中国皇帝統計

曹芳

魏(三国)|在位 239–254年

曹芳の肖像
諱(本名)
曹芳
在位
239–254年
在位期間
15年272日365名中80位
即位経路
世襲
死因
不詳
即位時年齢
8歳(数え年)172名中・若い順16位タイ
没年齢
43歳(数え年)269名中・長寿順116位タイ
改元
2332名中78位タイ
大赦
9267名中47位タイ
立后
3204名中5位タイ
皇太子廃立
0
親征
0
反乱鎮圧
1225名中179位タイ
被反乱
2289名中158位タイ
遷都
0

順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。

即位の経緯

『三国志』三少帝紀冒頭に「斉王諱芳、字蘭卿。明帝無子、養王及秦王詢。宮省事秘、莫有知其所由来者」とあり、明帝には実子がなく、曹芳と秦王曹詢を養子として宮中で養育していた。曹芳自身の出自(生家・実父母)は正史編纂時点で既に不明とされる秘史。青龍3年(235年)に斉王に封じられ、景初3年(239年)正月丁亥朔、明帝が「甚病」となった同日に「乃立為皇太子」「是日、即皇帝位」と、生前の明帝により正式に皇太子とされた上でその日のうちに即位しており、手続き上は通常の父子継承(世襲)の形式を踏む。ただし血縁上は明帝の実子ではなく養子であり、迎立ではなく既に宮中で養育されていた養子の立太子・践祚である点に注意。評曰にも「明帝既不能然、情系私愛、撫養嬰孩、伝以大器」とあり、実子なきまま養育した嬰孩に位を伝えたと総括される。

出典: 三國志 魏書四 三少帝紀

死因の経緯

司馬師により廃位され斉王に降格(享年23)。晋建国後の泰始元年(265年)に邵陵公へさらに降格され、泰始10年(274年)に43歳で死去、厲公と諡された(『三国志』裴松之注引『魏世譜』)。廃位後の生涯・死去の記述は陳寿『三国志』の対象範囲外(晋代に没したため)で、死因についての具体的記述は確認できていない。

出典: 三國志 魏書四 三少帝紀 裴松之注引魏世譜

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

曹芳は即位時(景初三年正月)は明帝の元号「景初」をそのまま継続使用しており、即位当日に新元号を建元してはいない。同年十二月の詔で暦制(建丑→建寅)を改め、「正始元年正月」として新元号「正始」を制定したことが本紀に明記されており、これを曹芳自身の最初の建元としてevents[0]に計上した。その後、嘉平元年四月乙丑に「改年」(正始→嘉平への改元)が明記される。嘉平の後の「正元」「甘露」「景元」への改元はいずれも曹芳廃位後(高貴郷公・陳留王の代)の出来事であり除外した。正始建元の正確な西暦換算日は暦法変更が絡み複雑なため年精度に留め、confidenceをmediumとした。

大赦回数

在位期間中(景初3年正月即位~嘉平6年9月廃位)に本紀で「大赦」と明記される記事を全て数えた。地域限定の恩赦は見当たらない。日付は干支のみで月の記載がある場合は年精度で近似し、旧暦の月日をnoteに残した。廃位後(正元元年以降、高貴郷公・陳留王の代)の大赦は曹芳のものではないため除外。

立后回数

在位中に3人の皇后が新たに冊立された(うち張氏は後に廃后)。後妃伝には甄氏について「後兄俨孫女為齊王皇后」との記載があり本紀の記述と一致する。張氏・王氏については後妃伝に独立の伝がなく本紀の記載のみが典拠。

皇太子廃立回数

本紀を通読したが、曹芳の在位中に「皇太子」が立てられて後に廃された記事は見当たらない。「太子」の語が出るのは(1)曹芳自身が明帝の病床で皇太子に立てられ即日即位した記事、(2)成倅の弟・太子舎人済(官職名としての太子舎人)、いずれも該当なし。曹芳自身に実子の皇太子が立てられた記録もない。

親征回数

該当記事なし。『三国志』魏書四少帝紀(斉王芳の在位期間、景初三年正月~嘉平六年九月)には「帝自将」「親征」等、曹芳本人が軍を率いて出陣した記述が一切ない。正始五年(244年)の蜀征討も「詔大将軍曹爽率衆征蜀」(大将軍曹爽率衆征蜀)とあり、統帥は曹爽であって曹芳自身は洛陽に留まっている(「丙午、大将軍曹爽引軍還」と曹爽の帰還のみ記される)。正始二年秋七月「上始親臨朝、聴公卿奏事」は親政(朝政を自ら聴く)の記事で軍事親征ではない。よって親征回数は0件と判断した。

