中国皇帝統計

朱泚

秦・漢(唐)|在位 783–784年

諱(本名)
朱泚
在位
783–784年
在位期間
245日365名中311位
即位経路
建国
死因
暗殺
即位時年齢
不詳
没年齢
43歳(数え年)269名中・長寿順116位タイ
改元
2332名中78位タイ
大赦
0
立后
0
皇太子廃立
0
親征
1112名中62位タイ
反乱鎮圧
0
被反乱
1289名中203位タイ
遷都
0

順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。

即位の経緯

涇原兵変で統率者を失った叛乱兵に迎えられ「稱太尉」にとどまっていたが、源休らの勧めで即位の意志を固め、宣政殿にて「僭即偽位、自稱大秦皇帝」。唐から独立した新政権樹立のため建国。

出典: 旧唐書 巻二百上

死因の経緯

長安収復後、涇州入城を拒まれ寧州彭原県への逃走中、腹心だった硃惟孝が梁庭芬とともに泚を射た。逃げて古い窖に転落したところを部将(韓旻・薛綸ら)が共同で斬殺。同一政権内部者(元の腹心・部将)による殺害のため暗殺。

出典: 旧唐書 巻二百上(硃泚伝)

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

旧唐書列傳(「…八日…僭即偽位、自稱大秦皇帝、號應天元年」「明年正月一日、泚改偽國號曰漢、稱天皇元年」)に明記。新唐書列傳第一百五十下(逆臣下)にも「泚僭即皇帝位於宣政殿、號大秦、建元應天」「興元元年、泚以本封遂寧、漢地也、更號漢、改元天皇」と同内容が記され、資治通鑑(「硃泚自白華殿入宣政殿、自稱大秦皇帝、改元應天」癸丑の条)とも整合。硃泚は一貫して皇帝を自称した期間内での改元であり、王・天王等の身分を経る二段階即位パターンには該当しない。

大赦回数

旧唐書巻百五十(硃泚傳)・新唐書列傳第一百五十下(逆臣下)とも硃泚政権による「大赦」「大赦天下」の記載なし。新唐書には「奉天所下赦令、凡受賊偽官者、破賊日悉貸不問」とあるが、これは奉天に逃れた徳宗(唐朝廷)側が発した赦令であり、硃泚自身による大赦ではないため対象外。

立后回数

旧唐書・新唐書の硃泚傳ともに皇后冊立の記載は一切ない。建中4年10月8日の僭位から興元元年6月の死去まで8ヶ月足らずの短い在位で、奉天包囲戦などの軍事行動に終始しており、立后の記録も伝わらない。

皇太子廃立回数

即位直後(建中4年10月8日)の官職除授の記事中で、旧唐書は「仍以其兄子遂為太子、遥封弟滔為冀王…寻又号皇太弟」、新唐書は「以兄子遂為太子、以滔為冀王・太尉・尚書令、号皇太弟」とし、兄の子・硃遂を皇太子に、弟・硃滔を(遠地から)皇太弟に、ほぼ同時に立てたことを記す。両者いずれかを正式に廃したとする記載はない。資治通鑑は硃遂の立太子には触れず「立弟滔為皇太弟」とのみ記すが、これも廃立の記述ではなく単なる省略と判断される。よって皇太子廃立の事実は確認できず0回とする。

親征回数

旧唐書巻二百上(硃泚伝)を通読。即位(建中4年10月8日)後、皇帝自身が軍を率いた事例は奉天包囲戦の1回のみ。以後の武功侵攻(韓旻・宋帰朝・張庭芝ら)・藍田侵攻(仇敬忠)はいずれも「泚使~」と将軍への派遣であり泚自身は出陣していないため親征に含めない。

反乱鎮圧回数

旧唐書巻二百上(硃泚伝)を通読。即位期間中(建中4年10月8日~興元元年6月)に泚政権内部で武装蜂起が起き、それを泚側が鎮圧した事例は確認できなかった。即位直前(10月6日)の段秀実・劉海賓による匕首を用いた襲撃は、組織的な兵力を伴わない単独犯行の暗殺未遂であり、かつ泚がまだ皇帝を称する前(在位開始前)の出来事であるため対象外とした。

被反乱回数

deathCauseと同一事象を別軸で計上。皇帝の統治権を奪うクーデター4類型(朝廷内部の権力者による兵力を伴う弑逆)に該当すると判断した。

遷都回数

旧唐書・新唐書逆臣伝を通読。いずれも占領した都市(長安/汴州/長安)に在位中を通じて留まり続け、正式な遷都の記録なし。

即位時年齢・没年齢

旧唐書列傳末尾「泚死時年四十三」、新唐書列傳末尾「泚死年四十三」の記載により没年齢43歳と判明(既存データを再確認・変更なし)。生年月日の直接記載はなく、即位時年齢を示す記述も原典(旧唐書巻二百上・本調査で再読)に見当たらないため即位時年齢は不明のまま。

在位中の出来事(4件)

改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。

改元783年10月8日建中4年10月8日、姚令言・源休・李忠臣・張光晟らに擁立され白華殿から宣政殿に入り即皇帝位。

建中4年10月8日、姚令言・源休・李忠臣・張光晟らに擁立され白華殿から宣政殿に入り即皇帝位。国号を「大秦」、元号を「応天」と建元。皇帝即位に伴う最初の建元(皇帝即位と同時の改元)。

出典: 旧唐書 巻二百上

親征783年10月10日〜783年11月30日奉天(唐徳宗の避難先)

対象: 奉天(唐徳宗の避難先)

結果: 唐徳宗が逃れた奉天城を自ら率兵して包囲・攻城したが陥落させられず、李懐光の援軍到着を受けて包囲を解いて長安へ敗走した

旧唐書「十日、泚自領兵侵逼奉天」「泚衆惶駭、因而大潰、長囲遂解焉」「三十日夜、泚走至京城」に基づく。雲梯攻城戦(15日)・杜希全との漠谷での交戦(11月3日)等を含む一連の包囲戦として1回とカウント。

改元784年1月1日興元元年正月一日(皇帝在位中)、本封の遂寧が漢地であったことにちなみ国号を「大秦」から「漢」に改め、元号を「応天」から「天皇」に改元。

出典: 旧唐書 巻二百上

被反乱784年6月彭原県での部将反乱・弑逆

首謀者: 梁庭芬・硃惟孝・韓旻・薛綸ら(泚の旧腹心・部将)

結果: 長安収復後、逃走中の泚を心腹だった硃惟孝が梁庭芬とともに射て負傷させ、旧窖に転落したところを韓旻・薛綸ら部将が共同で斬殺し、その首を朝廷に献上した。政権は崩壊。

旧唐書「泚将梁庭芬入涇州説田希鑑…復与泚心腹硃惟孝共射泚。泚走、墜故窖中。泚左右韓旻・薛綸・高幽嵓・武震・硃進卿・董希芝共斬泚、使宋膺傳首以獻。泚死時年四十三」に基づく。かつて泚の腹心・部将だった者たちが兵力(複数の武装した部将)を伴い泚を弑逆した事例であり、鎮圧の主体は泚側ではなく反乱者側のためrebellionSuppressionCountには計上しない。

収録基準・各項目の数え方・出典はこのサイトについてを、時代の中での位置は通史年表をご覧ください。