高祖・劉知遠
後漢・五代十国|在位 947–948年

- 諱(本名)
- 劉知遠
- 在位
- 947–948年
- 在位期間
- 1年1日365名中296位タイ
- 即位経路
- 建国
- 死因
- 病死
- 即位時年齢
- 53歳(数え年)172名中・若い順161位タイ
- 没年齢
- 54歳(数え年)269名中・長寿順63位タイ
- 改元
- 2回332名中78位タイ
- 大赦
- 2回267名中152位タイ
- 立后
- 1回204名中52位タイ
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 2回225名中145位タイ
- 被反乱
- 2回289名中158位タイ
- 遷都
- 1回45名中12位タイ
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
契丹が中原から撤退し権力空白が生じた中、群臣・諸将の勧進を受けて即位、国号を後漢と定めた新王朝の建国。
出典: 旧五代史 巻九十九(漢書・高祖紀上)
死因の経緯
「帝不豫」の記載後まもなく崩御。愛子・承訓の死を深く悲しみ体調を崩していた経緯もあり病没と判断。
出典: 旧五代史 巻一百(漢書・高祖紀下)
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
高祖は即位前に「王」等の身分で独自に改元した事実がなく、2段階即位パターンには該当しない(即位前は後晋の臣下として後晋の年号に従っていた)。天福十二年二月の即位建元と、乾祐元年正月の改元の計2回。旧五代史巻九十九の「(契丹主が)大赦天下、号会同十年」は契丹の年号制定であり高祖自身の改元ではないため含めない。国号を「大漢」に改めた六月の詔(巻一百)は国号変更であって改元(年号切替)ではないため、eraChangeCountには含めていない(amnestyCountの対象にはなる)。
大赦回数
旧五代史巻九十九にある「(契丹主が)晋国を大遼国と改め)大赦天下、号会同十年」は契丹主自身が発した大赦であり高祖本人の行為ではないため除外。巻一百・十月条の「河北諸州見禁罪人…咸赦除之」は河北諸州限定の恩赦であり全国規模の「大赦天下」の明記がないため対象外とした。
皇太子廃立回数
本紀(巻九十九・巻一百)を通読したが、皇太子(皇太弟・皇太孫等を含む)の冊立自体の記事が見当たらず、従って廃立の記事もない。皇長子承訓は左衛上将軍・のち開封尹に任ぜられたが皇太子には立てられぬまま天福十二年十二月に薨去し魏王を追封された。次子承祐(隠帝)は乾祐元年正月、高祖崩御に際し「内降遺制,皇子周王承祐可於柩前即皇帝位」により柩前で即位しており、事前の皇太子冊立は本紀に確認できない。
親征回数
旧五代史巻九十九・巻一百(漢書・高祖紀上下)を通読。即位(天福十二年二月十五日・0947-03-10)後、皇帝自身が対等勢力(十国・契丹)へ軍を率いて出征した事例は確認できなかった。即位直後の甲戌(0947-03-13)、契丹に北へ連れ去られる晋帝を迎えようと帝自ら親兵を率いて土門路へ向かったが、『聞其已過,乃還』とあり晋帝の一行に追いつけずそのまま引き返しており、戦闘・対峙が発生していないため親征として計上しなかった。閏七月〜十一月の杜重威(鄴都)反乱鎮圧では、帝自ら澶・魏へ出陣し鄴都攻城を観戦した記録があるが、対象は後漢の統治機構下(自ら宋州節度使に任じた)杜重威による国内反乱であり、対等勢力・外国への外征ではないためrebellionSuppressionCount側で扱い、親征回数には含めない(後唐荘宗の同種事例における既存の判定基準を踏襲)。即位前(開運元〜三年、河東節度使時代)の契丹に対する親征(忻口の戦い・朔州南陽武谷の戦い等)は即位前の出来事のため対象外。