反乱鎮圧回数

在位中(239-254年)に皇帝側(司馬懿ら魏朝廷)が鎮圧主体となった服属者の反乱は王凌の乱の1件のみ確認。嘉平六年(254年)の李豊・張緝らの謀議は「事覚、諸所連及者皆伏誅」(発覚のみで挙兵に至らず摘発)であり実際の兵力行使がないため、鎮圧回数には含めない。同年九月の司馬師による曹芳廃立は皇帝側が鎮圧した反乱ではなく権臣側が皇帝を排除した事件のため、こちらも鎮圧回数には算入しない(被反乱側にのみ計上)。

被反乱回数

王凌の乱は高確度で計上。司馬師による廃立事件は、原典(三国志本文)のみでは兵力行使の明記が薄いが『資治通鑑』の記述(司馬昭引兵入城・勒兵於外)を踏まえ基準4のクーデターに該当すると判断し計上したため、全体としてconfidenceはmediumとした。

遷都回数

三国志魏書を通読。曹丕の洛陽定都(建国時の定都)以降、明帝・少帝期を通じて洛陽が一貫した主都(許昌等五都は陪都で行幸のみ)。

即位時年齢・没年齢

即位時年齢は逆算値:廃位時「年二十三」(嘉平6年=254年)と即位年(景初3年=239年)の年号差15年から数え年で8歳と算出。没年齢は原文直接記載:『三国志』裴松之注引『魏世譜』「年五十八」ではなく「泰始十年(274年)に43歳で死去、厲公と諡された」(deathCause参照)。逆算値8歳から274年時点の年齢を試算すると8+(274-239)=43となり、直接記載の43歳と完全に一致し相互検証済み。

在位中の出来事(17件)

改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。

大赦239年景初三年八月、「上始めて親しく朝に臨み、公卿の奏事を聴く」の後に「八月、大赦」とある。

出典: 三國志 魏書四 三少帝紀(齊王芳)

大赦239年1月22日景初三年正月丁亥朔、帝甚病のため皇太子に立てられ即日皇帝に即位、大赦を行った。

景初三年正月丁亥朔、帝甚病のため皇太子に立てられ即日皇帝に即位、大赦を行った。明帝崩御と同日の即位に伴う恩赦であり、後継者である曹芳の在位に帰属させた。

出典: 三國志 魏書四 三少帝紀(齊王芳)

改元240年景初三年十二月の詔「其れ建寅の月を以て正始元年正月と為し、建丑の月を以て後十二月と為す」により、新元号「正始」が制定された。

景初三年十二月の詔「其れ建寅の月を以て正始元年正月と為し、建丑の月を以て後十二月と為す」により、新元号「正始」が制定された。明帝の忌日(正月)を避けるための夏正復活に伴う改元で、曹芳即位後最初の建元にあたる。

出典: 三國志 魏書四 三少帝紀(齊王芳)

大赦243年正始四年四月乙卯、皇后甄氏(甄俨の孫女)を立てるのに伴い大赦。

出典: 三國志 魏書四 三少帝紀(齊王芳)

立后243年正始四年四月乙卯、甄氏(文昭甄皇后の兄・甄俨の孫女)を皇后に立てる。

正始四年四月乙卯、甄氏(文昭甄皇后の兄・甄俨の孫女)を皇后に立てる。嘉平三年七月壬戌に崩御。

出典: 三國志 魏書四 三少帝紀(齊王芳)/魏書五 后妃傳

改元249年嘉平元年(正始九年の翌年)夏四月乙丑、「改年」とあり、正始から嘉平への改元。

嘉平元年(正始九年の翌年)夏四月乙丑、「改年」とあり、正始から嘉平への改元。高平陵の変(同年正月、曹爽誅滅)の直後にあたる。

出典: 三國志 魏書四 三少帝紀(齊王芳)

大赦249年嘉平元年正月丙午、高平陵の変(曹爽誅滅)の直後に大赦。

出典: 三國志 魏書四 三少帝紀(齊王芳)

大赦251年嘉平三年四月壬辰、大赦(この直後に太尉王凌の謀反発覚)。

出典: 三國志 魏書四 三少帝紀(齊王芳)

反乱鎮圧251年4月〜251年6月王凌の乱(王凌・楚王曹彪擁立未遂事件)

首謀者: 王凌(太尉)・楚王曹彪(擁立予定者、令狐愚・楊弘ら関与)

結果: 鎮圧成功。太傅司馬懿の急速な水軍進撃を受け王淩は勢窮まり出迎え投降、洛陽への護送中の項県で服毒自殺(五月甲寅=251年6月15日)。共謀者に擁立されようとした楚王曹彪も六月に自殺を命じられ、関係者は夷三族に処された。

