史朝義
燕(唐)|在位 761–763年
- 諱(本名)
- 史朝義
- 在位
- 761–763年
- 在位期間
- 1年305日365名中271位
- 即位経路
- 簒奪
- 死因
- 自尽
- 即位時年齢
- 不詳
- 没年齢
- 不詳
- 改元
- 1回332名中142位タイ
- 大赦
- 0回
- 立后
- 0回
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 1回112名中62位タイ
- 反乱鎮圧
- 0回
- 被反乱
- 1回289名中203位タイ
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
史思明が朝義を折檻・処刑しようとした矢先、配下の駱悦らが挙兵を提案。朝義は当初応答しなかったが説得され同意、思明が縊殺された直後に即位。父を配下に殺害させた上での即位であり、消極的とはいえ弑逆を容認・追認した簒奪と判定。
出典: 新唐書 巻二百二十五上(逆臣上)
死因の経緯
諸節度に転戦を拒否され続け、両蕃への亡命も拒絶された末、旧部下・李懐仙に招かれて医巫閭祠にて自ら首を吊った。李懐仙はその首級を切って長安に伝えたが遺骸を弔っている。実行行為自体は自らの手による縊死のため、追い詰められた末の自害として自尽と判定(旧唐書は「生擒之」ともとれる簡略な記述だが、経緯を具体的に記す新唐書を優先)。
出典: 新唐書 巻二百二十五上(逆臣上)/旧唐書 巻二百上(逆臣上)
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
即位と同時の建元のみで、在位中の追加改元は旧唐書列伝第一百五十・新唐書列伝第一百五十上・資治通鑑巻二百二十二のいずれにも見られない。旧唐書は「朝義便僭偽位」とのみ記し日付・元号名を明記しないため、元号名は新唐書・資治通鑑(いずれも「改元顕聖」と明記)に、正確な即位日は資治通鑑の干支記述に基づき既存レコードのstartDateと整合させた。
大赦回数
史朝義の在位期間(761年3月〜763年1月頃)を記す旧唐書列伝第一百五十・新唐書列伝第一百五十上・資治通鑑巻二百二十二を通読したが、朝義自身が発した「大赦」「大赦天下」等の記載は見当たらなかった。在位が2年弱と短く、即位直後から洛陽陥落に至るまでほぼ全期間が敗走・防戦に費やされているため、そもそも大赦を布告する余裕がなかった可能性が高い。列伝記述が簡略なため確度はmediumとした。
立后回数
旧唐書列伝第一百五十・新唐書列伝第一百五十上・資治通鑑巻二百二十二の朝義在位期間の記述を通読したが、朝義自身による立后の記載は見当たらなかった。父・史思明は自ら皇帝を称した際に妻・辛氏を皇后に立てているが(資治通鑑「史思明自称大燕皇帝、改元順天、立其妻辛氏為皇后」)、これは思明自身の代の出来事であり朝義の立后ではない。
皇太子廃立回数
資治通鑑巻二百二十二によれば、史思明は末子・朝清を溺愛し「常に朝義を殺して朝清を皇太子に立てんと欲す」とあるが、この謀は事前に漏れ実行されぬまま思明が朝義配下(駱悦ら)に殺害されたため、朝清が正式に皇太子として冊立された事実は確認できなかった(『欲…立朝清為太子』という未遂の記述にとどまる)。朝義は即位直後に朝清とその母・辛氏らを范陽で殺害させているが(資治通鑑「密使人至范陽、敕散騎常侍張通儒等殺朝清及朝清母辛氏」)、これは対抗しうる異母弟一族の粛清であり、正式に立てられていた皇太子を廃した事例には該当しないと判断した。なお旧唐書列伝第一百五十は同一人物とみられる者を「偽太子朝英」と呼び、あたかも冊立済みであったかのような表現をしており(新旧両書で「朝清」「朝英」と表記揺れがあるが同一人物と見られる)、史料間で評価が割れる点に留意。経緯をより具体的に記す資治通鑑の記述を優先しcount 0としたが、確度はmediumとした。
親征回数
在位期間(761〜763年)中に朝義自身が軍を率いて戦場に赴いた記録は、旧唐書列伝第一百五十が記す762年10月の邙山の戦いのみ確認できた。即位前(父・史思明時代)の軍事行動は本カウントの対象期間外として除外した。
反乱鎮圧回数
