李希烈
楚・唐|在位 784–786年
- 諱(本名)
- 李希烈
- 在位
- 784–786年
- 在位期間
- 2年103日365名中251位
- 即位経路
- 建国
- 死因
- 暗殺
- 即位時年齢
- 不詳
- 没年齢
- 不詳
- 改元
- 1回332名中142位タイ
- 大赦
- 0回
- 立后
- 0回
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 0回
- 被反乱
- 0回
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
建中3年冬、4藩鎮が相次いで王を僭称した際、李希烈も「建興王・天下都元帥」を自称。興元元年正月、汴州占領後「僭即皇帝位、國號楚」と正式に皇帝を称した。唐の一節度使からの自立的建国。
出典: 新唐書 巻二百二十五中
死因の経緯
牛肉を食べて発病した際、腹心の部将陳仙奇が医師に命じて毒を盛らせ死に至らしめた。陳仙奇はその後唐に投降し淮西節度使に任命されており、投降を前提とした計画的暗殺。
出典: 旧唐書 巻百四十五/新唐書 巻二百二十五中(逆臣中)
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
旧唐書巻一百四十五『既入汴州,於是僭号曰武成』、新唐書巻二百二十五中『希烈已據汴,僭即皇帝位,国号楚,建元武成』、資治通鑑(貞元元年頃の条)『希烈遂即皇帝位,国号大楚,改元武成』のいずれも一致し、在位中の建元は『武成』の一度のみ。貞元二年四月に部将陳仙奇により毒殺されるまで元号の変更は確認されない。
大赦回数
李希烈自身による『大赦』『大赦天下』の記録は旧唐書巻一百四十五・新唐書巻二百二十五中のいずれにも確認できない。貞元元年頃に陳少游・張建封に送った『偽赦書二道』(旧唐書『遣将楊丰賫偽赦書二道,令送少游及建封』/新唐書『希烈僭号,遣将楊丰賫偽赦令送少游』)は、寿州刺史張建封らに投降・帰順を促すため特定の相手に送付された赦免文書であり、全国規模の大赦とは性質が異なるため大赦回数には計上しない。
立后回数
李希烈の『楚』政権において皇后を立てた記録は旧唐書・新唐書のいずれにも見当たらない。列伝には宰相・侍中・中書令等の百官設置の記述(張鸞子・李綬・李元平・鄭賁・孫広ら)はあるが、后妃冊立に関する言及はなし。
皇太子廃立回数
李希烈の『楚』政権において皇太子(皇太弟・皇太孫等を含む)を立てた記録が旧唐書・新唐書のいずれにも見当たらず、当然その廃立の記録もない。列伝に見える『太子太師』『太子太保』はいずれも顔真卿・陳仙奇に対する唐朝の官号であり、李希烈政権の皇太子とは無関係。
親征回数
興元元年正月(784年)の皇帝即位・楚建国後、汴州から東方への遣兵(至寧陵で刘洽に阻まれる)、陳州への遣将翟晖による攻撃はいずれも『遣兵』『遣将』であり本人が出陣した記録ではない。その後は唐軍(刘洽・李皋・樊泽・曲环・张建封等)の反撃を受けて蔡州へ『遁帰』(敗走)するのみで、即位後に希烈自身が軍を率いて出征した記録は旧唐書巻九十五に見当たらない。なお即位前の建中四年(783年)、希烈自ら二万の兵を率いて襄城を包囲した記事(『希烈率众二万围襄城』)があるが、これは楚建国(興元元年正月784)・皇帝即位以前の出来事であり、reigns配列の在位期間(784-786)にも含まれないため本カウントの対象外とした。
反乱鎮圧回数
興元元年正月(784年)の即位後、楚政権内部の勢力による離反・蜂起を希烈側が鎮圧したとする記録は旧唐書巻九十五に見当たらない。即位後の軍事行動(遣兵至寧陵・遣将翟晖袭陈州)はいずれも唐朝廷側の失地回復に対する反撃であり、服属民の反乱鎮圧には該当しない。なお即位前の建中四年(783年)、希烈配下の周曾・王玢・姚憺らが蔡州を襲って希烈打倒を謀った事件があるが、『事泄、并遇害』(計画が発覚し関係者が誅殺された)とあり、実際の挙兵に至らず密告・摘発のみで終わった謀反計画のため、鎮圧回数には含めない基準に合致する(かつ即位前の出来事でもある)。
被反乱回数
興元元年正月(784年)の即位後、楚政権内部からの武力反抗(部将・将領の挙兵による反乱)を示す記録は旧唐書巻九十五に見当たらない。唐側(刘洽・李皋・樊泽・曲环・张建封等)による討伐は既に自立していた希烈の楚政権に対する唐朝廷側からの再征服戦争であり、希烈自身の政権に対する内部からの反乱には該当しないため計上しない。貞元2年(786年)、部将陳仙奇による毒殺(牛肉を食した際に医者に毒を盛らせた)は既存のdeathCauseで『暗殺』として記録済みだが、兵力を用いた武装クーデターではなく組織的な兵力行使を伴わない毒殺であるため、朝廷内部権力者による『兵力を伴う弑逆』の例外パターンには該当せず、被反乱回数には含めない。
遷都回数
旧唐書・新唐書逆臣伝を通読。いずれも占領した都市(長安/汴州/長安)に在位中を通じて留まり続け、正式な遷都の記録なし。
即位時年齢・没年齢
旧唐書巻百四十五(列伝第九十五)李希烈伝を通読したが、生年・即位時年齢・享年(「時年」「年◯◯」等)の直接記載は見当たらなかった。父の名(大定)や出自(辽西人)の記載はあるが没年齢の言及なし。調査済みだが不明。
在位中の出来事(1件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
改元日付不詳汴州を占拠した李希烈が皇帝を称し(国号「楚」)、元号を「武成」と建元。
汴州を占拠した李希烈が皇帝を称し(国号「楚」)、元号を「武成」と建元。皇帝即位と同時の建元であるため【皇帝即位(改元同時)】に相当する。なお即位前の建中四年(783年)末、朱滔ら四鎮が僭称王号した際に李希烈も『建兴王・天下都元帅』を自称しているが(【皇帝即位前】の段階)、この時点では独自の年号は建てておらず、改元行為は伴っていないためeraChangeCountには含めない。在位中(785~786年)に再度の改元があったことを示す記録もない。
出典: 新唐書 卷二百二十五中(逆臣中)