李希烈は遼西の人で、淮西を握って唐に背き、汴州で皇帝を称して楚を立てたが、部将に毒殺された人物である。
李希烈の人物データ
- 生年
- 不詳
- 在位
- 784年2月〜786年5月9日
- 没年
- 786年5月9日年齢不詳
- 死因
- 暗殺同じ政権の中の家臣・皇族・宦官などに殺された死。毒殺も含む。非業の死このサイトでは、暗殺・処刑・戦死・自害の4つをまとめて非業の死と呼んでいる。同じ死因92人/365人
- 即位経路
- 自立先の君主から位を受けず、自ら皇帝を名乗った即位。帝号を新たに称した先の君主から皇帝の号を継いだのではなく、自分の代で新たに皇帝を名乗った(王などの位から皇帝になった場合を含む)。
- 先代
- —
- 次代
- —
- 呼び名
- 姓李諱希烈呼び名の見方
出典
- 在位
- 資治通鑑 唐紀四十六(徳宗紀・
興元元年正月「希烈遂即皇帝位」/貞元二年四月丙寅「希烈伏誅」)/新唐書 本紀第七 徳宗(貞元二年「四月丙寅、希烈伏誅」)/旧唐書 列傳 李希烈傳(第九十五章、僭号・ 毒殺の経緯) - 死因
- 旧唐書 巻百四十五/新唐書 巻二百二十五中(逆臣中)
- 即位経路
- 新唐書 巻二百二十五中
生涯
どんな皇帝か
旧唐書は希烈の性を惨毒とし、戦陣で人を殺して血が前に流れても平然と談笑し飲食したと記す。
即位まで
遼西の人で、騎射を善くして衆に慕われた。779年、丁皓らと張恵光父子を斬り、主将の李忠臣を逐って淮西を握った。782年、李正己の討伐を命じられながら李納とひそかに通じ、朱滔らが王を称すると、希烈も建興王・天下都元帥を称した。783年、汝州で捕らえた小柄な李元平を見て、元平の子を連れて来たのかと戯れたが、のちには宰相に用いた。使いに来た顔真卿に養子らが刃を向けると、身をもってかばったが、のちに拘禁し、庭に穴を掘って生き埋めにすると脅した。部将の周曾らに毒を盛られても死なず、養子の知らせで周曾を殺させた。徳宗が奉天へ逃れたその日、襄城で哥舒曜の軍を大破し、続いて汴州を落とした。汴州攻めでは土木の完成が遅いと怒り、民を人ごと埋めた。戦陣で人を殺して血が前に流れても、平然と談笑し飲食した。
史料について
穴の件で、資治通鑑は、真卿が一剣を賜れと言うと希烈は謝したとし、両唐書の顔真卿伝は書かない。
治世と最期
784年、王武俊らが赦令を見て王号を去ったのに、希烈だけは兵と財を恃んで称帝皇帝を名乗ることを謀り、顔真卿に儀礼を問わせた。真卿は諸侯が天子に朝する礼しか知らないと答えた。汴州で皇帝位に即いて武成と建元元号を新しく立てること。またその名の元号し、国号を楚とした。弟の希倩が朱泚の党として誅されると、怒って真卿を殺させた。
786年、牛肉を食べて病み、部将の陳仙奇が医に毒を盛らせて殺した。汴州で奪った寵姫の竇氏は、希烈の秘謀を仙奇の妻に伝えていた。希烈の死後、子は喪を伏せて諸将を殺し自立しようとしたが、乱入した仙奇らに、帝号皇帝という称号を去りたいと願い出たところで斬られた。
史料について
真卿に儀礼を問うたのを、両唐書の顔真卿伝は称帝の後に置く。国号を、資治通鑑は大楚とし、旧唐書は記さない。竇氏と子の最期の話は新唐書にある。
李希烈とつながる皇帝

勢力図
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784–785年の地図に、李希烈が治めた国が描かれています。
在位中の出来事
改元1
- 改元784年2月元号を「武成」とする
年表
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楚・