旧唐書列伝第一百五十の朝義在位期間(761〜763年)の記述を通読したが、朝義側(政権側)が主体となって独立した反乱を鎮圧した事例は確認できなかった。即位直後、異母弟で思明生前に皇太子に擬されていた朝英を范陽で殺害させた際、留守・張通儒が事態を察知し城中で数日間交戦・数千人が死亡する事態となったが(『使人往范陽、殺偽太子朝英等。偽留守張通儒覚之、戦於城中』)、これは朝義自身が先制的に刺客を送り攻撃を仕掛けた事案であり、朝英側がまだ武装反乱を起こしていない段階での一方的攻撃であるため、判定基準(皇帝自身が攻撃の主体だった場合は反乱不成立として鎮圧・被反乱いずれからも除外)によりcountに含めなかった。
被反乱回数
上記李懐仙による捕縛・離反事件(763年正月)のみを1件として計上した。それ以前の宝応元年10月の邙山における唐軍(副元帥雍王ら官軍)との戦闘は、朝義の燕政権にとって服属関係にない唐中央政権との対等な抗争(統一戦争)にあたるため、被反乱の対象には含めていない(本プロンプト『対象政権について』の除外基準に従う)。
遷都回数
旧唐書逆臣伝を通読。父・史思明が定めた范陽がそのまま都で、追加の遷都記録なし。
即位時年齢・没年齢
指定された旧唐書列伝第一百五十(巻二百上・逆臣伝)を通読したが、史朝義の生年・即位時年齢・崩御時年齢について「時年◯◯」「年◯◯」「享年◯◯」等の直接記載は見当たらなかった。既存レコードのdeathCause.note/accessionRoute.noteにも年齢の直接記載は含まれていない。父・安禄山系統の史料と異なり本章の朝義に関する記述は簡略であり、これ以上の関連列伝への探索は指示に基づき行わなかった。調査済みだが年齢不明として確定する。
在位中の出来事(3件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
改元761年3月14日上元二年三月、配下の駱悦らに父・史思明を殺害させた直後に皇帝に即位し、同時に建元して元号を「顕聖」とした(即位と改元が同時。
上元二年三月、配下の駱悦らに父・史思明を殺害させた直後に皇帝に即位し、同時に建元して元号を「顕聖」とした(即位と改元が同時。既存レコードの即位日startDate=0761-03-14に対応)。以後、763年正月頃の崩御まで在位中を通じて「顕聖」のみが使用され、他の改元は確認できなかった。
出典: 資治通鑑 巻二百二十二(唐紀三十八)「朝義即皇帝位、改元顕聖」
被反乱763年李懐仙の離反・莫州における朝義捕縛事件
首謀者: 李懐仙(范陽節度、朝義配下の旧部将)
結果: 捕らえられた末に死亡(旧唐書は『生擒之』と記し武力による捕縛を示唆、既存deathCause.noteが優先する新唐書は李懐仙に招かれ医巫閭祠で自ら縊死したとする。李懐仙はその首級を唐に献上し降伏した)。燕政権は事実上ここで滅亡した。
旧唐書列伝第一百五十『二年正月、賊偽范陽節度李懐仙於莫州生擒之、送款来降、枭首至闕下』。李懐仙は朝義配下の范陽節度使でありながら、唐軍の攻勢を受け朝義が幽州方面へ敗走した際にこれを捕らえ、唐に投降・献首した。朝廷(燕政権)内部の軍事権力者による武力を伴う離反・弑逆に該当するとみなし、判定基準4(内部権力者による兵力を伴う弑逆・クーデター)に基づきrebellionSufferedCountに計上した。ただし鎮圧の主体は朝義側ではなく離反した李懐仙側であるため、rebellionSuppressionCountには計上していない。旧唐書『生擒之』と新唐書系の自縊記述(既存deathCause.note参照)とで死亡経緯の記述に相違があるため確度はmediumとした。
親征日付不詳唐(副元帥雍王・僕固懐恩・回紇連合軍ら官軍)
対象: 唐(副元帥雍王・僕固懐恩・回紇連合軍ら官軍)
結果: 邙山の戦いで大敗、洛陽から汴州経由で幽州方面へ敗走
旧唐書列伝第一百五十に『二十九日、与朝義戦於邙山之下。逆賊敗績、走渡河……朝義走投汴州』とあり、朝義自身が邙山の戦闘に臨み、敗走したことが明記されている。唐側は雍王を元帥とし僕固懐恩・回紇兵らを率いて陝州方面から進軍、朝義軍は大敗し洛陽を放棄、汴州・幽州方面へ逃走した。この一連の防衛戦・敗走を1回の親征としてカウントした。