曹髦
魏(三国)|在位 254–260年

- 諱(本名)
- 曹髦
- 在位
- 254–260年
- 在位期間
- 5年215日365名中176位
- 即位経路
- 擁立
- 死因
- 暗殺
- 即位時年齢
- 14歳(数え年)172名中・若い順46位タイ
- 没年齢
- 20歳(数え年)269名中・長寿順237位タイ
- 改元
- 2回332名中78位タイ
- 大赦
- 3回267名中121位タイ
- 立后
- 1回204名中52位タイ
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 2回225名中145位タイ
- 被反乱
- 3回289名中146位タイ
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
斉王曹芳が嘉平6年(254年)9月、大将軍司馬師の主導下で皇太后の令により「使兼太尉高柔奉策……遣芳帰藩於斉、以避皇位」として廃位された直後、同年10月丁丑、「令曰:東海王霖、高祖文皇帝之子。霖之諸子、与国至親、高貴郷公髦有大成之量、其以為明皇帝嗣」との令が下され、文帝曹丕の孫・東海定王曹霖の子である高貴郷公曹髦が明帝の後嗣に指名された。本紀は「斉王廃、公卿議迎立公」と明記し、玄武館に到着した曹髦を群臣が西掖門南で出迎え、太極前殿で即位。当時の実権者は大将軍司馬師であり、廃立劇全体を主導したのは司馬師とみられるが、原文上は形式的に皇太后の令・公卿の合議による擁立として記述されている。曹髦自身による簒奪的行為はなく、擁立に分類。
出典: 三國志 魏書四 三少帝紀
死因の経緯
実権者の司馬昭打倒を試み自ら剣を執って挙兵したが、司馬昭配下の賈充・成済らに阻まれ、成済に刺殺された(享年20)。『三国志』本文は「五月己丑,高貴鄉公卒」とのみ記し弑逆の直接表現を避けるが(陳寿の曲筆として批判される)、裴松之注引『漢晋春秋』に賈充の指示で成済が刺殺した経緯が詳述される。司馬昭は事後、罪を成済一人に負わせ一族を誅殺した。同一政権内の実権者による謀殺のため暗殺に分類。
出典: 三國志 魏書四 三少帝紀 裴松之注引漢晋春秋
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
即位当日の建元(正元)と、正元から甘露への改元の2回。いずれも本紀に明記される「改元」記事のみをカウントし、曹髦の死後・曹奂即位に伴う甘露→景元の改元は帰属ルールに従い除外した(後継者曹奂の即位当日の出来事のため)。
大赦回数
「大赦」と明記され、地域・対象を限定しない全国規模の恩赦のみを3件カウントした。除外した部分的恩赦:正元二年閏月「復特赦淮南士民諸為儉、欽所誖誤者」(毌丘儉・文欽反乱連座者限定)、正元二年十一月「皆特赦之」(隴右四郡及金城の逃亡者親族限定)、甘露二年五月丙子「赦淮南將吏士民為誕所誖誤者」(諸葛誕反乱連座の淮南限定)。これらはいずれも地域・罪状限定の「特赦」または限定的な「赦」であり、全国規模の「大赦」と区別されるため対象外とした。
立后回数
曹髦在位中に立后は1回のみ。廃后・再冊立の記録はない。
皇太子廃立回数
曹髦は即位から崩御(甘露五年五月、20歳)まで在位期間が約5年半と短く、本紀中に皇太子を立てた記事も、皇太子・法定推定継承者を廃した記事も一切登場しない(「太子」の語は本紀の曹髦在位区間に出現しない)。したがって廃立は0回と判定した。
親征回数
『三国志』魏書四 少帝紀(高貴郷公紀)本文中に「帝自将」「自将」「親征」等、曹髦本人が戦場で軍を指揮したことを示す定型句は見出せなかった(本文grep確認済み)。検討した2件:(1) 甘露二年の諸葛誕討伐で、詔に「皇太后与朕暫共臨戎」とあり実際に「車駕駐項」(車駕を項県に進めた)まで記録されるが、前線指揮は「大将軍恭行天罰,前臨淮浦」「大将軍親総六戎,営拠丘頭」と明記され司馬昭が担っており、曹髦自身が戦場で指揮した記述はないため親征に含めなかった。