反乱鎮圧回数
旧五代史巻九十九・巻一百(漢書・高祖紀上下)を在位期間(0947-03-10即位〜0948-03-10崩御)にわたり通読し、反乱記事を精査した。契丹撤退直後の混乱期に各地で頻発した在地勢力の蜂起・城の奪取(澶州の王琼、河陽の武行徳、陝州の趙暉・王晏、晋州の張晏洪ら)は、いずれも契丹(またはその任命した地方官)に対する蜂起であり、その後高祖に帰順・上表しているため、後漢(高祖)に対する反乱には該当せず対象外とした。荊南節度使高従誨の離反(十一月己未、湖南より奏上)は十国(対等勢力)の自立行動であり、後漢側の鎮圧行動の記録も見当たらないため対象外とした。
被反乱回数
在位中(0947-03-10〜0948-03-10)に皇帝側が鎮圧の対象とした反乱2件(王暉・杜重威)はいずれも被反乱としても同一に計上した(両者に食い違いなし)。同時期に頻発した契丹支配地域での在地勢力の蜂起・帰順(王琼・武行徳・趙暉・王晏ら)は、いずれも契丹に対する蜂起であり後漢(高祖)に対する反乱ではない(むしろ帰順して味方となった)ため対象外とした。荊南節度使高従誨の離反(十一月己未、湖南より奏上)は十国(対等勢力)の自立であり、鎮圧行動の記録も見当たらないため対象外とした。
遷都回数
在位中に遷都1回(0947年 太原(建国地)→東京(開封))。
即位時年齢・没年齢
生年は「後以唐乾寧二年,歳在乙卯,二月四日生帝於太原」(旧五代史巻九十九・高祖紀上)に明記(換算:唐乾寧二年=895年、干支「乙卯」も一致)。没年齢は「二十七日丁丑,帝崩於万歳殿,時年五十四」(旧五代史巻一百・高祖紀下)に明記。即位時年齢は原文に直接の記載はないが、確定済みの生年(895年)と即位年(天福十二年=947年)から数え年で算出(947-895+1=53)。没年齢の直接記載(54)とも整合的(948-895+1=54)。
在位中の出来事(10件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
改元947年3月10日天福十二年二月十五日(辛未)、太原宮にて受冊・即皇帝位。
天福十二年二月十五日(辛未)、太原宮にて受冊・即皇帝位。「制改晋開運四年為天福十二年」とあり、後晋末帝の「開運」を廃して先代(後晋高祖石敬瑭)の「天福」年号継続を宣言する形で即位に伴う最初の建元を行った(『契丹国志』によれば「予未忍忘晋也」との理由付けがある)。国号を「大漢」と定めたのはこの後の六月であり、この二月の時点では改元のみで国号変更はまだない。
出典: 旧五代史 巻九十九(漢書・高祖紀上)
反乱鎮圧947年3月18日代州刺史王暉の反乱(契丹への離反)
首謀者: 王暉(代州刺史)
結果: 鎮圧成功(史宏肇が一挙に攻略、王暉は斬られ晒された)
天福十二年二月二十三日(己卯)、代州刺史王暉が契丹に寝返り離反。帝は都将史宏肇を派遣して討伐させ、即日攻略・斬首した(原文「己卯,帝遣都将史宏肇率兵讨代州,平之。初,代州刺史王晖叛归契丹,宏肇一鼓而拔之,斩晖以徇」=旧五代史巻九十九・高祖紀上)。皇帝自身は出陣していないため親征回数には含めない。
被反乱947年3月18日代州刺史王暉の反乱(契丹への離反)
首謀者: 王暉(代州刺史)
結果: 鎮圧された(史宏肇に一挙に攻略され、王暉は斬られ晒された)
rebellionSuppressionCountと同一事象。詳細は同項参照。
立后947年5月1日天福十二年四月八日(癸亥)、魏国夫人李氏を冊立して皇后とする(「冊魏国夫人李氏為皇后」)。
