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太祖の肖像画

後梁・五代十国第1代

太祖朱全忠

在位 907–912年(5年47日)907年6月1日 〜 912年7月18日

日本は平安時代

黄巣の軍から唐に降って力を蓄え、唐の禅りを受けて後梁を開いた皇帝である。

太祖の人物データ

生年
852年12月5日
在位
  • 907年6月1日〜912年7月18日
5年47日長い順186位/365人即位の年齢は不詳
没年
912年7月18日年齢不詳
死因
同じ死因92人/365人
即位経路
(易姓)
先代
  • 哀帝唐太祖と哀帝に血縁はない
次代
  • 朱友珪後梁・五代十国朱友珪は太祖の子
呼び名
姓朱諱全忠呼び名の見方
目立つ記録
  • 遷都 1回多い順同率9位

出典

在位
旧五代史 巻三 梁書・太祖紀三(即位)/旧五代史 巻十 梁書・太祖紀七(崩御)/参照:新五代史 巻二 梁本紀二
死因
旧五代史 巻七(梁書・太祖紀七)
即位経路
旧五代史 巻三(梁書・太祖紀三)

生涯

どんな皇帝か

欧陽脩は新五代史で、盗賊から起こって唐を滅ぼした梁の悪を極まりないとしつつ、豪傑が起っても梁の鋒を少しも挫けなかった虎狼の強さを認めた。

即位まで

宋州の人で、兄とともに黄巣の軍に入ったが、882年に黄巣のを斬って河中の王重栄に降り、僖宗から全忠の名を賜った。となって迎えた母に、及第しなかった父と違い子は節度使になったと誇ると、黄巣の軍で死んだ兄の遺児を思わないのかと咎められ、泣いて謝った。妻の張氏は賢く、剛暴な朱全忠も畏れた。長子の友裕を斬ろうとしたときは、張氏が裸足で庭に走り出て友裕を抱いて泣き、怒りを解いた。904年、朱全忠は朱友恭らに昭宗を弑させた。905年には、柳璨の讒言で貶された裴枢ら唐の大臣とを白馬駅に集めて一夜に殺し、屍を黄河に投げた。907年、唐の禅りを受けて即位し、国号を梁とした。翌年、廃された唐の哀帝を殺した。

史料について

旧五代史の太祖紀は、昭宗が弑されたとだけ書いて下手人を記さず、同書の朱友恭伝は朱全忠のによるとする。白馬駅の件を、新五代史の唐六臣伝は906年に置き、柳璨が梁王の意を迎えて7人に死を賜ったとする。

治世と最期

長兄の全昱は宮中の博打で酔い、お前は一なのに唐三百年のを滅ぼした、お前の一族が族滅されるのを見ることになると叫んだ。河東の李存勗と争い、梁軍は908年に潞州で、911年に柏郷で敗れた。

張氏が死んでから荒淫になり、継室を立てずに諸子の妻を召して侍らせ、養子の友文の妻王氏を特に寵した。912年、病が重くなると、わしが死ねば子らは太原の相手にならないと嘆いた。

子の友珪は、莱州に出されると知って恐れ、の韓勍のとともに夜に寝殿に入り、配下の馮廷諤が朱全忠の腹を刺した。友珪は喪を秘し、のちに喪を発して即位した。

史料について

病床の言葉と寝殿の場面は旧五代史が引く資治通鑑にあり、新五代史の家人伝も馮廷諤が刺したとする。新五代史のは友珪の反と皇帝の死を並べて書くだけで、旧五代史の末帝紀はと書く。

太祖とつながる皇帝

五代十国の勢力図(907年)

勢力図

五代十国の勢力図で見る

907–912年の地図に、太祖が治めた国が描かれています。

在位中の出来事

反乱5・遷都1・親征3・改元2・大赦2
  1. 改元907年6月5日元号を「開平」とする
  2. 908年太原(晋・李克用)/潞州奪回作戦
  3. 908年太原(晋)/晋州・絳州救援
  4. 909年
  5. 反乱909年劉知俊の同州反乱
  6. 反乱909年襄州の反乱(留後王珏殺害・李洪拠城)
  7. 遷都909年東都(開封) → 西都(洛陽)
  8. 反乱910年鎮州・定州の反乱(太原=晋と結託)
  9. 改元911年元号を「乾化」とする
  10. 911年
  11. 911年鎮州王熔・定州王処直・太原(晋)連合軍
  12. 反乱911年蔡州の反乱
  13. 反乱912年7月18日朱友珪による弑逆クーデター

後梁・五代十国の歴代皇帝

歴代2人の一覧

年表

五代十国の時代を年表で見る

後梁・五代十国が中国史のどこにあたるか、同じ時代の王朝と前後の時代を並べて見られます。

即位経路が「受禅(易姓)」の18名をデータベースで見る

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