(2) 甘露五年五月、司馬昭打倒を試みた事件では「躬自拔刃」「率将従駕人兵,拔刃鳴金鼓」等、曹髦自身が武装し兵を率いて行動したことは明記されるが、これは対外遠征・反乱鎮圧のための軍事行動ではなく、宮中で権臣を先制攻撃しようとした一日限りのクーデター未遂・弑逆未遂事件であり、本データセットの他事例(漢高祖の親征等)が想定する「目的地への出征〜帰還」型の軍事行動とは性質が異なると判断し、親征には計上しなかった(詳細な原文根拠はrebellionSuppressionCount/rebellionSufferedCountのnote参照)。この(2)を親征として計上すべきか否かは判断が分かれ得る境界事例のため、confidenceをmediumとした。
反乱鎮圧回数
上記2件のほか、甘露二年夏四月の『玄菟郡高顕県吏民反叛』(後述)は本紀に鎮圧の記述がなく、曹髦の在位終了(甘露五年)までに解決した記事も見当たらないため、ルール例外2(未鎮圧のまま在位終了)に該当するとみなし鎮圧回数には含めず被反乱回数のみに計上した。また甘露五年五月の曹髦自身による司馬昭打倒未遂事件は、曹髦自身が先に武装・挙兵した『皇帝自身が攻撃の主体』(ルール例外3)に該当すると判断し、鎮圧・被反乱いずれにも計上しなかった(詳細はrebellionSufferedCountのnote参照)。なお呉将孫峻の寿春来襲(正元二年、諸葛誕がまだ魏側として撃退)や蜀将姜維の狄道・上邽・洮陽侵攻は、対等な独立政権(呉・蜀漢)との対外戦争であり反乱には該当しないため対象外とした。
被反乱回数
甘露五年五月己丑の曹髦自身による司馬昭打倒未遂事件(本紀「五月己丑,高貴郷公卒,年二十」+直後の皇太后令・大将軍上言に詳述)は、原文の記述を精査した結果、被反乱には計上しなかった。判断根拠:(1)皇太后(郭太后)令「…直欲因際會舉兵入西宮殺吾,出取大將軍…此兒便將左右出雲龍門,雷戦鼓,躬自拔刃,與左右雜衛共入兵陳間,為前鋒所害。」-曹髦自身が武装し兵を率いて先に行動を起こしたと明記。(2)大将軍文王(司馬昭)上言「高貴鄉公率將從駕人兵,拔刃鳴金鼓向臣所止;懼兵刃相接,即敕將士不得有所傷害,違令以軍法從事。騎督成倅弟太子舍人濟,橫入兵陳傷公,遂至隕命。」-司馬昭側は『傷害するな』と命じて守勢の姿勢を取り、成済が陣中に無許可で突入(『橫入』)して致命傷を負わせたため事後に成済を処罰対象としたと記す。両史料とも武装・出兵の起点は曹髦自身にあり、司馬昭側はこの時点でまだ挙兵・反乱を起こしていない(むしろ非攻撃の指示を出していた)ことを示すため、ルール例外3『皇帝自身が攻撃の主体だった場合(相手はまだ反乱を起こしていないため反乱不成立、両方から除外)』に該当すると判断した。既存データセットのdeathCauseで引用される裴松之注引『漢晋春秋』では成済への指示者は賈充とされ、司馬昭本人が能動的に攻撃を主導したわけではない点も例外3判断を補強する。この判断は境界事例であり異説(例外4=権臣側の弑逆として被反乱に計上すべきとの立場)もあり得るため、玄菟郡の一件の未確定性と合わせconfidenceをmediumとした。
遷都回数
三国志魏書を通読。曹丕の洛陽定都(建国時の定都)以降、明帝・少帝期を通じて洛陽が一貫した主都(許昌等五都は陪都で行幸のみ)。
即位時年齢・没年齢
三國志 魏書四 三少帝紀「五月己丑,高貴鄉公卒,年二十」(数え年)。 即位時年齢は逆算値:崩御時「年二十」(甘露5年=260年)と即位年(正元元年=254年)の年号差6年から数え年で14歳と算出。
在位中の出来事(11件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
改元254年11月1日公卿の擁立を受け高貴郷公が即位した当日、大赦とともに改元(正元の建元)が行われた。
公卿の擁立を受け高貴郷公が即位した当日、大赦とともに改元(正元の建元)が行われた。「其日即皇帝位於太極前殿,百僚陪位者欣欣焉。詔曰:……大赦,改元。」直後の記事が「正元元年冬十月壬辰」と続くことから、この改元が正元建元であることが確認できる。
出典: 三國志 魏書四 三少帝紀(高貴鄉公紀)
大赦254年11月1日即位当日、改元とともに大赦。