『三国志』魏書四少帝紀(嘉平三年条)は「丙午、聞太尉王凌謀廢帝、立楚王彪、太傅司馬宣王東征凌。五月甲寅、凌自殺。六月、彪賜死」と記す。『資治通鑑』嘉平三年条によれば、王淩は呉軍南下を討伐する名目で「大厳諸軍」(諸軍を大動員)し実際に挙兵準備を進めたが、部将楊弘が兗州刺史黄華とともに司馬懿へ密告したため発覚、司馬懿が中軍を率い水路で急行すると王淩は抗戦せず投降した。王淩は魏の太尉(三公)であり皇帝曹芳の統治機構下にある重臣であるため対等勢力との抗争ではなく服属する臣下による反乱と判断し、鎮圧側(皇帝側=太傅司馬懿)の主体として1件計上した。実際に武力を動員した点で、単なる摘発止まりの謀反計画(後述の李豊・張緝事件)とは区別する。開始日は原文の丙午(嘉平三年四月)を月精度で近似、終了日は王淩自殺の確定日(251年6月15日)を採用した。

被反乱251年4月〜251年6月王凌の乱(王凌・楚王曹彪擁立未遂事件)

首謀者: 王凌(太尉)・楚王曹彪

結果: 鎮圧され王淩自殺、曹彪も自殺を命じられた(詳細は鎮圧回数側と同一)。

鎮圧回数側と同一事件。太尉王凌が皇帝曹芳の廃位と楚王曹彪の擁立を企図し実際に挙兵準備(大厳諸軍)を行ったため、服属する臣下による反乱として被反乱側にも計上した。

大赦252年嘉平四年二月、皇后張氏を立てるのに伴い大赦。

出典: 三國志 魏書四 三少帝紀(齊王芳)

立后252年嘉平四年二月、張氏を皇后に立てる。

嘉平四年二月、張氏を皇后に立てる。皇后の父は光禄大夫張緝。嘉平六年三月、李豊らの廃立謀議に連座する形で廃后となった。

出典: 三國志 魏書四 三少帝紀(齊王芳)

大赦253年嘉平五年四月、大赦。

出典: 三國志 魏書四 三少帝紀(齊王芳)

大赦254年嘉平六年(春二月~三月)辛亥、中書令李豊らの廃立謀議発覚・誅殺の後に大赦。

出典: 三國志 魏書四 三少帝紀(齊王芳)

大赦254年嘉平六年四月、皇后張氏を廃した直後に皇后王氏を立て、大赦。

出典: 三國志 魏書四 三少帝紀(齊王芳)

立后254年嘉平六年四月、王氏を皇后に立てる。

嘉平六年四月、王氏を皇后に立てる。皇后の父は奉車都尉王夔。

出典: 三國志 魏書四 三少帝紀(齊王芳)

被反乱254年10月17日大将軍司馬師による齊王芳廃立(嘉平の政変)

首謀者: 大将軍司馬師(安東将軍司馬昭の軍事的後ろ盾を伴う)

結果: 曹芳は皇太后令の名の下に廃位され斉王に格下げ、当日中に別宮(後に河内郡重門の斉王宮)へ移された(嘉平六年九月甲戌=254年10月17日)。

『三国志』本文では「大将軍司馬景王將謀廢帝、以聞皇太后」とあり、太后の令を借りた政変として描かれ、曹芳本人への直接の武力衝突は明記されない。しかし『資治通鑑』嘉平六年九月条によれば、廃立直前に安東将軍司馬昭が姜維討伐の詔を受け洛陽に引兵入城しており(「昭引兵入城、大将軍師乃謀廢帝」)、郭芝が郭太后に対し「大将軍意已成、又勒兵於外以備非常」(大将軍の意は既に固まり、さらに軍を宮城外に配置して不測の事態に備えている)と述べたことが記録されている。すなわち廃立は司馬氏の軍事的優位・兵力配置を背景に強行された政変であり、指示文の基準4(朝廷内部の権力者による兵力を伴う弑逆・クーデター)に該当すると判断し被反乱回数に算入した(鎮圧の主体が皇帝側ではないため鎮圧回数には含めない)。曹芳自身が武力で抵抗した形跡はなく、後継の高貴郷公髦が司馬昭軍と実際に交戦し落命した事件(本文中で「境界事例」と指定されている)とは性質が異なり、あくまで兵力を背景にした無血の廃立である点でconfidenceはmediumとした。なお、同年二月の中書令李豊・皇后父張緝らによる司馬師打倒+夏侯玄擁立の謀議は、皇貴人拝授の日に兵を動員して大将軍を誅殺する計画であったが実行前に発覚し(『三国志』「事覚、諸所連及者皆伏誅」/『資治通鑑』では司馬師が李豊を刀環で撃殺し廷尉に下した経緯)、実際の挙兵に至らなかったため、指示文の除外規定(摘発のみで終わった謀反計画)に従い被反乱回数には含めていない。

収録基準・各項目の数え方・出典はこのサイトについてを、時代の中での位置は通史年表をご覧ください。