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後晋(五代十国)第2代

少帝石重貴

在位 942–946年(4年167日)942年7月28日 〜 947年1月11日 ( 946年12月17日まで)

日本は平安時代

後晋の高祖石敬瑭の兄の子で、養子として位を継ぎ、契丹に敗れて北へ連れ去られた皇帝である。

少帝の人物データ

生年
914年7月22日
在位
  • 942年7月28日〜947年1月11日 946年12月17日まで
4年167日長い順195位/365人29歳で即位(数え年)
没年
不詳
死因
同じ死因31人/365人
即位経路
先代
  • 高祖石敬瑭後晋少帝は高祖の養子
次代
—
呼び名
姓石諱重貴別称出帝呼び名の見方

出典

在位
旧五代史 巻八十一 晋書 少帝紀一(即位)/旧五代史 巻八十五 晋書 少帝紀五(開運三年十二月・契丹への降伏奏表)
死因
旧五代史 巻八十五(晋書・少帝紀五)
即位経路
新五代史 巻九(晋本紀第九・論賛)

生涯

どんな皇帝か

旧五代史のは、凡庸な才で、飢饉の続くなかで契丹との盟約を絶ち、奢りにふけって任すべきでない者に任せた末に辱めを受けたと断じる。

即位まで

後晋の高祖石敬瑭の兄の子で、父が早く亡くなり、高祖の子とされた。若いころは温厚で高祖に愛されたが、礼記を教わっても大義を理解できず、これは我が家の仕事ではないと言った。936年、高祖が洛陽へ向かう際、契丹主にこの目の大きい者がよいと指されて、晋陽の留守を任された。942年に高祖が没すると、その日に柩の前で即位した。

史料について

即位を、旧五代史はによるとし、資治通鑑は、高祖が幼子の重睿を馮道に託そうとし、没後に馮道と景延広が国難には年長の君がよいと議して重貴を奉じたとする。新五代史の欧陽脩の論は、を廃して立てたと評する。

治世と最期

高祖の殯のうちに、その弟重胤の寡婦馮氏を納れ、柩の前で酒を注ぎ、左右が笑うと、今日は新しい婿になった、どうだと言った。景延広の主張で、契丹に臣ではなく孫と称する書を送り、契丹は怒った。943年、蝗害で餓死者が相次ぐなか、景延広の邸を訪れて財物を贈り合った。

944年の戚城の戦いでは自ら兵を率いて、囲まれた高行周らを救った。945年にはし、諸将が陽城で契丹軍を大破した。

946年、杜威らが契丹に降り、張彦沢が都に突入すると、火に飛び込もうとしたが、親校の薛超に止められ、契丹主の書が届くと思いとどまった。負義侯に封ぜられて北へ送られる途中、錦州で阿保機の像を拝まされると、薛超が死なせてくれなかったと泣いた。のち建州へ移された。

史料について

孫と称する書を、旧五代史の景延広伝は朝廷が送ったとする。資治通鑑と新五代史は、契丹は先に告げずに即位したことにも怒ったとする。戚城で囲みを解いたのを、旧五代史の注が引く宋史は符彦卿らとする。その後を、旧五代史・新五代史・資治通鑑は顕徳年間になお無事との消息で終え、新五代史はその後を知らないとする。旧五代史の注が引く郡斎読書志は、建州に住んで通算十八年で没したとする。

少帝とつながる皇帝

五代十国の勢力図(942年)

勢力図

五代十国の勢力図で見る

942–945年の地図に、少帝が治めた国が描かれています。

在位中の出来事

反乱4・親征2・皇后1・改元1・大赦4
  1. 反乱942年安従進の乱(襄州)
  2. 942年9月1日即位直後の恩赦。
  3. 943年旱害・蝗害対応の恩赦。
  4. 改元944年元号を「開運」とする
  5. 944年改元と同時の大赦。
  6. 944年契丹(遼)
  7. 反乱944年楊光遠の乱(青州)
  8. 945年
  9. 945年契丹(遼)
  10. 皇后946年呉国夫人馮氏を皇后に正式冊立。
  11. 反乱946年孫方簡の離反(狼山)
  12. 反乱947年1月10日( 946年12月16日)杜威・李守貞ら諸将の契丹投降と張彦沢の帝都突入・少帝捕縛

後晋の歴代皇帝

歴代2人の一覧

年表

五代十国の時代を年表で見る

後晋が中国史のどこにあたるか、同じ時代の王朝と前後の時代を並べて見られます。

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