0911-11-25出発、《通鑑》は「晋・趙兵不出」と明記)、南還して壬辰(0911-12-05)晩に東都へ帰着。《通鑑》「帝以夾寨・柏郷屢失利、故力疾北巡、思一雪其恥」との明記あり、帝自身が親征した事例。

被反乱912年7月18日朱友珪による弑逆クーデター

首謀者: 郢王朱友珪(実子)・統軍韓勍

結果: 弑逆成功、帝は崩御し友珪が即位

旧五代史 太祖紀七:乾化二年六月丁丑朔(一日)、帝は友珪を莱州刺史に左遷しようとしたが(未行敕の段階)、友珪は左龍虎軍統軍韓勍と結び、戊寅(0912-07-18)に韓勍配下の牙兵五百人を率いて禁中に侵入。夜、寝殿に至り、友珪の僕夫馮廷諤が帝の腹を刺し崩御させた(『友珪仆夫冯廷谔刺帝腹、刃出于背』)。deathCause(暗殺)・reigns[].note(乾化2年6月2日実子朱友珪に殺害される)と内容が重複するが、規定により兵力を伴う内部クーデターとしてrebellionSufferedCountにも計上(ただし鎮圧の主体は皇帝側ではなく反乱者側=友珪であるため、rebellionSuppressionCountには計上しない)。友珪自身の簒奪・即位前の挙兵行為はaccessionRoute領域に属し、この弑逆行為そのものは太祖の在位期間中(崩御の瞬間)に発生した被反乱事象として区別する。

収録基準・各項目の数え方・出典はこのサイトについてを、時代の中での位置は通史年表をご覧ください。