朱泚は幽州の人で、783年に涇原の叛卒に迎えられて長安で皇帝を称し、翌年部下に斬られた人物である。
朱泚の人物データ
- 生年
- 不詳年齢は
史書に 記された 年齢から 数えた - 在位
- 783年11月7日〜784年7月
- 没年
- 784年7月43歳(数え年)長生き順同率115位/266人
- 死因
- 暗殺同じ政権の中の家臣・皇族・宦官などに殺された死。毒殺も含む。非業の死このサイトでは、暗殺・処刑・戦死・自害の4つをまとめて非業の死と呼んでいる。同じ死因92人/365人
- 即位経路
- 自立先の君主から位を受けず、自ら皇帝を名乗った即位。帝号を新たに称した先の君主から皇帝の号を継いだのではなく、自分の代で新たに皇帝を名乗った(王などの位から皇帝になった場合を含む)。
- 先代
- —
- 次代
- —
- 呼び名
- 姓朱諱泚呼び名の見方
出典
- 在位
- 旧唐書 巻二百下 列傳第一百五十下 朱泚傳/旧唐書 本紀第十二 徳宗上/資治通鑑 巻二百二十八・
二百三十一(唐紀四十四・ 四十七) - 死因
- 旧唐書 巻二百上(硃泚伝)
- 即位経路
- 旧唐書 巻二百上
生涯
どんな皇帝か
旧唐書の列伝は、体が大きく腰帯は十囲で騎射は人並み、外は寛和に見えて内はすこぶる残忍だったと評する。同じ列伝は、財を軽んじ賞を配下に分けて人望を得たことを、凶謀を遂げた所以とする。
即位まで
幽州昌平の人で、体が大きく腰帯は十囲あったが、騎射は人並みだった。財を軽んじ、戦で得た褒美を配下に分けて人望を得た。772年、幽州節度使地方の軍と政治をにぎった長官の朱希彩が殺されると、弟の朱滔がひそかに百余人に朱副使でなければと叫ばせ、衆は朱泚を推した。朱滔が叛こうとして送った密書が見つかると、朱泚は頓首して罪を乞い、徳宗は責めなかったが、のちに鳳翔の任を張鎰に代え、官はそのままに京師に留めた。783年、涇原の兵が叛いて徳宗が奉天へ逃げると、叛卒は、権を失って不満を抱くとみた朱泚を主に立て、朱泚は太尉朝廷で最も位の高い大臣の一つを称した。源休に符命天が人に位を授けるしるしとされたものを説かれて僭号資格がないのに勝手に君主の称号や国号を名乗ることを勧められると、大いに悦んだ。段秀実が源休の象笏を奪って朱泚を撃ち、顔に傷を負わせたが、秀実は殺された。
史料について
段秀実の場面を、資治通鑑は、朱泚が義士だから殺すなと止めたのに衆が殺し、朱泚は哭して葬ったとする。旧唐書の伝は、逆徒が騒ぎ集まって殺したとだけ書く。
治世と最期
朱泚は宣政殿で即位して大秦皇帝を称し、応天と改元元号(年の呼び名)を新しいものに改めることした。自ら兵を率いて奉天に迫り、渾瑊らに大敗しても囲みを続けたが、李懐光が来援すると軍は潰えた。
自邸を潜龍宮と号して内庫の宝物を移したが、百姓ふつうの民、庶民に奪われても止められなかった。784年、国号を漢と改め、天皇と改元した。行在皇帝が旅先や避難先で滞在している所に従った兵の家族の給付を止めよと言われると退け、住民から厚く取り立てた。唐の宗廟君主や王家が祖先をまつるところと陵墓を残すなと言われると、かつて唐に仕えたと拒んだ。李懐光には兄として仕え、関中を平らげたら隣国となろうと約しながら、懐光が叛くと臣下として扱い、恥じた懐光は河中へ去った。
官軍が京師を取り戻すと西へ走り、涇州では田希鑑に拒まれた。彭原で部将に射られて古い穴に落ち、側近の韓旻らに斬られた。
史料について
即位と国号は列伝と資治通鑑にあり、両唐書の本紀皇帝ごとの出来事を年代順に書いた記録やその部分は書かない。射た者を、両唐書の伝は梁庭芬と朱惟孝とし、資治通鑑は梁庭芬だけを挙げる。
朱泚とつながる皇帝

勢力図
唐の勢力図で見る
783年の地図に、朱泚が治めた国が描かれています。
在位中の出来事
反乱1・親征1・改元2
- 改元783年11月7日元号を「応天」とする
- 親征皇帝が自ら軍を率いて戦場に出ること。783年11月9日〜783年12月28日奉天(唐徳宗の避難先)
- 改元784年1月27日元号を「天皇」とする
- 反乱784年7月彭原県での部将反乱・
弑逆
年表
唐の時代を年表で見る
秦・