中国皇帝統計

少帝・石重貴、出帝

後晋(五代十国)|在位 942–947年

諱(本名)
石重貴
在位
942–947年
在位期間
4年168日365名中196位
即位経路
擁立
死因
不詳
即位時年齢
29歳(数え年)172名中・若い順109位タイ
没年齢
不詳
改元
1332名中142位タイ
大赦
4267名中93位タイ
立后
1204名中52位タイ
皇太子廃立
0
親征
2112名中41位タイ
反乱鎮圧
2225名中145位タイ
被反乱
4289名中127位タイ
遷都
0

順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。

即位の経緯

高祖の甥で養子。高祖は実子・重睿への継承を望んでいたが、大臣らがこれに反して重貴を擁立した。

出典: 新五代史 巻九(晋本紀第九・論賛)

死因の経緯

開運3年12月、契丹に降伏後「負義侯」に貶封され黄龍府に安置、のち建州に移されて幽閉。『晋朝陥蕃記』(旧五代史攷証所引)に「少主初迁于黄龙府,后居于建州,凡十八年而卒」とあるのみで、死因の記述はない。

出典: 旧五代史 巻八十五(晋書・少帝紀五)

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

天福七年六月の即位時は高祖の天福年号をそのまま継続使用し改元しなかったため、即位に伴う建元としてはカウントしない(2段階即位パターンには該当しない:少帝は最初から皇帝として即位している)。在位中の改元は開運元年七月の一回のみで、以後開運三年末の契丹への降伏まで改元なし。

大赦回数

「曲赦」(開運元年二月己未の京城囚、四月甲申の京城大辟以下罪人、開運三年閏月乙酉の青州囚等)や特定地域限定の赦(天福八年二月の広晋府囚・澶州赦囚等)は全国規模の大赦に該当しないため対象外とした。

立后回数

在位中に生前正式に皇后として冊立されたのは馮氏の1件のみ。天福八年九月丁亥「追册故魏国夫人张氏为皇后,帝之元妃也」(旧五代史巻八十二)は、即位前に既に死去していた元妃・張氏への死後の追册(追贈)であり、生前の正式冊立ではないためカウント対象外とした(本プロジェクトの他の皇帝項目と同様の取り扱い)。廃后の記録はない。

皇太子廃立回数

旧五代史(少帝紀一〜五)・新五代史(晋本紀第九)を通読した限り、少帝在位中に皇太子・皇太弟等の法定推定継承者を立てた記録自体が見当たらない(皇子延煦・延宝はいずれも節度使等に任じられたのみで皇太子冊立の記事はない)。立太子の記録がないため廃立も生じておらず0回と判定。

親征回数

旧五代史・新五代史の少帝紀を通読。少帝在位中の契丹戦は開運元年・開運二年の2度、車駕が実際に東京を出発し前線(澶州・戚城等)まで進駐しているため親征として計上。開運三年冬の対契丹攻勢(瀛・鄚攻略、杜威指揮)は将軍派遣のみで少帝自身は出征していないため対象外。安从进・杨光远の反乱鎮圧はいずれも将軍(高行周・李守貞)が指揮し少帝自身は出征していないため親征には含めない。

反乱鎮圧回数

旧五代史・新五代史の少帝紀を通読。夏州(定难军)内部の拓拔崇斌の乱(天福八年九月、李彝殷の配下による離反)は李彝殷自身が鎮圧の主体であり少帝の中央政府が直接鎮圧したものではないため対象外とした。開運三年四〜五月の兗・郓・沂・密方面の「寇盗」(常知及ら、南唐の支援を受けた飢饉起因の盗賊集団)は正史が「反」ではなく「贼」と記し、晋朝の官職を持つ首謀者による離反でもないため対象外とした。閩国の内訌(連重遇・硃文進による王延羲弑逆)は独立政権内部の事件であり対象外。

被反乱回数

suppressionとsufferedの差(2件)は、孙方简の離反と杜威・李守貞・張彦沢の投降・帝都突入がいずれも在位終了までに鎮圧されなかったため(パターン2に該当)。夏州内部の拓拔崇斌の乱・開運三年の兗郓沂密方面の盗賊蜂起・閩国の内訌は上記rebellionSuppressionCountのnoteと同じ理由で対象外とした。