即位当日、改元とともに大赦。「大赦,改元。」
出典: 三國志 魏書四 三少帝紀(高貴鄉公紀)
反乱鎮圧255年1月〜255年2月毌丘倹・文欽の反乱
首謀者: 毌丘倹(鎮東将軍)・文欽(揚州刺史)
結果: 鎮圧成功。文欽は敗れて呉に亡命し、毌丘倹は安風津都尉に斬られ首級を京都に伝えられた。
『三国志』魏書四 少帝紀「正元二年春正月乙丑,鎮東将軍毌丘俭、揚州刺史文欽反。戊寅,大将軍司馬景王征之。…閏月己亥,破欽於楽嘉。欽遁走,遂奔呉。甲辰,安風津都尉斬俭,傳首京都。」既に魏の官職(鎮東将軍・揚州刺史)にあった服属官による反乱であり鎮圧に計上。鎮圧の主体は大将軍司馬師(司馬景王)で曹髦自身の出征記述はないため親征には含めない。閏月は正月直後の閏正月。
被反乱255年1月〜255年2月毌丘倹・文欽の反乱
首謀者: 毌丘倹(鎮東将軍)・文欽(揚州刺史)
結果: 鎮圧成功。文欽は呉に亡命、毌丘倹は斬首。
rebellionSuppressionCountと同一事件を被反乱側として計上。
大赦255年3月正元二年三月、皇后卞氏冊立に伴う大赦。
正元二年三月、皇后卞氏冊立に伴う大赦。「三月,立皇后卞氏,大赦。」
出典: 三國志 魏書四 三少帝紀(高貴鄉公紀)
立后255年3月正元二年三月、卞皇后を冊立。
正元二年三月、卞皇后を冊立。「三月,立皇后卞氏,大赦。」翌月「夏四月甲寅,封后父卞隆為列侯」とあり、后妃伝の「蘭子隆女為高貴鄉公皇后,隆以后父為光祿大夫」との記述と符合する。すなわちこの卞皇后は卞蘭の子・卞隆の娘(武宣卞皇后の一族)である。個人名は本紀・后妃伝ともに記載なし。
出典: 三國志 魏書四 三少帝紀(高貴鄉公紀)/魏書五 后妃傳
改元256年6月正元から甘露への改元。
正元から甘露への改元。「甘露元年春正月辛丑……夏六月丙午,改元為甘露。」年次表記は遡って甘露元年とされているが、実際の改元の詔は六月丙午に発せられた。丙午の干支日までのグレゴリオ暦換算は行っておらず、月精度に留める。
出典: 三國志 魏書四 三少帝紀(高貴鄉公紀)
被反乱257年4月玄菟郡高顕県吏民の反乱
首謀者: 玄菟郡高顕県の吏民(首謀者名不詳)
結果: 県長・鄭熙が殺害されたことのみ記録され、その後の鎮圧行動・結末は本紀に記載なし(民王簡が県長の遺骸を守り本州へ届けた忠節に対する褒賞の記事のみ)。
『三国志』魏書四 少帝紀「甘露二年…夏四月癸卯,詔曰:玄菟郡高顕県吏民反叛,長鄭熙為賊所殺。民王簡負担熙喪,晨夜星行,遠致本州,忠節可嘉。其特拜簡為忠義都尉,以旌殊行。」既に魏の郡県支配下にあった吏民が武装し県長を殺害した実際の武装反乱であり、身分・規模を問わず被反乱に計上(謀反計画の摘発のみで終わったものではない)。ただし本紀に鎮圧行動の記述がなく、曹髦在位終了までの解決も確認できないため、ルール例外2(未鎮圧のまま在位終了)によりrebellionSuppressionCountには含めていない。
反乱鎮圧257年5月〜258年2月諸葛誕の反乱
首謀者: 諸葛誕(征東大将軍、揚州)
結果: 鎮圧成功。甘露三年二月、大将軍司馬文王(司馬昭)が寿春城を陥落させ諸葛誕を斬った。
『三国志』魏書四 少帝紀「甘露二年…乙亥,諸葛誕不就徵,發兵反,殺揚州刺史楽綝。」「三年春二月,大将軍司馬文王陷寿春城,斬諸葛誕。」既に魏の征東大将軍だった諸葛誕による離反・挙兵であり鎮圧に計上。詔では『皇太后与朕暫共臨戎』とあり車駕は項県まで進んだが、前線指揮は『大将軍恭行天罰』『大将軍親総六戎,営拠丘頭』と明記され司馬昭が担っており、曹髦自身が戦場で軍を指揮したとは読めないため親征には含めない。
被反乱257年5月〜258年2月諸葛誕の反乱
首謀者: 諸葛誕(征東大将軍、揚州)
結果: 鎮圧成功。寿春陥落・諸葛誕誅殺。
rebellionSuppressionCountと同一事件を被反乱側として計上。
大赦257年9月甘露二年九月、諸葛誕討伐(寿春攻囲継続中)の情勢下での大赦。
甘露二年九月、諸葛誕討伐(寿春攻囲継続中)の情勢下での大赦。「九月,大赦。冬十二月,吳大將全端、全懌等率眾降。」
出典: 三國志 魏書四 三少帝紀(高貴鄉公紀)