天福十二年四月八日(癸亥)、魏国夫人李氏を冊立して皇后とする(「冊魏国夫人李氏為皇后」)。以後の廃后・再冊立の記事は見当たらない。
出典: 旧五代史 巻九十九(漢書・高祖紀上)
遷都947年6月11日太原(建国地) → 東京(開封)
『五代会要』巻一(漢高祖):天福十二年(947年)二月十五日、太原府第で受冊・即位(建国時の定都のため対象外)。契丹北帰後、五月十三日に南幸を発し太原を出発、洛陽を経て「其年六月十一日至东京受朝于崇元殿,改名暠」と六月十一日に東京開封に到着し崇元殿で朝を受け、名を暠と改めた。『旧五代史』高祖紀下でも同じ行程(丙申「帝发河东」→丙辰「车驾至洛」→甲子「车驾至东京」)が確認できる。以後、後漢・後周を通じて開封が首都であり続けた。(出典: 五代会要 巻一(漢高祖)/旧五代史 高祖紀下(天福十二年五月~六月))
大赦947年7月5日天福十二年六月十五日(戊辰)、「大赦天下」を発し、応天福十二年六月十五日昧爽已前の罪を十悪五逆を除き赦す。
天福十二年六月十五日(戊辰)、「大赦天下」を発し、応天福十二年六月十五日昧爽已前の罪を十悪五逆を除き赦す。同詔で国号を「大漢」と定めた(年号は天福継続)。
出典: 旧五代史 巻一百(漢書・高祖紀下)
反乱鎮圧947年9月5日〜948年1月10日杜重威の鄴都反乱
首謀者: 杜重威(鄴都留守・天雄軍節度使、新任宋州節度使)
結果: 鎮圧成功(皇帝自ら澶・魏に親征し鄴都を包囲、攻城戦で1万余の死傷者を出すも攻略できず包囲継続。最終的に杜重威が投降し反乱終結。助命され官爵を与えられたが、崩御直後に朝廷により誅殺された)
閏七月庚午(0947-09-05)、新たに宋州節度使に任じられた杜重威が鄴都(天雄軍)に拠って反乱、朝廷は官爵を削奪し高行周を行営都部署として討伐に向かわせた。九月庚辰(0947-11-14)皇帝自ら車駕を発し澶・魏へ親征、十月丙午(0947-12-10)鄴都城を攻めたが1万余の死傷者を出し攻略できず包囲を継続。十一月丁丑(0948-01-10)杜重威が素服して出降し反乱終結(原文=旧五代史巻一百・高祖紀下「新授宋州节度使杜重威据邺都叛…以高行周为行营都部署,率兵进讨」「诏以杜重威叛命,取今月二十九日暂幸澶、魏」「车驾发京师」「诏都部署高行周督众攻城,帝登高阜以观之…王师伤夷者万余人,不克而退」「杜重威素服出降,待罪于宫门,诏释其罪」)。皇帝が自ら出陣し鄴都攻城を観戦したが、対象は自国内(後漢の統治機構下)の節度使による反乱であり対等勢力(十国・契丹)への外征ではないため、personalCampaignCountには含めずrebellionSuppressionCount側で扱う(後唐荘宗の鄴都の乱に対する既存の判定基準を踏襲)。杜重威本人は崩御直後(乾祐元年二月)に謀反を疑われ誅殺されたが、高祖崩御後の出来事のためこのイベント(在位中の鎮圧)の範囲には含めない。
被反乱947年9月5日〜948年1月10日杜重威の鄴都反乱
首謀者: 杜重威(鄴都留守・天雄軍節度使、新任宋州節度使)
結果: 鎮圧された(包囲の末、投降)
rebellionSuppressionCountと同一事象。詳細は同項参照。
改元948年2月17日乾祐元年正月五日(乙卯)、「制:大赦天下,改天福十三年為乾祐元年」とあり、皇帝在位中に天福(継続使用分)から乾祐へ改元。
出典: 旧五代史 巻一百(漢書・高祖紀下)
大赦948年2月17日乾祐元年正月五日(乙卯)、天福十三年を乾祐元年に改元する詔と同時に「大赦天下」、自正月五日昧爽已前の罪を十悪五逆を除き赦す。
出典: 旧五代史 巻一百(漢書・高祖紀下)