遷都回数

旧五代史帝紀を通読。高祖期の開封遷都を継承、追加の遷都記録なし。

即位時年齢・没年齢

生年(唐天祐十一年六月二十七日=914年)は旧五代史・少帝紀一冒頭に直接明記。即位(天福七年=942年六月十三日)時の数え年年齢は、年号年ラベル差分により942-914+1=29歳と算出した逆算値(原文に「時年」等の直接記載はない)。崩御については原文に直接の年月日・享年の記載がなく、攷证引用史料からの推定(964年頃)に留まるため、deathDate/deathAgeともにnullとした。既存データを再検証の上そのまま採用。

在位中の出来事(14件)

改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。

改元日付不詳「帝御崇元殿,大赦天下,改天福九年为开运元年」(旧五代史)。

「帝御崇元殿,大赦天下,改天福九年为开运元年」(旧五代史)。新五代史も「秋七月辛未朔,大赦,改元」と記す。【皇帝在位中】天福九年(943年からの継続年号)を開運元年に改元。

出典: 旧五代史 巻八十三(晋書・少帝紀三)/新五代史 巻九(晋本紀第九)

大赦日付不詳即位直後の恩赦。

即位直後の恩赦。「帝御正殿,宣制:天赦天下,诸道州府各色罪犯,除十恶五逆、杀人强盗、官典犯赃、合作毒药、屠牛铸钱外,其余罪犯,咸赦除之」(旧五代史)。新五代史も同日を「庚子,大赦」と簡潔に記す。

出典: 旧五代史 巻八十一(晋書・少帝紀一)/新五代史 巻九(晋本紀第九)

大赦日付不詳旱害・蝗害対応の恩赦。

旱害・蝗害対応の恩赦。旧五代史は「诏:诸道州府见禁罪人,除十恶五逆、行劫杀人、伪行印信、合造毒药、官典犯赃各减一等外,余并放」と記し「大赦」の語は用いないが、新五代史は同日を明確に「甲辰,以旱、蝗大赦」と記録しており、大赦として計上した。

出典: 旧五代史 巻八十一(晋書・少帝紀一)/新五代史 巻九(晋本紀第九)

大赦日付不詳改元と同時の大赦。

改元と同時の大赦。「帝御崇元殿,大赦天下,改天福九年为开运元年」(旧五代史)。新五代史も「辛未朔,大赦,改元」と記す。

出典: 旧五代史 巻八十三(晋書・少帝紀三)/新五代史 巻九(晋本紀第九)

大赦日付不詳「帝御崇元殿受朝,大赦天下」(旧五代史)。

「帝御崇元殿受朝,大赦天下」(旧五代史)。新五代史も同日「丙申朔,大赦」と記す。

出典: 旧五代史 巻八十四(晋書・少帝紀四)/新五代史 巻九(晋本紀第九)

立后日付不詳呉国夫人馮氏を皇后に正式册立。

呉国夫人馮氏を皇后に正式册立。「癸酉,册吴国夫人冯氏为皇后」(旧五代史巻八十五)。なお天福八年冬十月戊申「制以吴国夫人冯氏为皇后,仍令所司择日备礼册命」(旧五代史巻八十二/新五代史は同日「戊申,立冯氏为皇后」と簡潔に記す)として立后の詔自体は約3年前に出されていたが、正式な册命の儀礼は開運三年十月まで行われなかったため、実際に册立の儀が完了したこの日を冊立日として計上し、詔と儀礼を合わせて1回とカウントした。

出典: 旧五代史 巻八十五(晋書・少帝紀五)

親征日付不詳契丹(遼)

対象: 契丹(遼)

結果: 契丹の南侵(趙延寿・趙延昭ら五万騎の侵攻)に対し、少帝自ら「車駕北征」を詔して東京を出発、澶州に進駐。三月の戚城の戦いでは「帝自御親兵救之方解」と自ら親兵を率いて高行周らの窮地を救援。契丹軍は北方へ撤退し、四月に帰京した。

旧五代史 開運元年正月壬午「诏取此月十三日车驾北征」〜四月甲寅「至自澶州」の記事による。

親征日付不詳契丹(遼)

対象: 契丹(遼)

結果: 再度の契丹侵攻に対し、正月辛酉に「下诏亲征」、東京を出発し澶州・戚城方面に進駐、諸軍を親閲(「大阅诸军于戚城,帝亲临之」)。前線の阳城(白团卫村)の戦い自体は杜威・李守貞ら諸将が指揮して契丹軍を撃退、四月に帰京した。

旧五代史 開運二年正月辛酉「下诏亲征」〜四月甲申「至京师」の記事による。少帝自身は澶州・戚城など後方拠点に留まり最前線の戦闘には加わっていないが、車駕が親征を宣言し出征・帰京しているため親征1回として計上した。なお開運三年冬の第三次契丹戦(瀛・鄚攻略戦、杜威が北面行营都招讨使として指揮)は少帝が東京に留まり車駕が出征していないため親征に含めていない。

反乱鎮圧日付不詳安从进の乱(襄州)

首謀者: 安从进

結果: 鎮圧成功。襄州行営都部署・高行周らが攻略し、安从进は自焚死、子の宏赞は生擒斬首。

少帝即位直後の天福七年七月庚子の大赦詔に「襄州安从进如能果决输诚,并从释放」とあり既に離反状態にあったことが分かり、八月甲子「襄州行营都部署高行周奏,收复襄州,安从进自焚而死,生擒男宏赞斩之」(旧五代史)で鎮圧完了。反乱発生は高祖崩御(天福七年六月十三日)直後、少帝即位とほぼ同時期であり、鎮圧完了は少帝在位中のため計上した。

反乱鎮圧日付不詳杨光远の乱(青州)

首謀者: 杨光远

結果: 鎮圧成功。侍卫亲军都虞候・李守貞率いる討伐軍が淄州・青州を攻略、開運元年十二月に杨光远は降伏、閏月に李守貞の命により誅殺(表向きは病卒として上奏)。

旧五代史 天福八年十二月丁卯「青州节度使杨光远反」、開運元年十二月己亥「青州杨光远降」、閏月癸酉「杨光远卒」(実際は「守贞遣人拉杀之,以病卒闻」)による。杨光远は契丹の開運元年侵攻を招き入れた張本人でもある。

被反乱日付不詳安从进の乱(襄州)

首謀者: 安从进

結果: 鎮圧成功(rebellionSuppressionCountと同一事件)

被反乱日付不詳杨光远の乱(青州)

首謀者: 杨光远

結果: 鎮圧成功(rebellionSuppressionCountと同一事件、契丹への内通を伴う)

被反乱日付不詳孙方简の離反(狼山)

首謀者: 孙方简

結果: 未鎮圧のまま在位終了。狼山招收指挥使・孙方简が離反し狼山の拠点を保持したまま契丹に投降、以後鎮圧の記録はない。

旧五代史 開運三年六月庚申朔「狼山招收指挥使孙方简叛,据狼山归契丹」による。粒度差パターン2(未鎮圧のまま在位終了)に該当しrebellionSuppressionCountには含めない。

被反乱日付不詳杜威・李守貞ら諸将の契丹投降と張彦沢の帝都突入・少帝捕縛

首謀者: 杜威・李守贞・張彦沢

結果: 未鎮圧のまま在位終了、少帝の廃位・捕縛に直結。北面行营都招讨使・杜威と都监・李守貞らが中渡橋で全軍を率いて契丹に投降、その配下の相州节度使・張彦沢が契丹の命を受けて先鋒二千騎を率い封丘門を破って京城に突入、少帝を捕縛(のち負義侯に貶封され黄龍府に流された)。

旧五代史 開運三年十二月庚午「杜威、李守贞等以此月十日率诸军降于契丹」、壬申夜「相州节度使张彦泽受契丹命,率先锋二千人,自封丘门斩关而入」による。皇帝の統治下にあった軍司令官(節度使)が兵力を伴って帝都・皇帝を直接攻撃し廃位に至らせた事例であり、本プロンプトの五代十国特有パターン4(将帥による皇帝弑逆・廃位クーデター)に該当するためrebellionSufferedCountのみに計上し、鎮圧主体が皇帝側でないためrebellionSuppressionCountには含めない。

収録基準・各項目の数え方・出典はこのサイトについてを、時代の中での位置は通史年表をご覧ください。